第11章 浮かべる城ぞ

 後に航海王子と呼ばれるようになったポルトガルの王子エンリケは知識に貪欲だった。ヴェネツィアで手に入れたマルコ・ポーロの直筆手稿をはじめ多くの文章や地図を入手し、また航海術や造船技術など様々な先進技術の持ち主を欧州各地から集めてサグレスに航海学校を開いた。この学校で学んだ者たちがアフリカ沿岸の探索を始め、それが後にヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路の発見にまでつながった……(01)。


 15世紀前半の人物であるエンリケ航海王子に関するこうした逸話は、その多くが史実ではないと考えられている。例えばエンリケがサグレスという土地に関与するようになったのは彼が死亡するたった3年前になってからだし、そこに航海学校が作られたという話は1625年に初めて登場した。彼が招いたと言われている航海術の専門家は彼が活動を始める前に死んでおり、地図を集めていたという話も具体的証拠はない。彼が生きている間にポルトガルがアゾレス諸島やカボ・ボハドール(西サハラ)までの航路を開拓したのは確かだが、彼の功績とされているものの多くは後世に作られたものだ(02)。

 実際にエンリケは何をしたのだろうか。彼がまだ若かった1415年、ポルトガルはアフリカのセウタ(ジブラルタル対岸)を奪った。この件は彼らが外洋へと進出する最初のきっかけになったが、エンリケはセウタのようなアフリカの町を異教徒から守る仕事を担うことになった。だが戦争には金がかかる。彼はその経費を賄う手段として交易に目をつけ、そのためアフリカ沿岸の探検を支援したという。特に1440年代以降、アフリカ相手の奴隷貿易という金儲けの手段が確立したことにより、ポルトガルでは航海ブームが起きた(03)。

 イベリア勢が大航海時代へと踏み出す過程において彼が一定の役割を果たしたのは確かだが、関与した人間は他にも大勢いただろう。また彼らがそう行動するのを後押しする環境が整っていたのも間違いない。そうした環境の中には西欧で発達した火器や、同じく欧州で発展を遂げた造船技術や航海術も含まれていた。


 帆船には縦帆と横帆という2種類の帆がある。船首と船尾を結ぶ線に沿って張られる縦帆には、風上に向かって航行する能力が高いというメリットがあり、欧州では遡るとローマ人が地中海を航行していた時代から存在していたようだ(04)。もちろんバイキング船のように船体と直角の横帆を使っていた船もあったし(05)、帆にあまり頼らないガレー船も含め大航海時代の前に様々な船舶のバリエーションが存在していた。さらに15世紀の後半になると、縦帆と横帆を組み合わせた船が一般化した(06)。

 一方、彼らがこの船にいつ火器を装備するようになったのかは、はっきりしていない。その可能性を窺わせる記述が登場し始めるのは、火器が伝播したおよそ半世紀後の14世紀後半からだが(07)、間違いなさそうな記録となると15世紀まで下る必要がある。例えばフランスでは15世紀初頭、イタリアでは1420-1430年代、そしてイングランドではヘンリー4世(1399-1413年)の時代や1416年、1422年に、船舶に搭載したヴグレールやボンバルド、ハンドゴン、キャノンについての記述が出てくる(08)。

 そうした史料の一例に、1445年のブルゴーニュ公の記録がある。ガレー船に搭載する飛び道具について書かれたこの史料の中には、鉄製の大きなクロスボウなどと並んで口径4プース(10.8センチ)の後装式ヴグレール5門、旋回式のクロヴリヌ2門、手持ち式のクロヴリヌ12丁を装備すると書かれている(09)。その2年後にブルゴーニュのガレー船がアナトリア沖合でエジプトの船舶に砲撃を浴びせたという話もある(10)。単に輸送するためだけに船に載せるのではなく(11)、船舶用の武装として火器を使う考えがこの時期までには生まれていたことを裏付ける記録だ。1480年代になると聖地へ旅行した人物の記した書籍が出版されており、その中には鍛鉄製らしい大砲を載せたガレー船の絵が描かれている(12)。

