第2部 始まり

第10章 地上の星

 地中海にほど近い北イタリア・サルザーナの町を見下ろす丘の上に、サルザネッロ要塞がそびえている。15世紀末から16世紀初頭に建造されたこの要塞は、中央に正方形の塔、3つの円塔を持つ城壁、そして三角形にとがった「原始的な稜堡」を構えた、中世と近代初期の両方の特徴を備えているまさに移行期ならではの存在だ(01)。この稜堡はイタリア語でリヴェリーノ、英語でラヴリン、日本語では三角堡と訳されるもので、16世紀以降に広まるルネサンス式要塞(日本でいえば五稜郭のような要塞)で広く採用された防御施設である。そして設計したのはレオナルド・ダ・ヴィンチだ、という説がある。

 多芸多才なダ・ヴィンチが、要塞の設計者としても知られていたのは有名(02)。彼が1500/01年に記した図の中に、サルザネッロの三角堡と見られるものが描かれているのが、この説の論拠だ(03)。またスイス・イタリア国境にあるロカルノの町には、同じく初期の三角堡(1507年築造)を持つヴィスコンティ城が存在するが、こちらの稜堡もやはりダ・ヴィンチの描いた図が残されている(04)。このルネサンスの巨匠が、当時まさに花開いていた火薬革命にもかかわりを持っていたことを示す一例だ。

 イタリアで急速に広まったこの新しいタイプの要塞は、その時代を表す用語と組み合わせて「ルネサンス式要塞」、あるいはその形状から「星形要塞」などと呼ばれた。一見して派手な形状もあってか、そのうちいくつかはUNESCOの世界遺産にも選ばれているが、星形の姿は別に華やかな外見を求めて作られたものではない。敵の攻撃から身を守り、接近する敵を効率よく殺す目的で建造されたのがルネサンス式要塞だ(05)。破壊力を増した火薬兵器が15世紀に次々と城塞を落としていくのを見たダ・ヴィンチらが、それに対抗すべく生み出した、文字通り戦争のための道具である。


 もちろん火薬兵器と同様、ルネサンス式要塞にもそこに至る前史がある。欧州に火薬兵器が伝播した14世紀当初から、欧州の要塞ではまず城壁に銃眼を設ける動きが始まった。続いて銃砲を設置するための塔が建造されるようになり、防御側から効果的な銃撃を浴びせることで敵をできるだけ接近させないようにする取り組みが進んだ。また城壁の外にさらに盾となる別の壁を設置し、攻城兵器がもたらすダメージを減らそうとする動きもあった。

 だが城塞の基本は中世と同じ、高い石造りの城壁に頼っていた。15世紀後半になるとこの方法では砲撃に耐えられなくなり、加えて曲線の多い円塔を使う城塞だと守備側から死角になる場所も出てくることが問題になった。様々な解決策や実験が試みられ、それが最終的に形を成してきたのが1500年頃。最初の完成形ではないかと見られるのが、1480年以降に聖ヨハネ騎士団がロードス島に築き上げた要塞で、その中身は異なる形とサイズの稜堡、中世の城壁を守るための外郭防衛施設、巨大な壕と敵を近づけないための砲台などで構成されていた(06)。

 中でもルネサンス式要塞の特徴と見られるのが鋭角の稜堡を持っているかどうか。こうした稜堡のアイデア自体は15世紀半ばには生まれていたとの説もあるが(07)、明白に理論化されたのは同世紀後半から末期にかけて(08)。イタリアでは1487年に建造されたと見られるトスカナのポッジョ・インペリアーレが城壁と鋭角の稜堡を組み合わせた古い事例と見られている(09)。16世紀に入ると本格的にこうした要塞が増え、1530年代にはイタリア全土でおよそ50のルネサンス式要塞が存在していた(10)。

 これらの要塞では中国の分厚い城壁のように(第7章)主に土を利用した厚みのある城壁が作られた。中世風城塞の薄い壁では火力を増した砲弾の衝撃には長く耐えられなかったからだ(11)。そうやって敵の火力を支える一方、死角をなくし接近する敵に十字砲火を浴びせられるよう幾何学的な計算を重ねた形状が採用された。16世紀にはこうした計算について知見を蓄えた専門家も生まれ、その提案に基づいて実際に稜堡が作られることもあったようだ(12)。

