第9章 騎兵時代の終幕

 「そこから下がりなさい」。アランソンは彼女の言葉を何十年も後まで憶えていた。「でないとあの機械に殺されますよ」

 彼女が指さしたのはジャルジョーの城壁に配置されたイングランド軍の火器だった。アランソンは言われた通り、大人しく退いた。その少し後、彼がいたところに立っていた貴族がまさにその火器の放った弾によって殺された。アランソンは彼女の言葉が的中したことに大いに驚き、そしてまた大いに恐れた(01)。彼女の名はジャンヌ・ダルクといった。


 オルレアンの乙女と呼ばれたジャンヌ・ダルクが軍事的に成功を収めることができたのは、彼女が他の軍人たちに比べて火器に詳しかったからだ、という説がある(02)。例えばデュノワはトロワ攻撃の準備をする彼女について、その配置があまりに手早く見事だったため翌朝には町の市民が恐れをなして従ったと話している(03)。実際、彼女がトロワで自ら火器を配置したことは同時代の歴史書にも記されている(04)。またアランソンは、彼女がまるで20年から30年の経験を持っている将軍であるかのように戦争を行い、特に大砲の配置については素晴らしかったと褒めている(05)。

 第7章でも述べた通り、欧州の火薬兵器は当初、国家よりもギルドなどが中心に開発や運用を行っていた(06)。一方、君主や封建諸侯といった支配者層の間では、伝統的に騎兵という兵科と社会的地位とが密接に結びついていたため、火器への対応は遅れ気味だった。特にフランスでは、軍人である貴族たちがむしろ火器を軽んじていたようだ。ジャンヌの時代には、貴族より平民である方が新しい兵器と接点を持ちやすかったと見られる(07)。火器の前にぼんやりと突っ立っていた大貴族アランソンと、彼を注意した平民ジャンヌの逸話は、この時代の兵器と社会階級との関係性を象徴している。

 とはいえ火器の使用で平民が支配者層より優位に立った時代は決して長くなかった。既にジャンヌの時代にもブルゴーニュ公などは率先して火薬兵器を導入済みであり(08)、ジャンヌ自身も最後はブルゴーニュ公の軍勢に捕らえられ、火あぶりになった。国家が火薬兵器を積極的に自らのものとし、同時に自分たちが火薬兵器によって変化を余儀なくされる時代が、いよいよ目の前に迫っていた。


 フランスに本格的な火薬兵器導入を進めたのは、ジャンヌの手によってランスで戴冠式をあげたシャルル7世だった(09)。立役者となったのは彼が1434年に雇い入れたジャン・ビュロー。平民出身で小柄なこの人物は、かつてイングランドの下で火器に関する仕事に長年携わっていたこともあり、シャルルの下でも精力的に働いた(10)。彼の手によりフランス軍は大型ボンバルド、大型キャノン、ヴグレール、セルパンティーヌ、クラポディーヌ、クルヴリヌ、リボードカンといった様々な種類の大砲を取りそろえるようになった(11)。

 ビュローの時代には、数こそ少なかったが岩を削った砲弾ではなく鋳鉄製の弾丸を使うようになったほか、城塞の攻囲に際して効果的に大砲を使う動きが広まったと評価する向きがある。彼が作り上げた砲兵隊の威力があまりに圧倒的だったため、いくつかの城塞は大砲が城壁に向けられただけで降伏したほどだ(12)。百年戦争を終わらせるにあたって、彼はかなりの数の火器を揃え、その力でイングランド軍を敗北に追い込んだ(13)。

 ビュローの貢献もあって15世紀中ごろのフランスは西欧の中でも最も強力でよく組織された砲兵隊を持つようになったが(14)、他の国でも同様に火器を導入する流れが広がっていた。一例は15世紀後半のハンガリー王、フニャディ・マーチャーシュが作り上げた黒軍で、歩兵の5分の1から4分の1は火器を持った兵士で構成されていた(15)。マーチャーシュ王は盾を持った兵士に銃や歩兵の周囲を守らせ、いわば城壁の背後にいるのと同じ戦い方をさせたがっていたという(16)。