 イベリア勢について言えば、ジョアン2世の治世(1481-1495年)に帆船に火器を装備したとの話が伝わっている。それ以外にも1476年にポルトガルがカスティリアを相手に武装したカラベル船を使い、その翌年には今度はカスティリアがアフリカのポルトガル相手にそうした船舶を送ったという記録がある(13)。詳しい流れはともかく、15世紀の時点で欧州勢の多くが船舶を火器で武装させていたのは間違いないだろう。

 この時期、ポルトガルはアフリカ沿岸の偵察用に漁船を改良した船を使用していた。バルカやバルネルなどと呼ばれたものがそうだが、有名なカラベル船も元は漁船だったという。初期のカラベルは少なくとも一部は甲板で覆われ、船尾楼と1本か2本のマストに張った縦帆を持つシンプルな構造で、風がない時に備えてオールも用意されていた。サイズはおよそ50トンで、長さは20-30メートル、幅は6-8メートルというのが一般的だったようだ(14)。

 火器は最初は露天甲板に配置されたが、トップヘビーになるのを嫌い、16世紀の初頭には大砲用の窓であるガンポートの発明に合わせてもっと喫水に近い下部甲板に移った。当初は15門ほどだった火器の数はやがて30-40門に増え、カラベル船自体も3本のマストに縦帆と横帆を備え、サイズが80-100トンほどに達するような大型の船舶に変化した。船尾楼も円形から方形に変わり、長さと幅の比率は3対1に近づいたという(15)。


 このように発展してきた西欧の船舶技術は、火薬と同じくらい16世紀以降の歴史に影響を及ぼした。ある研究者は西欧による海からのユーラシア沿岸部への介入を、騎兵時代のステップ遊牧民による文明諸国への介入に類似していると指摘(16)。大航海時代以降の西欧人は、いわば海の遊牧民として世界を引っ掻き回したと解釈している。火薬革命は彼らの武器となった火薬と船舶の組み合わせを生み出したため、これを砲艦革命と呼ぶ研究者もいる(17)。それにしても、彼らより早い15世紀に鄭和率いる大艦隊を送り出していた中国ではなく、なぜ西欧が船舶を使って他の地域を圧倒するようになったのだろうか。

 この時期の中国船と西欧の船で異なるのは船体の構造だ。西欧が船底のキール(竜骨)を縦の軸として船舶を建造していたのに対し、中国船は多数の水密区画で区切られ、いわばいくつもの箱がつながったような構造をしていた。ニーダムはこれを節で区切られた竹に例えており、船底は平らかあるいはわずかに丸みを帯びていたと記している(18)。

 こうした構造のためか、中国船は西欧の船と比べると喫水が浅かったとの指摘がある(19)。有名な鄭和の船舶は南京で建造され、長江を経て海へと出ていたために、どれほど喫水が深くても7-7.5メートルまでが限界だし、パレンバンに行ったのが事実なら6メートルを超えることはなかったとの指摘がある(20)。一方、スペインのガレオン船は喫水が7.6-9.1メートルに達していたようで(21)、陸地に近いところや水深の浅いところで活動に制限がかかる代わりに、重い大砲を多数搭載してもトップヘビーになるリスクは低かった。

 鄭和の船舶について史書に載っているサイズを見ると、長さは44丈、幅18丈とある(22)。単純にこの数字をメートル法に換算するなら西欧の船より圧倒的に大きい長さ100メートルを超える超大型船になるのだが、この推計に対しては木造船としては構造的に無理があるうえに、鄭和が連れて行った乗員の数ではそれほどの大型帆船を運行するには足りなさすぎる、といった批判がなされている(23)。実際のサイズは、大きいものでも長さ60-70メートルほどではなかったかとの見解が多い。また、早々に30-40門の大砲を搭載したカラベル船とは異なり、鄭和の船舶に搭載された火器は大型の銅銃が1-4門、中型銅銃が2-8座で、後は手持ち式の銃だったとの指摘もある(24)。火力の点で西欧の船が勝っていたと見られる。