 もちろん、実際に建造するとなると色々な困難もあった。例えば城壁として防御力のある土を使うと簡単に言ったが、実際の築造に際しては木材や枝と組み合わせ、砲弾の衝撃に対する強度を高めるように工夫する必要があった。土だけで作るのではなく石積みと土塁を組み合わせる手法もあったし、また守備側の大砲を守るためにガビオン(籠の中に石を詰めたもの)を配置するといった対応も行われた(13)。

 実際に建造にあたる職人にとって、ルネサンス式要塞作りは一大土木事業であった。作る前には大量の図面を用意しなければならなかったし、その中には寸法や材料について詳細に書き込むのが普通だったという。また多額の経費負担を賄う数多くのスポンサーたちを納得させる必要もあり、そのために模型を作成しそれを使った説明が何度も行われたようだ。建造に際して交わされる契約書には、壕や土台、石壁など建造する部分ごとに金額が定められた。もちろん作業が始まってからも大変で、時には石灰モルタルや水の不足といった事態にも直面した(14)。

 苦労したのは材料の用意だけではない。建造作業にあたる人手の確保もまた大事業だった。16世紀のオランダではスペインとの戦争もあってルネサンス式要塞の需要が急増。1530年代には25ヶ所の要塞建造のため1520年代の7倍の経費が必要になったし、1540年代にはさらにその5倍、1550年代になるとそこからさらに2倍に費用が拡大した(15)。建造に必要な人手は少ない時は数十人で済んだが、多い時は数千人を必要としたという。

 7万人の住人がいるアントワープでは週に1回、各世帯から1人の労働者を駆り出して1日あたり2000人の労働者を確保した。1555年のフィリップヴィユでの要塞建造に際しては、賃金を2割増やして5000人の労働者確保を目指したが、それでも守備隊が入るまでに工事が終わらなかった。逆に6週間で要塞を解体するため8000人が必要とされたのに3000人しか集められなかったケースもある。土木作業を行なう人員が欠かせなかったため、3万人の兵士に対して3000人の非熟練労働者がいるなど、この当時の軍は1割くらいが作業員によって占められていたという(16)。

 もちろんこうした経費の増大は国家にとっても負担が大きく、それが国家そのものの変貌をもたらしたというのがパーカーの説だ。一方でルネサンス式要塞がもたらす軍事的な効果も大きく、特に欧州外では要塞こそが西欧に覇権をもたらす「エンジン」になったとの説もある(17)。その典型例の一つが鄭成功による台湾征服時の出来事。1661年にオランダが支配するゼーランディア要塞を攻撃した鄭の軍は、最初の襲撃時にその効果的な防衛システムを前に大量の損害を出して撃退されている。中国の城壁はルネサンス式要塞と同じように分厚かったが、十字砲火を浴びせるような形状にはなっていなかったため、鄭の軍はその能力を十分に理解していなかったようだ(18)。最終的にこの要塞を落とす際にも、鄭らは西欧人の助言を必要とした。

 シベリアにあるアルバジン要塞でも同じことが起きた。1686年、清軍がこの要塞に立てこもるロシア軍を攻撃した際には、まず砲撃を浴びせたうえで兵士たちが城壁へと襲い掛かったが、多大な損害を出して何度も撃退された。時にはロシア軍が城内から出撃して捕虜を奪う場面もあったという(19)。火薬の故地である中国の軍勢を相手にこれだけの効果を上げた点からも、西欧の火薬派生技術が中国を凌駕していたのが分かる。

 もちろん欧州内でも要塞の持つ効果は大きかった。少なくともルネサンス式要塞の登場により、百年戦争末期におけるフランスや、ナスル朝を滅ぼした時のスペインのように、中世風の城塞を破壊しながら一方的に相手を征服することは難しくなった。ルネサンス式要塞は歩兵の大軍を長期にわたって拘束する力を持っており、そのため日本の戦国時代のように強国が力の差を生かし雪玉のように膨れ上がっていく現象は西欧では生じなかったとの説もある(20)。

 このためルネサンス式要塞はその後も広く採用され、各地に次々と建造されていった。その頂点と言える存在が、17世紀のフランスで活躍したヴォーバンだろう。技術将校としてルイ14世に仕えた彼は数多くの要塞群を作り上げたが、それらは町の周囲にも多数の外郭設備を持つ複雑なものと化していた(21)。一方でそれだけ効果も大きく、ヴォーバンが築き上げた要塞群はフランスの国境防衛に役立ち、戦争の行方を変えるだけの力を持っていたと評価されている(22)。