 もちろん彼らより先行した国でも、火薬兵器の重要性は増していた。典型例は、当時ほぼ独立国家的な存在として行動していたヴァロア・ブルゴーニュ公で、経済先進地域である低地諸国を押さえていた彼らは火器の分野でもしばしば欧州最先端を走っていた。有名なモンス・メグはスコットランド王に嫁入りする親族のために、フィリップ善良公がモンス(現ベルギー)の大砲職人に用意させた贈り物だ(17)。14世紀時点で火薬兵器を使っていたイングランドも先行していた国の一例と言えるだろう(18)。

 ブルゴーニュ公が残した史料は、当時の火器がどのようなものであったかを知るうえで役に立つ。例えば1412年からヴァロア・ブルゴーニュ家断絶直前の1474年まで製造されていたボンバルドは、岩石を削って作った砲弾を撃ち出す大型の大砲で、実際に撃つ時は地面に直接置かれるか、特製の台の上に設置された。逆に小さな火器の代表がクロヴリヌ。手持ち式のハンドゴンもこの名前で呼ばれており、長さ14センチほどの小さいものと、55-110センチはある大型のものが存在していた。世紀の後半になると、後に火縄銃全体を指す言葉になるアーケブス(hacquebus)という手持ち式の銃も登場している。

 クロポドーは15世紀中盤、セルパンティーヌは同後半に主に製造されていたもので、どちらも口径が小さく砲身が長いのが特徴だが、後者の方がより長く重かった。逆に砲身の短い兵器としてはペトローと呼ばれるものがあった。両者の中間にあたるのがヴグレールと呼ばれる兵器で、こちらは大型、中型、小型と大きくサイズが3つに分かれていた(19)。クルトーと呼ばれる、かなり大型だったことしか分からない兵器もある(20)。

 15世紀後半のイタリアでは、また異なる名前も含む大砲が製造されていた。大型のボンバルダ、臼砲に当たるモルタロ、中型のコムーネやメッツァーナ、2つの部品を組み合わせて大砲とするコルタナ、鉛弾を使う小型のパッサヴォランテやチェルボッターナ、砲身の長いバジリスコ、石弾を撃ち出す大砲としては小型のスピンガルダなど(21)。当時のイタリアには鉄製だけでなく青銅製の大砲も結構あったようだ。

 これらの名称は上にも紹介した通りフランス軍や、またイングランド軍でも見られるものであり(22)、当時の様々な種類の大砲を呼びならわす典型的な名称だったと思われる。銃砲が伝わってからほんの1世紀ちょっとでここまで種類が増え、様々な国に広がりを見せているあたり、やはり中国よりも西欧の方が技術の進歩に適した環境が整っていたのだろう。しかも火器の進化はさらに続いていた。


 15世紀に生じた進化の1つが大砲を乗せる砲車だ。既に同世紀の前半には大きな車輪のついた砲車に大砲を乗せた図が描かれている(23)し、フス戦争時に使われた砲身の短い大砲も2輪の砲車にセットされていた(24)。一方で1つの車両に多くの銃砲を乗せるリボードカンも15世紀には登場している(25)。ブルゴーニュ公の軍ではクルトーやセルパンティーヌ、ヴグレールなどが車両に載せられており、クラポドーがリボードカンに搭載されていたようだ(26)

 初期の砲車には砲身の仰角を調整するため、大砲を乗せた台座の後部を上下させて固定する仕組みや、あるいはねじを利用した角度調整用の装置がついており(27)、砲車に乗せたまま射撃ができるようになっていた。改良も常に行われていたようで、15世紀半ばにはジュネーヴ出身のジリボーという人物がフランス王のために砲車を作ったという話が伝わっている(28)。

 その中でも重要なのは砲耳の発明だろう。砲身の左右に付けられたこの突起は、そこを支点にして砲の仰角を調整できるため、以降の大砲には必ず使用されるようになった機能だ。1465年のリールでの記録に砲耳への言及があり、遅くともその時期には誕生していたのは間違いないが、15世紀前半まで遡る可能性もある(29)。砲耳の登場によって砲車に乗せたまま大砲を使うのがより容易になった。

