第12章 戦いは数だよ

 儲かれば気分がよくなり、さらに欲の皮が突っ張った。真っ当でも、たちが悪くても、どっちでもいい。金儲けを助けてくれるなら、神でも悪魔でも構わなかった(01)。


 グリンメルスハウゼンの書いた小説に出てくる女主人公クラーシュは、軍隊を相手に物品を販売する酒保商人として金持ちになることを夢見ながら、作中でこんなセリフを吐いている。若い頃に三十年戦争を経験したグリンメルスハウゼンの小説『クラーシュ』は、後に『肝っ玉おっ母とその子どもたち』(02)という題名でブレヒトが戯曲に仕上げたことで知られている。戦争と男たちに翻弄されながらも、一方では戦争を金儲けの手段として時代を生き残ろうとあがいた人間の姿を、グリンメルスハウゼンは架空のクラーシュという人物を通して描いた。

 彼女のような存在は珍しくなかった、というよりむしろ溢れかえっていたというべきだろう。三十年戦争当時、数万人から時に10万人を数えた軍勢のうち、実は3分の1から3分の2は女子供を含めた非戦闘員だったとの指摘もある(03)。この者たちは決して軍隊のおこぼれに与ろうとする寄生的な存在にとどまっていたのではない。それどころかこの非戦闘員たちは軍の中で様々な経済的機能を担っていた。料理や洗濯といった女性向きとされている仕事だけでなく、塹壕掘りや時には略奪への参加といった分野でも重要な役割を果たしていたそうで、いわばそれぞれが「小さな事業」を営む経営者だったとも考えられる(04)。

 そして時に彼女らのパートナーとなった兵士たちの中にもまた、三十年戦争当時は傭兵という「個人事業主」が数多くいた(05)。例えば近年になって日記が発見されたあるドイツ傭兵は、スウェーデン軍にも神聖ローマ帝国軍にも雇われながら妻を連れて戦場を往来していたという。もちろん彼らの生活はかなりハードなもので、再婚を繰り返して娶った3人の妻はいずれも病気で死亡し、子供たちも軒並み幼くして失われた(06)。彼ら彼女らは戦争というマーケットで一旗揚げようと集まってきた当時のアントレプレナー(起業家)たち、と言うこともできるかもしれない。

 下っ端の兵士や酒保商人だけではない。当時は傭兵隊長の全盛期でもあった。多くはデンマークに雇われた傭兵隊長のように国家からもらった資金を使って傭兵を集めたが、この時期には自ら資金も出して軍を編成する者もおり、有名なヴァレンシュタインもこの方法で皇帝軍を集めた。中にはマンスフェルトやザクセン=ヴァイマール公のように、誰に雇われるかが決まる前に先に軍を集めてしまうような傭兵隊長もいた(07)。傭兵隊長が資金調達まで担う方法は、既に16世紀にアンドレア・ドリアがスペイン艦隊を編成する時点で使っていた手だ。

 もちろん1つの軍を編成する全資金を傭兵隊長が単独で拠出していたわけではない。彼らの背後には資金提供を始め、様々な方法で傭兵軍に便益を供与する代わりに対価をもらう商人たちがいた。個別の兵士たちと酒保の女たちが手を組んだように、傭兵隊長と大商人たちも手を組んで戦争ビジネスに邁進した。ヴァレンシュタインと手を組んだ銀行家のド=ヴィッテが代表例で、彼はヴェネツィア、アントワープ、マドリード、プラハなど大きな都市を結んだ国際的な軍需物資交易網を築き上げ、戦争を支えた(08)。

 傭兵自体はずっと昔から存在していた。古代ではギリシャのクセノフォンがペルシア王子の雇った傭兵部隊に参加して東方への遠征に加わったし(09)、中世にはイタリアで活躍した白の団のような傭兵組織が存在していた(10)。火薬革命が始まった時期(近代初期)を見ても、スイス傭兵や南ドイツのランツクネヒトなど有名な傭兵部隊が存在していた(11)。政府組織が十分に成熟していなかった時代には、戦争を行なう際に傭兵のような外部の事業者にアウトソースするのが当たり前だったのだろう。火薬技術の進展で戦争の規模が拡大するにつれて戦争マーケットも拡大。三十年戦争時に傭兵が大活躍したのは、そうした一種のバブルが生じていたおかげと見られる。