 だが当然ながら要塞だけでは戦力にはならない。それを守る兵と、その兵が諦めずに戦う士気を持ち合わせていなければ、ルネサンス式要塞は単に贅沢な飾り物にとどまった。そして守備兵の士気を高めるのは、援軍が来て救出されるであろうという希望に拠るところが大きかった(23)。つまり生き残りのためには要塞だけでなく野戦軍の戦闘能力向上も求められており、そのため野戦用火器の技術革新も継続して取り組まれた。

 16世紀になって新たに広まったのは大砲の口径標準化だ。15世紀の大砲では岩石を削って砲丸にするものが多数あったが、鋳鉄製の砲丸が増えるに従い同じサイズの砲丸を容易に作れるようになったため、それを撃ち出す大砲の口径も揃えようとする動きが広まった。16世紀前半の神聖ローマ皇帝カール5世は7つの規格に、同半ばのフランス王アンリ2世は6つに、それぞれ口径のサイズを限定しようと試みた(24)。残念ながら常に同じ鋳型が使われたわけではなく、古い大砲や敵から奪ったものも使っていたため、実現はかなり難しかったようだ。

 それでも16世紀も後半になるとそうした国家の努力が実を結び、ある程度の標準化が進み始めた。英国ではエリザベス1世の時代にロビネット、ファルコネット、ファルコン、ミニオン、セイカー、デミ=カルヴァリン、カルヴァリン、デミ=キャノン、キャノン、バジリスクといった名称の大砲が登場し、それぞれ口径が(3.8センチから22.2センチまでのサイズで)決まっていた。一方、17世紀初頭のフランスにはフォーコノー、フォーコン、モエンヌ、バタール、クルヴリヌ、キャノンなどと呼ばれる大砲があり、やはりサイズごとに呼び名が決まっていた(25)。

 また16世紀のスペインにはエスメリル、ファルコネーテ、ファルコン、パサヴォランテ、メディア・サクレ、サクレ、モヤナ、メディア・クレブリナ、テルシオ・デ・クレブリナ、クレブリナ、クレブリナ・レアル、ドブレ・クレブリナ、カニョン、セルペンティーノ、ロンバルダ、バジリスコなど、砲弾重量で230グラム弱から36キロ以上まで、サイズごとに色々な大砲が存在していた(26)。砲弾を基準とした大砲の規格化が様々な国で進んだことが分かる。

 鋳鉄製の大砲も16世紀に実用化が始まった。実のところ15世紀の時点でブルゴーニュ公の史料には鋳鉄を使った火器についての記録が登場していたが、それらはおそらく実験的な兵器だったと思われる(27)。実際に安定して生産できるようになったのは1540年代のイングランドが最初で、それから17世紀にかけて少しずつ他の国でも量産が行われるようになった(28)。

 鋳鉄のメリットはもちろん価格にある。1570年のイングランドでは鉄製の大砲が10-20ポンドの価格だったのに対し青銅製は40-60ポンドもかかっていたし、1670年になるとその価格は15ポンドと180ポンドまで差が広がった。また青銅と異なり鋳鉄砲は砲撃頻度が高まってもすぐには熱を持たなかった。一方で前にも述べた通り、鋳鉄には衝撃に弱いという問題もあった。青銅砲が暴発する時は砲身に沿って裂ける傾向があったのに対し、鋳鉄砲は粉々に砕け散ることが多く、砲兵に及ぼす被害も後者の方が大きかった(29)。

 こうした問題を避けるため、鋳鉄製の大砲は青銅製に比べて砲身をより肉厚に製造されるのが一般的だった。当然、同じ砲弾サイズの青銅砲に比べれば重くなるため、野戦砲としては利便性に劣る。だが砲台に設置したまま動かすことのない要塞砲や艦船に搭載する大砲には向いていたため、その利用は16世紀以降、少しずつ増えていった(30)。


 銃もさらに進化を続けていた。例えば15世紀に生まれたマッチロックは、大きく2つの種類に分かれていた。それぞれシア式(緩発式)とスナップ式(瞬発式)と呼ばれるもので、前者は火縄を挟むハンマーを火皿から遠ざけるように、逆に後者は近づけるようにばねが働いているのが特徴だ。前に紹介した最も古いと思われるマッチロックの絵(第9章)は、おそらくばねが効いている状態でハンマーが火皿から離れているためシア式であろう。シア式のマッチロックは引き金を引いてばねを押さえ込むことで点火する。この方式はドイツからオスマン帝国などに広がった(31)。