 大砲そのものも迅速な進化の過程にあり、ブルゴーニュ公の記録にあるような多種多様な大砲も、実はすぐ時代遅れになっていった。これらの砲の中には多くの鍛鉄製大砲やそこから生まれたと見られる後装式火器が含まれていたのだが(30)、前にも述べた通り鍛鉄製大砲はパーツを組み合わせて作るため、隙間が生じ火薬の威力を十分に弾丸に伝えられないという問題があった(31)。火器としての機能面だけ見るのなら、鋳造のため隙間のない青銅製の価値は高く、そのため鍛鉄製大砲が増えた時期にも同時並行で青銅製の大砲は作られ続けていた(32)。

 鍛鉄の利用が増えたのが青銅では高すぎるという「コスト問題」にあったのだとすれば、15世紀に入って国家が火器の製造や運用に積極的にかかわるようになった結果として、その問題が緩和された可能性がある(第7章)。その極端な事例の1つが、コンスタンティノープル陥落時に使われたウルバンの大砲だろう(33)。ドイツ人ともハンガリー人とも言われる彼がオスマン帝国に雇われて製造したボンバルドは青銅製だった。それから11年後にも長さ520センチ、口径63.5センチの巨大なダーダネルス砲が作られている(34)。大国で財政規模の大きなオスマン帝国だから高価な青銅を大量利用するボンバルドを作ることができたとも考えられる。

 加えてコスト面で貢献したのが、鋳鉄製の砲弾の増加だ。鉄製の砲弾自体は14世紀から存在したが、それが増え始めたのは上に述べた通りビュローの頃からで、世紀末にかけてその利用が一般化していった(35)。ヴァロア・ブルゴーニュ公の記録によると早い事例としては1431年のものがあるが、数十から数百発の注文が出るようになったのは1470年代に入ってからで、1478年にはクロヴリヌ用の2万発の鋳鉄製弾丸が発注されるようになった(36)。

 欧州で鋳鉄技術が使われ始めたのは、考古学的証拠から12-13世紀スウェーデンのラップヒッタンに遡ることができる(37)。火器の増加に合わせ、砲丸需要が増えた結果としてこの技術が欧州各地へと広まっていったのだろう(38)。岩石に比べて比重の高い鉄の砲弾が使えるようになった結果、砲弾が小型化したのに合わせて大砲のサイズ自体も縮小でき、使う青銅の量が減ってコストが下がったと見られる。

 大砲のサイズ縮小は他の側面からもコスト削減をもたらした。巨大なボンバルドは移動させる前にまず道路の土木工事から行わねばならず、大量の車両も必要とした。イタリアでは戦場近くの同盟国が持つボンバルドを借りて使用するのが通例だったが、移動や設置に時間がかかるため工兵の雇用にかかわる費用もすぐに膨らんだ。また苦労して運んでも、例えばナポリの重砲は24時間に7発しか撃てず、効率は悪かった(39)。

 青銅の鋳造技術にも進歩が見られた。初期の火器を鋳造したのは鐘の鋳造師たちであり(40)、彼らは鐘と同じように青銅砲の砲口が下部、砲尾が上部に来るように鋳造していた。だが15世紀後半にはこれが逆転。火薬の圧力を最も多く受ける砲尾の部分を、鋳造時に質のいい金属ができる下部を使って形作ることができるようになった結果、青銅砲の耐久性が高まった(41)。一回りして中国と同じ青銅製に戻って来た格好だが、西欧では試行錯誤の結果として威力はずっと大きな兵器が作られるようになった。

 一方、鍛鉄製のままでさらなる発展を遂げたのが銃だ。大砲に比べてサイズの小さな銃は鍛鉄でも隙間なく製造することが容易であり、15世紀に入るとその利用も広がっていた。例えばジャンヌが活躍したその同じオルレアンで、クロヴリヌを持ったジャン親方と呼ばれる狙撃兵が多くの英軍兵士を射殺している(42)。ブルゴーニュ公が多くのクロヴリヌを配備したのも、その有効性が認められたからだろう。