 加えて、縦帆を使う場合、キールの存在が船体の横滑りを防いで風上への航行をやりやすくする点も見逃せない。キールのない中国船はもしかしたら航海能力面で劣後していたかもしれないのだ。ただ中国船はこの問題を解決するため腰舵と呼ぶ幅の広い板を水中に下ろしバランスを取っていたらしい(25)。それに帆やマストについてはむしろ西欧は歴史的にアジアから技術を輸入しており、例えばローマ時代から存在した初期の縦帆はインドから、ラテンセイルは中東から、複数のマストは中国から伝わったとされる(26)。船体の構造だけで中国と西欧の航海技術の差を測るのは難しい。

 むしろ史書などの記録を基に、実際に何が起きていたかを調べるべきだろう。そしてこの点で見ると西欧の船は中国船に対し、明確に2つの優位性を持っていたという。大きさを生かした外洋での戦闘能力と、風上への航行能力だ。17世紀の鄭成功による台湾攻撃の時点ではオランダ船が30門以上の大砲を搭載していたのに対し、鄭成功の船は8-10門ほどしか装備していなかった。オランダの提督はごく少数の艦船だけで100隻を超える鄭の艦隊を相手にするのに十分だと豪語し、逆に鄭の軍は勝ち目がないと述べていた(27)。

 風上への航行能力でオランダ船が優れていたのは、彼らがモンスーンに逆らって増援を求める船を台湾からバタヴィアに送った点に現れている。増援が現れた時に鄭成功はかなりの衝撃を受けたそうで、彼らにとっては予想を超える能力だったのだろう。またジャンク船は風下にしか航行できないと語る現代の船乗りの話も、アンドラーデは紹介している(28)。もちろん縦帆を装備していても風上への航行が簡単ではないのは西欧の船にとっても同じだったが、海禁政策を取った中国と異なり積極的に海へと出ていった西欧勢はそうした技術を身に着けるだけの体験も積んでいたと思われる(29)。


 船舶のサイズや航行能力で優位に立った西欧だが、搭載する火器も陸上と同様に少しずつ進化していた。例えば1512年に建造されたイングランド海軍のメアリー・ローズ号に搭載されていた火器を見ると、1514年時点で青銅砲が13門に限られていたのに対し、鍛鉄製が中心だったと思われる鉄製の大砲は65門もあった。1536年の改修を経た後の1541年にはそれぞれ15門、81門と数字は変わったが(30)、引き続き鉄製の大砲が多かった。

 メアリー・ローズ号に搭載されていた鉄製大砲の中には、ポート・ピース、スリング、デミ=スリング、ファウラーといった各種の鍛鉄製大砲の他に、やはり鍛鉄製の小型旋回砲であるベース、トップ・ピースといった火器もあった。一方、青銅砲としてはキャノン、カルヴァリン、セイカー、ファルコン、ファルコネットなど、陸上でも使われていたのと同じ名称の鋳造砲(第10章)が船舶にも搭載されていた(31)。前にも書いた通り15世紀後半から西欧は青銅砲へシフトを始めていたが(第9章)、一方で古い鍛鉄製の大砲もまだ多数使われていたのが分かる。

 だが時間が経過するに従い、鍛鉄製の大砲は減っていった。16世紀半ばのメアリー・ローズ号やアンリ・グラース・ア・デュー号ではポート・ピースの数がキャノンやカルヴァリンの数とほぼ同数だったのに、17世紀初頭のガードランド号やデファイアンス号では1割未満にまで減少(32)。1599年の英海軍に属する艦船に搭載された火器を見ても、ポート・ピースを搭載している艦船は45隻中12隻に減少しており、まだ数の多いファウラーでも23隻とほぼ半数にとどまった(33)。ただ1610年建造のロイヤル・プリンス号になってもポート・ピースが4門載っており(34)、17世紀前半になってもまだ僅かながら鍛鉄砲が使われ続けていた様子がうかがえる。