 一方スナップ式は持ち上げたハンマーを留め金で固定。引き金を引くとその留め金が外れ、ばねの勢いでハンマーが火皿に落ちるという格好で点火する。日本に伝わった火縄銃がこの形式で(32)、こちらもおそらく15世紀後半から末期にボヘミアで誕生し、イタリアで大量生産されるようになり、またヘンリー8世時代(15世紀末から16世紀前半)の英国でも使用されていた(33)。さらにこの銃はポルトガルがボヘミアから数多く輸入していた(34)。

 ただ欧州ではやがてシア式の使用が一般的となり、スナップ式は廃れていった。シア式に比べて高価なのに加え、引き金を引いた際の反応の良さなどから、狙いをつけて撃つことが多い狩猟用として好まれるようになったのが一因だろう。一方、射撃のたびにハンマーが火皿に叩きつけられるスナップ式は、その勢いでしばしば火縄の火が消えてしまったため、兵士には好まれなかったとの説もある(35)。欧州で最後にスナップ式のマッチロックが製造されたのは17世紀後半で、貴族の狩猟用に作られたものだった。

 火縄を使わない点火機構も16世紀には生まれていた。代表例がホイールロックと呼ばれる仕組みで、ぜんまいを使って歯車を回転させ、火打石にこすりつけることで点火する(36)。マッチロックに比べると仕組みが複雑で部品も多く、価格が高くなったうえに壊れやすい火器でもあった(37)。だが火縄を使わずに済むというメリットもあり、特にホイールロック・ピストルは馬上で火種を扱うのが困難な騎兵に好まれた。最初はドイツ騎兵が採用したピストルは、やがて西欧の他地域にも広まっていった。

 西欧の騎兵がピストルの利用を増やして白兵戦用の武器使用を減らしたことについて批判する後の歴史家もいるが(38)、1597年のトゥルンハウトの戦いや1600年のニーウポールトの戦いのようにピストルで武装した騎兵が敵騎兵を打ち破った例もあり、ピストルはそれだけ有効だったとの主張も存在する(39)。イングランド内戦で行われた1642年のエッジヒルの戦いでは、主に騎兵が戦ったと思われる場所を中心に295発ものピストル弾が発見された(40)。かつて第3の軍事革命を主導した騎兵も、今や第4の軍事技術(火薬)に頼る時代になりつつあった様子がうかがえる。

 それだけではない。16世紀の中頃までには後にフリントロックにつながる火器、つまり火打石を当たり金に叩きつけて火花を作る方法で点火する機構すら登場していた。最初に現れたのはスナップロックと呼ばれる仕組み(41)。スナップ式マッチロックのハンマーに火縄ではなく火打石をセットし、引き金を引くとばねの力で火打石が金属に叩きつけられる、という機構だ(42)。

 この機構はさらに様々な派生型を生み出していく。当たり金と火皿と一体化したメディテラニアンロック、オランダから欧州各地に広まったスナップハンス(43)、スペインの工房が製造したミケレットロック、17世紀の英国で生まれたドッグと呼ばれる部品でハンマーを固定できるドッグロック(44)、そして17世紀初頭にフランスで生まれた「真の」フリントロックなどだ(45)。フリントロックが広く使われるようになるには時間がかかったのだが、発明自体はかなり短期間で進んだことが分かる。

 もう一つ、第7章でも触れた製造コストの削減も継続的に進んでおり、近代以降になると欧州以外のユーラシア各地に対するコスト面の優位が明白になっている。例えば17世紀前半における中国とフランスのマッチロック製造コストを比較すると、前者は後者に比べて3.5-5.5倍ものコストがかかっていた。19世紀初頭になってもインドでの銃の製造コストは英国に比べて1.5倍ほど高く、火薬技術における西欧の優位がかなり根深いものだったことが窺える(46)。


 欧州における急速な銃の技術発展は、その利用の急増にもつながった。まず取って代わられたのが他の飛び道具、つまり弓矢やクロスボウだ。16世紀の前半には欧州大陸でクロスボウの軍事利用は行われなくなり(47)、百年戦争の栄光の記憶がある英国でも1572年にクロスボウの(48)、1595年には長弓の使用が終焉を迎えた(49)。16世紀末には外国での従軍経験のある英国人が、「弓矢は火器に比べて効果的でない」と指摘する本を書くに至っている(50)。