 そして銃も大砲同様、引き続き技術革新が行われていた。15世紀初頭に初期の引き金機構が生まれていたことは既に述べたが(第7章)、ここで大きな役割を果たしたのが火縄の発明。火縄がいつどこで生まれたかはっきりとは分からないが、少なくとも15世紀初頭の欧州に火縄の作り方を記した本が存在していたのは確かである(43)。硝石を溶かした水に縄を漬け、それから乾燥させてつくる火縄は、一度着火すれば簡単には消えず長時間にわたってゆっくりと燃え続けるのが特徴で、容易に長距離を持ち歩ける火種として重宝された。

 明初期の中国兵は、手持ち式の銃に点火するためタッチホールに予め導火線を入れていた(44)。この導火線にどうやって火をつけたかは不明だが、それ以前から使われていた鉄の缶に入れた火種(例えば熾火)を取り出して点火していた可能性はある。導火線は西欧にも伝播していたが、彼らは銃の点火に際しては導火線を使わなかった。代わりに彼らはばねなどを活用し、引き金を引けば携帯式の火種である火縄がタッチホールに押し付けられ、火薬に点火する機構を作り出した。マッチロックの完成である。

 マッチロックを描いた最初の絵は1475年頃のものだ(45)。既に中国は永楽帝後の長い平和と停滞の時期に入り、火薬技術の発達速度は急激に鈍っていた。逆に統一帝国が存在せず、常に戦乱が続いていた欧州では、火薬技術の発展が休まず続き、そしてこの頃には明白に中国を追い抜いて世界トップの水準に到達していた。彼らは火薬革命をもたらす主役に躍り出てきたのである。


 騎兵の時代が終わり、火薬の時代が始まる。それを象徴する戦いとなったのが、ナスル朝グラナダ王国の滅亡だった。キリスト教徒によるイスラム教徒からのイベリア半島奪回を示すレコンキスタの最後を飾るこの戦いは、戦いの主役が騎兵から火薬兵器に移り変わった点でも特徴的だった。

 この戦争が始まるまで、イベリアでの戦いは「十字軍というよりパレード」(46)と言われるほど実効性に乏しいものだった。形の上ではカスティリアやアラゴン(キリスト教)、グラナダ(イスラム教)といった国家は存在していたが、実権を握っていたのは地方の貴族たちであり、彼らはしばしば国王に抵抗して異教徒の地方貴族たちと手を組んだ。諸侯の力が強いという意味では実に中世的な社会だった(47)。

 こうした状況下では強力な軍を送り込んで全面戦争を行なうなどは夢のまた夢。中世的な城塞都市のネットワークを攻略するのは困難で、両者の戦争はほとんどの場合、国境紛争の域を出なかった。その中で目立つ活躍をしたのが騎兵。機動力を生かし、防御網の隙間を縫って襲撃や破壊、略奪を行なう彼らこそが、イベリアでの戦争の主役だったと言っていいだろう。騎兵のそうした戦い方は、カスティリア語とアラビア語の両方で「タラ」と呼ばれるようになるほど、イベリアでは見慣れたものだった(48)。

 それに対し、火薬兵器の準備はどちらも乏しかった(49)。特にグラナダ側は一応、町や村に火器を配置してはいたが、そうした武器はキリスト教国であるイタリアから輸入していた。一方のカスティリアやアラゴンもあまり状況に変わりはなく、戦争が始まる数年前までほとんど大砲を持っていなかったし、自前で製造する能力もなかったため、フランス、ドイツ、イタリアから職人を呼び集めるほどだった。だが1470年代のカスティリア継承戦争の後になると、事態が変わった。アラゴン王フェルディナンドとカスティリア女王イザベラが率いるキリスト教徒側は6万人の常備軍と、何より強力な砲兵を持つようになっていた(50)。

 西欧への伝播から150年強、絶え間なく改良と発展を重ねてきた火薬技術の威力は、キリスト教徒がその使い方に習熟するにつれて凄まじさを発揮し、「タラ」に頼るグラナダ側を圧倒した。1481年に始まった当初はいつもの国境紛争だと思われていた戦いは、1485年には明らかに様相を変え、砲兵の前にすべてが一掃されるようになっていった。ボンバルドが城壁を引き裂き、女たちの叫びと子供たちの泣き声が沸き上がった(51)。その恐怖は各地に広まり、ついには砲兵の準備を見ただけで降伏する町も出てきた。