 18世紀に入ると鍛鉄製の大砲が姿を消した一方で、鋳鉄製の大砲が増えて青銅砲と同じくらいの数になってきた。さらに世紀の半ばをすぎると、重量は重いもののコストや耐久性に優れている鋳鉄製の大砲が、むしろ数では青銅砲を上回りだした。18世紀も末になると、英海軍では多数の大砲を搭載した戦列艦の主力砲は32ポンドの鋳鉄砲になっていった(35)。

 しかし18世紀後半を代表する船舶搭載の火器といえば、やはり英軍の鋳鉄製大砲カロネードを挙げるべきだろう。この大砲は30年に及ぶ砲撃理論の発展に基づいて設計されたもので(36)、大砲を軽量化するために砲身を短くし、一方で大砲自体への衝撃を減らすために装填する火薬量を減らしたところに特徴がある。この結果、大砲重量に比して大きな砲丸を撃ち出せるようになった一方で射程距離が短くなったが、海上での砲撃戦は元から至近距離で交わされるのが通常であり、実戦へのマイナスの影響は限定的だった(37)。

 1778年秋に最初のカロネードのテストが行われ、翌年には海軍がこの新兵器を採用。1781年には429隻の艦船がこの砲を搭載するようになった。その翌年にはフランス軍を相手に初めて実戦で使用され、アメリカ独立戦争が終わるころにはその評判を確立していた(38)。軽量のため小型の船舶にも搭載できたカロネードは、「壊し屋」と呼ばれ水兵たちから歓迎された(39)。最終的にはボーア戦争の頃まで使われたという。

 砲撃理論を基に設計されたカロネードは、火薬の故地である中国でもその威力をいかんなく発揮した。アヘン戦争時の最初の会戦では、たった2隻の英艦船が6隻のジャンク船を破壊し、10隻以上を壊走させたほどだ。アンドラーデはこの兵器を生み出したのが西欧の経験科学だと指摘し(40)、そうした科学の存在が西洋と他地域を分けた大分岐の原因になったと説明している。


 だが、経験科学や技術のみが西欧の優位をもたらしたと考えるのは間違いだろう。西欧の優位は何よりも軍事革命、つまり技術によって社会が大きく変わったことに由来している。それを象徴するのが16世紀初頭のポルトガルと19世紀半ばの英軍が中国に投じた兵力の違いだ。1522年に明軍と衝突した時にポルトガルが投入した兵力は船舶6隻と兵300人だったのに対し(41)、アヘン戦争で英軍が中国に送り込んだのは各種の艦船37隻で、兵数は陸軍まで含めれば1万9000人に達した(42)。大陸の反対側へ送り込む兵力が300年ちょっとの間に船舶で桁1つ、人員に至っては桁2つも大きく膨らんだ理由は、一体どこにあったのだろうか。

 プロローグで紹介した財政=軍事国家の登場が、この高い戦争遂行能力をもたらした。パーカーらが説明している通り、火薬革命以降、西欧諸国の動員能力は右肩上がりで増えた。1470年にはフランスでも4万人ほどが上限だった陸軍の動員力が、1550年にはスペインの15万人、1630年には同30万人、1700年にはフランスの40万人へと、200年ちょっとで実に10倍にまで拡大している(43)。新しい軍事技術が戦争の規模拡大を促し、それに国家が対応した様子がわかる数字だ。

 こうした変化は陸軍だけで起きていたわけではない。海の分野で規模拡大を進めたのは、大航海時代に先んじたイベリアの国々ではなく、彼らの後に海へと進出したオランダや英国だった。1514年のイングランドは23隻の海軍艦船と36隻の雇用商船を保有し、乗組員は4429人だった。ところが18世紀の終わりになると英海軍は13万人以上の乗員を持ち1000隻以上の艦船を保有する巨大組織に変貌を遂げていた(44)。この成長は徐々に進んだわけではなく、実は17世紀の前半まで英国は国家として海軍の急成長を推し進めようとしていた様子はない。清教徒革命以後になって初めて海上の覇権を手に入れるための努力が国家的事業へと変化したという。