 新技術を使いこなす軍人も現れた。1503年、スペインのゴンサロ・デ・コルドバは南イタリアのチェリニョーラでフランス軍を相手に火器を使って勝利を収めた。フランス軍の騎兵が、次いで歩兵が前進してきたが、塹壕を前に足止めされている間にスペイン軍のアルケブス(火縄銃)が一斉射撃を浴びせ、これに大損害を与えたのだ(51)。彼はこうした実績を基に「偉大な隊長」と呼ばれるようになった。

 だがより重要なのは、この時期にスペインが火器のシステマチックな利用を想定した軍を編成した点にある。既に1496年から彼らは軍の改革を進めていたが、そこで中心になったのはコロネリャスと呼ばれる部隊。パイク(長柄槍)を持った兵に、クロスボウまたは銃で武装した兵士を組み合わせたもので、これが後に発展して有名なテルシオになった(52)。テルシオは方形の隊列を組んだパイク兵と、その周囲に展開する銃兵で構成されており、銃兵は射撃を行って敵を攻撃し、パイク兵は騎兵が突撃してきた時に銃兵を守る槍衾を形成した(53)。

 テルシオのようにパイクと銃を組み合わせた歩兵部隊は17世紀いっぱいまで広く欧州の戦場で使われた(54)。この時代はマッチロックが主に戦場で使用されていた時代とも重なっており、いわばこの方法が当時の最先端の戦術としてかなり広範囲に受け入れられていた。

 ただしこの期間中も常に変化は起きていた。例えばドイツでは16世紀のはじめに歩兵の1割を占めていた銃兵が1540年代のシュマルカルデン戦争では3分の1に、1570年代には2分の1に達し、1588年には6割にまで増えたという(55)。英国の場合はそれより遅れ、1540年代でも銃兵はまだ1割以下しかいなかったが、1550年代後半には4分の1に届き、世紀末には半数に到達した(56)。17世紀になってもこの流れはとどまらず、世紀の半ばにはパイク兵1に対し銃兵が2に、1690年代には1対4にまで銃兵の割合が高まっている(57)。

 部隊構成だけでなく、銃を使った戦術も進歩した。既に中国で行われたと見られている交代射撃もその1つだ(第8章)。ただしマウリッツが1590年代に導入したと言われている、射撃を終えた兵が列の最後尾に回ってそこで装填を行なう「カウンターマーチ」(58)は、決して欧州最古の事例とは言えないようだ。例えば1587年に死去した英国人が、自著の中でまさにカウンターマーチと同じ方法を説明しているし、他にもマウリッツより古い様々な事例がある(59)。ピストルを手にした騎兵が順番に射撃を行なう「騎兵版カウンターマーチ」とでもいうべきカラコール戦術も、1570年代までには存在していた(60)。

 1526年のモハーチの戦いを描いた16世紀の絵画には、前列の兵が装填中で後列の兵がその隙間から銃を構えて撃とうとしている姿が描かれており、これも交代射撃の一種だとする説がある(61)。さらに遡れば1522年のビコッカの戦いについて記した16世紀の歴史書の中に、前列は撃った後にしゃがんで装填をし、その間に後列が射撃をする手法も紹介されている(62)。装填に時間のかかるこの時期の銃が持つ弱点をカバーするために工夫する動きが早くから生まれ、広がっていた様子がうかがえる。


 注意しておくべきなのは、こうした16世紀以降の発展の多くが火薬兵器そのものではなく、そこからの派生分野で生じている点だろう。ルネサンス式要塞はまさにそうだし、銃兵の比率増加や戦術の工夫といった分野も同様。一方、火薬兵器自体は15世紀までに大砲と銃という基本形はほぼ固まっており、この章で新たに進んだ改良は鋳鉄製大砲の登場や点火機構の発展など、追加的な要素が中心となっている。

 要塞が巨大な経済的負担をもたらしていたのは上に指摘した通り。また新兵器の有効活用が進むことで戦争の強度が増し、それがターチンの言う通り社会の複雑さを増す効果をもたらした(第1章)。まさにロバーツやパーカーが述べる通り、火薬技術の発展が兵器そのものの発展という枠を超え、社会や国家まで変え始めたのがこの時代だ。