 1492年1月、グラナダは降伏しナスル朝は滅んだ。それは騎兵の時代の終わりを告げる弔鐘であり、火薬の時代の到来を寿ぐ祝砲だった。そして西欧人たちはその新たな時代の波に乗り、世界に覇を広げていく。第4の軍事革命が始まった。



01 Jules Quicherat, Procès de condamnation et de réhabilitation de Jeanne d'Arc, dite La Pucelle, Tome Troisième (1845), pp96-97

02 Kelly DeVries, The Use of Gunpowder Weaponry by and Against Joan of Arc During the Hundred Years War (1996), pp13

03 Quicherat (1845), pp13-14

04 Jean Chartier, Chronique de Charles VII roi de France, Tome I (1858), pp95

05 Quicherat (1845), pp100

06 彼らのギルドは聖バルバラや聖ジョージを守護聖人としていた; Ed. Clifford J. Rogers, The Oxford Encyclopedia of Medieval Warfare and Military Technology, Volume 1 (2010), pp86

07 DeVries, Joan of Arc: A Military Leader (1999), pp56; Stephen W. Richey, Joan of Arc: The Warrior Saint (2003), pp92; Jack Kelly, Gunpowder: Alchemy, Bombards, & Pyrotechnics: The History of the Explosive that Change the World (2005), pp47

08 DeVries, Gunpowder Weaponry and the Rise of the Early Modern State (1998), pp134

09 DeVries (1998), pp132

10 Thomas Basin, Histoire des règnes de Charles VII et de Louis XI, Tome Premier (1855), pp263-264

11 Jean Chartier, Chronique de Charles VII, roi de France, Tome II (1858), pp237

12 Louis-Napoleon Bonaparte, Études sur le passé et l'avenir de l'artillerie, Tome Deuxième (1851), pp96-100

13 フランス軍の勝利となった1453年のカスティヨンの戦いで、ビュローは300門の大砲を用意したと言われている; Rogers (2010), pp335

14 Favé(1862), pp137

15 Hunt Janin and Ursula Carlson, Mercenaries in Medieval and Renaissance Europe (2014), pp41; Richard W. Bulliet, The Wheel: Inventions and Reinventions (2016), pp159

16 Rogers (2010), pp152

17 DeVries and Smith (2005), pp120-121

18 イングランドではフランスと異なり、15世紀にむしろ火器に対する国家の統制が緩んで地方が力を握ったとの説もある; DeVries (1998), pp139-144。ただしイングランドの大陸領土であるカレーの動向を見る限り、15世紀に入っても英国王の火器に対する支配は緩んでいないという反論もある; David Grummitt, The Defence of Calais and the Development of Gunpowder Weaponry in England in the Late Fifteenth Century (2000)

19 ヴグレールは砲身と薬室が分かれている石弾を撃ち出すタイプの後装式大砲だったが、後の時代になると薬室のみを前装式の大砲として鋳鉄製砲丸を撃ち出すような使い方もなされるようになった。Klimek et al. (2013), pp87

20 DeVries and Smith (2005), pp203-238

21 Fabrizio Ansani, 'This French artillery is very good and very effective'. Hypotheses on the diffusion of a new military technology in Renaissance Italy (2019), pp358

22 Anne Curry, Guns and Goddams: was there a Military Revolution in Lancastrian Normandy 1415–50? (2010)

23 Janusz Stępiński et al., The Light Field Cannon from Kurzętnik – A Unique Example of Medieval Artillery (2013), Fig. 22; Grzegorz Żabiński et al., A copper alloy light cannon from Grodno: an example of early firearms from Eastern Europe (2021), Fig. 8

24 Szymon Górski and Ewelina Wilczynska, Jan Žižka’s wagons of war: How the Hussite Wars changed the medieval battlefield (2012), pp29

25 14世紀の記録にもリバルドと呼ばれる兵器があり、リボードカンのように多くの銃砲を搭載したものだとの説もある; T.F. Tout, Firearms in England in the Fourteenth Century (1911), pp670。ただしそれらは実際は槍で武装した車両を指すという批判もある; Dan Spencer, The Development of Gunpowder Weapons in Late Medieval England (2016), pp36