 もちろん大海軍は一朝一夕にできない。まずは造船のために必要な物資を輸送する商船団が必要であり、その商船団と交易ルートを育てるところから取り組みは始まった。1572年、英国の船舶総トン数は5万トンだったが、1786年には75万2000トンまで増加。また彼らから造船技術を学んだ海軍は自らも造船に取り組み、それは6000人から8000人の雇用を生み出した。さらに海軍が大きくなると今度はそれを運営する官僚組織も拡大。軍事技術が社会の様々な分野を急速に変えていった(45)。

 軍備だけでなく、それを支える財政も拡大した。1665年から1790年にかけ、英国は税収を実質ベースで少なくとも7倍に、また歳入に占める割合でも4倍に膨らませた。経済成長に加えて政府の徴税能力の上昇も寄与したのだろう。さらに税収の増加は政府による低利の長期借り入れも可能にした。英国の負債は1688年の200万ポンドからジョージ4世の治世(1820-1830年)には8億3400万ポンドにまで拡大したが、その金利は3.8%と同時期のフランス(7.5%)のおよそ半分にとどまっていた(46)。

 オランダも海軍を中心に軍事革命や財政=軍事国家化が進んだ国と言える。彼らは主に武装した商船を私掠船として使ったようで、1620年に29隻だった戦闘艦は17世紀末には100隻に増加。1636年時点の商船団の総トン数は60万から70万にまで達していた。彼らはこの交易をさらに金融業につなげ、経済的に繁栄したアムステルダムの人口は1600年の5万人から半世紀後には20万人にまで拡大した(47)。

 ただし、財政=軍事国家化は万能の解決法ではなかった。オランダは英国に先んじて課税と長期の借り入れを組み合わせた財政政策を採用し、スペインや英国、フランス相手の欧州での戦争と、海外植民地の拡大双方を推し進めた。ただしその結果として財政負担は極めて重くなってしまい、18世紀の初頭には一時利息の支払いを停止し、これ以上の借り入れが不可能な状態に陥った(48)。新たな軍事技術の下で生き残るため、軍備を拡大しそれを支える財政を強化する取り組みに追われた西欧列強だが、その競争は常に失敗や敗北と隣り合わせのものだったことが分かる。


 海軍を中心とした軍事革命は陸軍に比べると多様な利害をまとめなければならないためにより民主的な体制をもたらし、また新たな知識や経験の獲得と普及を必要とするため制度の変更や経済成長につながりやすい、という議論もある(49)。民主主義と権威主義の起源を軍事革命に求めるこの説が正しいかどうかを判断するのは無理だが(50)、火薬技術の発展に伴い社会がより複雑化し、国家が一段と役割の増大を強いられたのはおそらく事実だ。それは海軍国家だけでなく、陸軍国家にも当てはまる。



01 Daehnhardt (1977), pp1

02 W. G. L. Randles, The Alleged Nautical School Founded in the Fifteenth Century at Sagres by Prince Henry of Portugal, Called the 'Navigator' (1993)

03 George Robert Schwarz, The History and Development of Caravels (2008), pp25-33

04 ルイス・ダートネル, この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた (2018), pp119

05 Ed. Albrecht Classen, Handbook of Medieval Culture. Volume 3 (2015), pp1623

06 Needham (1971), pp609

07 1372年のラ=ロシェルの戦いでスペイン船が鉄製のバレルから岩や鉛を撃ち出したとフロワサールの年代記に書かれているが、彼は後の版でその記述を削除した; DeVries, A 1445 Reference to Shipboard Artillery (1990), pp821; Jean Froissart, Oeuvres de Froissart: Chroniques, Tome Huitième (1869), pp123, 128, 134,135。なお、しばしば海戦で火器が使用された初期の例として紹介される1340年のスロイスの戦いだが、その論拠とされる年代記に書かれているarcubusは火縄銃を意味するアルケブスではなく、ラテン語で弓を意味する言葉だ; Geoffrey Baker, Chronicon Galfridi le Baker de Swynebroke (1889), pp68