 だがこの章で紹介したのはその一部にすぎない。軍事革命が世界にもたらした影響を理解するためには、陸だけでなく海にも目を向ける必要がある。



01 Konstantin Nossov, The Fortress of Rhodes 1309–1522 (2012), pp15

02 彼だけでなく、ミケランジェロやドイツの画家であるアルブレヒト・デューラーなども要塞のデザインに携わっていた; Harold A. Skaarup, Siegecraft (2003), pp91; Christopher Duffy, Siege Warfare: The Fortress in the Early Modern World 1494-1660 (2013), pp4, 20, 41

03 Marino Viganò, Das "Rivellino" von Locarno (1507) : Leonardo da Vinci im Tessin? (2007), pp37

04 Viganò (2007), pp38

05 ルネサンス式要塞が主に直線で構成されているのは、真っすぐ伸びる守備側の射線から死角になる場所を作らないため; A. Acosta Collazo, Mexican fortresses built in the 16th century. Morphology of maritime heritage and historic arsenals preserved (2015), pp629-630

06 Christof Krauskopf and Peter Purton, From the Tower to the Bastion (2020)

07 Parker, The Military Revolution: Military Innovation and the Rise of the West (1996), pp8-9。ただしこの1440年に書かれたレオン・バティスタ・アルベルティのDe Re Aedificatoriaは、必ずしも火器の利便性を考えたものではなく、ギリシャ・ローマ時代の要塞思想を復活させたものだとの指摘もある; Robert T. Vigus, Fortification Renaissance: The Roman Origins of the Trace Italienne (2013), pp6

08 Francesco di Giorgio Martini, Trattato di architettura civile e militare (1841)。この文章は1475年から1495年の間に完成したという; Elizabeth M. Merrill, The Trattato as Textbook: Francesco di Giorgio’s Vision for the Renaissance Architect (2013)

09 J. R. Hale, Renaissance War Studies (1983), pp17

10 Frank Jacob and Gilmar Visoni-Alonzo, The Theory of a Military Revolution: Global, Numerous, Endless? (2015), pp192

11 Siro Casolo et al., Analysis of Damage Due to Artillery Strikes on Two Types of Fortress Typical of the Middle Ages and of the Renaissance Periods (2019), Figure 1 12 Sandro Parrinello & Silvia Bertacchi, Geometric Proportioning in Sixteenth-Century Fortifications: The Design Proposals of Italian Military Engineer Giovanni Battista Antonelli (2015)

13 Simon Pepper, Sword and Spade: Military Construction in Renaissance Italy (2000), pp22-24

14 Pepper (2000), pp18-20

15 Pieter Martens, Construction and Destruction of Military Architecture in the Mid-16th-Century Low Countries: Some Observations on Labour Force (2006), pp2114

16 Martens (2006), pp2118-2119

17 Andrade, An Accelerating Divergence? The Revisionist Model of World History and the Question of Eurasian Military Parity: Data from East Asia (2011), pp199

18 Andrade (2011), pp200

19 Andrade (2016), pp225-226

20 Chase (2003), pp184

21 Pavao Nujić, The Vauban Approach and Slavonia (2018), pp261

22 およそ100年後の1793年にもヴォーバンの要塞群がフランスを救ったとされている; US House of Representatives Committee on Military Affairs, Permanent Fortifications and Sea-coast Defences (1862), pp317

23 16-17世紀のイタリア中小諸侯の中には「みせびらかし消費」のためにルネサンス式要塞を建造したが、それに釣り合う野戦軍を整備できず、むしろ近隣大国を警戒させその介入を招いただけという事例がいくつかある; David Parrott, The Utility of Fortifications in Early Modern Europe: Italian Princes and Their Citadels, 1540-1640 (2000)

24 Military Science In Western Europe In The 16th Century (2003)

25 Clephan (1904), pp53-57

26 Manucy (1994), pp34-36。ただしこの時代の大砲については史料ごとに数値が微妙に違っている; Thomas Dudley Fosbroke, Encyclopedia of Antiquities, Vol. II. (1843), pp910; John Harris, Lexicon Technicum: Or, An Universal English Dictionary of Arts and Sciences, Vol. I. (1725), Ordnance