26 DeVries and Smith (2005), pp219-236

27 Stępiński et al. (2013), Fig. 23

28 Mathieu d'Escouchy, Chronique de Mathieu d'Escouchy, Tome Troisième (1864), pp381-382

29 R. Coltman Clephan, Early Ordnance in Europe (1904), pp30。1437年のブルゴーニュ公の銃砲に関する記録に「支点の周囲を回転する」との一文があり、これが砲耳を示している可能性もある; Joseph Garnier, L'artillerie des ducs de Bourgogne: d'après les documents conservés aux archives de la Côte-d'Or (1895), pp121

30 Partington (1960), pp110

31 Military Science In Western Europe In The 16th Century (2003)

32 ブルゴーニュ公の記録にある銃砲を見ると、どちらの素材も使用されている; DeVries and Smith (2005), Appendix 1。ドイツ騎士団ではむしろ青銅製や銅製の火器の方が多かったようで、14世紀末から16世紀初頭にかけて記録に残っている火器の65%以上を青銅製や銅製が占めている; Żabiński (2021)

33 Marios Philippides and Walter K. Hanak, The Siege and the Fall of Constantinople in 1453 (2011), pp391。ウルバンの大砲はその破壊力だけでなく、巨大な砲声による心理的なインパクトを及ぼしたとの説もある; Aristotle Kakaliagos, Damage and failure of Orban’s gun during the bombardment of Constantinople walls in 1453 (2019), pp488

34 The Engineer, August 21, 1868, pp146

35 Rogers (2010), pp85; DeVries and Smith, Medieval Weapons (2007), pp200; Louis Figuier, Les Merveilles de la science ou description populaire des inventions modernes (1867), pp327

36 DeVries and Smith (2005), pp254

37 Robert B. Gordon and Terry S. Reynolds, Medieval Iron in Society-Norberg, Sweden (1986), pp110

38 もちろん欧州内でも地域によってはもっと遅くまで石弾が使われており、例えばポーランドのオルシュティンで発見された1480年以降に建造されたとみられる塔の遺跡からは、花崗岩を中心とした石弾が見つかっている。またこの遺跡からは粘土製の砲弾という珍しい物も出土している; Piotr Strzyż et al., Cannonballs from the Olsztyn Turret (2015)

39 扱いづらい大型砲の代わりにより小型の大砲が必要だとする声は、砲車に乗せた大砲を使ったフランス軍がイタリア半島を席巻した1494年のイタリア戦争以前から出ており、例えば1460年代には既に実験的に砲車に乗せた大砲が登場している; Ansani (2019), pp366-367

40 Ruth A Johnston, All Things Medieval: An Encyclopedia of the Medieval World, Volume 1 (2011), pp61

41 DeVries and Smith (2012), pp154

42 L'Histoire et discours au vray du siege qui fut mis devant la ville d'Orleans, par les Anglois, pp12-13, 14, 18, 22-23, 50, 101

43 Das Feuerwerkbuch, 217

44 第8章参照。明初期の文献にも手持ち式の銃の点火口に導火線が描かれている事例が多い; 火龍経巻中, 下

45 Clephan, An Outline of the History of Gunpowder and That of the Hand-gun, from the Epoch of the Earliest Records to the End of the Fifteenth Century (1909), pp169

46 Weston F. Cook Jr., The Gannon Conquest of Nasrid Spain and the End of the Reconquista (1993), pp48

47 Cook Jr. (1993), pp52-55

48 Cook Jr. (1993), pp48

49 イベリア半島では12世紀から火薬兵器が使われていたとの説が、かつては唱えられていた; Francis Rawdon Chesney, Observations on the past and present State of Firearms (1852), pp42-43。ただしこれらは古い史料の用語解釈に問題がある事例が多く、最近の研究者はそうした説に否定的である; Partington (1960), pp190-193; Ágoston (2005), pp15

50 Cook Jr. (1993), pp50

51 Cook Jr. (1993), pp62

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