08 DeVries (1990), pp821-822

09 DeVries and Smith (2005), pp343-344

10 Ed. Thomas F. Glick et al., Medieval Science, Technology, and Medicine: An Encyclopedia (2014), pp57

11 火器を船舶で輸送したと思われる事例としては、例えば1338年にサザンプトンを襲撃したフランス船に矢を撃ち出す鉄のポットが搭載されていたという記録などがあるという; DeVries (1990), pp819-821; Léon Lacabane, De la poudre à canon et de son introduction en France (1844), pp11

12 Marco Morin, Morphology and Constructive Techniques of Venetian Artilleries in the 16th and 17th Centuries: some notes (2011), Figure 1.2

13 Schwarz (2008), pp86-87

14 Schwarz (2008), pp51-55。この時代にはより大型で、縦帆と横帆の双方を組み合わせたナウ船なども存在しており、コロンブスが乗っていたサンタ・マリア号はナウ船だった; Ed. Filipe Vieira de Castro and Katie Custer, Edge of Empire (2008), pp23

15 Schwarz (2008), pp87-90

16 Victor Lieberman, Strange Parallels: Southeast Asia in Global Context, c. 800–1830 (2009), xxiii

17 Turchin and Gavrilets (2021)

18 Needham, Science and Civilization in China, volume 4 part 3 (1971), pp391

19 G. R. G. Worcester, The Chinese War-Junk (1948)

20 Edward L. Dreyer, Zheng He: China and the Oceans in the Early Ming Dynasty, 1405-1433 (2007), pp111

21 Luis Gorrochategui Santos, The English Armada: The Greatest Naval Disaster in English History (2018), pp24

22 明史巻304

23 Sally K. Church, Zheng He: An Investigation into the Plausibility of 450-ft Treasure Ships (2005), pp38

24 周維強 (2007), pp393

25 Yingxing Song et al., Chinese Technology in the Seventeenth Century (1997), pp177

26 Needham (1971), pp698-699

27 Andrade, An Accelerating Divergence? The Revisionist Model of World History and the Question of Eurasian Military Parity: Data from East Asia (2011), pp195-196

28 Andrade (2011), pp197-198

29 Schwarz (2008), pp76-78

30 David Childs, The Warship Mary Rose: The Life and Times of King Henry VII's Flagship (2014), pp46

31 Douglas McElvogue, Tudor Warship Mary Rose (2015), pp32-35

32 Ed. DeVries, Medieval Warfare 1300–1450 (2017), pp449

33 John Campbell, Lives of the British Admirals, Vol. VIII (1817), pp90-92

34 Edward Simpson, A Treatise on Ordnance and Naval Gunnery (1862), pp26

35 David McConnell, British Smooth-Bore Artillery (1988), pp55

36 Benjamin Robins, New Principles of Gunnery (1742); John Muller, Treatise of Artillery (1768)

37 McConnell (1988), pp103

38 McConnell (1988), pp105

39 John Adolphus Bernard Dahlgren, Shells and shell-guns (1856), pp8-9

40 Andrade (2016), pp244-249

41 Zhidong Hao, Macau History and Society (2011), pp12

42 R. Montgomery Martin, China: Political, Commercial, and Social; Vol. II (1847), pp82

43 Parker (1976), pp206

44 Daniel Sok, An Assessment of the Military Revolution (2015), pp35

45 Sok (2015), pp36-37

46 Hamish Scott, The Fiscal-Military State and International Rivalry during the Long Eighteenth Century (2016), pp42-43

47 Sok (2015), pp38

48 Scott (2016), pp33-35

49 George E. Halkos and Nickolas C. Kyriazis, A Naval Revolution and Institutional Change: The Case of the United Provinces (2005)

50 権威主義と民主主義については軍事革命とは関係しない理論も多数ある; ダロン・アセモグル ジェイムズ・A・ロビンソン, 国家はなぜ衰退するのか──権力・繁栄・貧困の起源 (2013); Douglass C. North et al., Limited Access Orders: Rethinking the Problems of Development and Violence (2012)など

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