27 DeVries and Smith (2005), pp21-22

28 Jeremy Black, European Warfare, 1494-1660 (2002), pp175

29 Chuck Meide, The Development and Design of Bronze Ordnance, Sixteenth through Nineteenth Centuries (2002), pp9

30 War at Sea and in the Air (2012), pp10

31 J.J.L. Gommans, Mughal Warfare: Indian Frontiers and Highroads to Empire 1500–1700 (2002), pp155

32 荒野泰典, ‎石井正敏, ‎村井章介, アジアの中の日本史, 第6巻 (1993), pp163

33 Hyeok Hweon Kang, The Korean Snap Matchlock: A Global Microhistory (2022), pp32

34 Rainer Daehnhardt, First Steps Towards an Introduction into the Study of Early Gunmaking in the Portuguese World, 1450–1650 (1977), pp3

35 Syed Ramsey, Tools of War: History of Weapons in Early Modern Times (2016)

36 Cornelius Stevenson, Wheel-Lock Guns and Pistols (1909), pp8

37 Jeff Kinard, Pistols: An Illustrated History of Their Impact (2003), pp16

38 例えばオマーンはピストル騎兵が使うからコール戦術を「有害な慣習」と決めつけている; Charles Oman, A History of the Art of War in the Sixteenth Century (1937), pp86-87

39 James A. Davis, The Evolution of Cavalry during the Military Revolution: The English Experience 1572-1604 (2015), pp15

40 Glenn Foard and Richard Morris, The archaeology of English battlefields: conflict in the pre-industrial landscape (2012)

41 S. James Gooding, A Note on Flint-locks, and the Flintlock (2012), pp31

42 Arne Hoff, What Do We Really Know about the Snaphaunce (1970), pp12

43 Hoff (1970), pp13-14

44 Kinard (2003), pp22-24

45 Torsten Lenk, The Flintlock, Its Origin, Development, and Use (2007), pp26-37

46 Hoffman, Prices, the military revolution, and western Europe's comparative advantage in violence (2011), pp52

47 Ralph Payne-Gallwey, The Book of the Crossbow (1995), pp48

48 Text Book on the Theory of the Motion of Projectiles (1863), pp98

49 Michael S. Neiberg, Warfare in World History (2001), pp40

50 Robert Barret, The theorike and practike of moderne warres (1598), pp2-3

51 William Hickling Prescott, History of the Reign of Ferdinand and Isabella the Catholic, Vol. III (1904), pp344。16世紀に書かれた当時の年代記にもアルケブス(arcabuzazo)の文字がある; Antonio Rodriguez Villa, Crónicas del Gran Capitán (1908), pp160

52 Rogers (2010), pp353

53 József Kozári and Sándor Vizy, The Development of Infantry Firearms and its Impact on Army Tactics (2013), pp187

54 これをpike and shotと呼ぶ; Keith Roberts, Pike and Shot Tactics 1590–1660 (2010)。パイク兵と銃兵の配置は時代や国によって異なっていた; André Schürger, The Archaeology of the Battle of Lützen: An examination of 17th century military material culture (2015), pp102

55 Hans Delbrück, The Dawn of Modern Warfare, Volume IV (1990), pp147-148

56 George Gush, Renaissance Warfare (1982), Part 6。この他に16世紀初頭にパイク兵と銃兵は4対1の比率だったが、世紀末には1対1に近づいたとの説明もある; Chase (2003), pp62

57 MacGregor Knox and Williamson Murray, The Dynamics of Military Revolution, 1300-2050 (2001), pp37

58 Andrade (2016), pp146-147

59 William Garrard, The arte of warre (1591), pp111-112; Geoffrey Parker, The Limits to Revolutions in Military Affairs: Maurice of Nassau, the Battle of Nieuwpoort (1600), and the Legacy (2007), pp337。スペインのエギルスは1586年に執筆し、1592年に出版したMilicia, Discurso y Regla Militarの中で、カウンターマーチ戦術の他に兵士の訓練やテルシオにおけるマスケット銃兵を増やす必要性などを唱えている; Fernando González de León, The Road to Rocroi (2009), pp128-129

60 Jean de Saulx-Tavannes, Mémoires de Tres-Noble, et Tres-Illvstre Gaspard de Savlx (1653), pp269

61 Lee (2016), pp241-242

62 Paolo Giovio, La vita del signor Don Ferrando Daualo Marchese di Pescara (1557), pp61

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