 だがこの時代には、単に傭兵を増やすだけでなく、国家による新たな取り組みも既に始まっていた。その代表例がフランスであり、スペインだ。彼らは傭兵隊長に戦争をアウトソースするのではなく、国家が軍を組織し、隊長たちが国家の指揮下で動くようなシステムを採用した。フランスで戦争に関与したければ自らがアントレプレナーになるのではなく、売官制に乗っかってフランス軍内の地位を買い取る方法が中心になり、フランス国家はその金を使って軍を用意し戦争を遂行するようになった(12)。売官制を使って財政を補強しているあたり、まだ財政=軍事国家としては不十分に見えるが、それでも戦争における国家の役割が拡大していたのは事実だ。

 そして三十年戦争以降の絶対主義王政の時代に入ると、傭兵ではなくフランス的な国家の常備軍がむしろ一般的になっていく。もちろん軍隊の維持にはコストがかかるが、戦争で侵攻してきた敵国に根こそぎリソースを持っていかれるくらいなら、自分たちで兵を抱えるために金を使う方が合理的、という判断だろう(13)。一方で軍隊への物資補給などは引き続き民間事業者に任されていたため、全てを政府組織が扱うようになったわけではないが、戦争の規模拡大を受けて傭兵に頼る従来通りの方法ではなく、国家の機能そのものを向上させようとする流れが広まったのは間違いない。まさに軍事革命が進展中であった。


 一方、軍事技術そのものの進歩はゆっくりとしていた。例えば大砲の世界で起きていたのが、口径長の短縮化。15世紀以降に中国でも西欧でも口径長が伸びる傾向が生じた(第8章)が、西欧では17世紀以降になるとこの流れが逆転。例えば英国のロタンダにある砲兵博物館のカタログを基に調べてみると、口径長30倍超という長い大砲の割合がピークだったのは16世紀で、それ以降は逆に30倍以下の比較的短い大砲の割合が高まっている(14)。大砲の種類で見ると砲身の長いカルヴァリンにその傾向が見られ、16世紀後半に32-33.6倍だった口径長は19.2-28.8倍まで縮小している(15)。

 英国だけではない。フランスの場合16世紀半ばに16ポンド砲で27倍、7ポンド砲で27-31倍あった口径長が、17世紀には8ポンド砲で23倍、18世紀後半には12ポンド砲、8ポンド砲いずれも18倍に縮まっている(16)。神聖ローマ帝国では16世紀中ごろの36ポンド砲は29倍、18ポンド砲は40倍、3ポンド砲が35倍の口径長だったのに対し、17世紀後半になると36ポンド砲は19倍、18ポンド砲は29倍、3ポンド砲が15~27倍のサイズになっている(17)。

 なぜ口径長が短くなったのか。経験科学(第11章)とまでは行かずとも、経験に基づく改良が施された可能性がある。18世紀前半の出来事と思われるが、フィリップスブルク攻囲の際にオーストリアの大砲3門が砲口に損傷を受けた。オーストリア軍が壊れた砲口部分を切り落とし、短くした大砲を使ったところ、その射程は以前より長くなっていたという(18)。18世紀中ごろに書かれた理論書の中でも、時に砲身が短い方が長いものより長い射程距離を記録することがあると指摘されている(19)。

 さらに、カロネード砲の説明でも述べたが、砲身が短い方が大砲の重量が軽くなり機動しやすくなるというメリットもあった。16世紀の7ポンド砲(28口径長)は重さ1200キロだったのに対し、17世紀の8ポンド砲(23口径長)は895キロ、そして18世紀の8ポンド砲(17.4口径長)は580.5キロまで重量が減った(20)。こうした変化は特に野戦砲の機能向上にとって重要だったのは間違いない。

 既存兵器の効果を高めるだけでなく、新しいタイプの大砲も生まれていた。曲射砲(榴弾砲)だ。オランダ人によって17世紀に発明されたこの兵器は、それ以前から存在していた臼砲(砲身が短く、高い軌道の砲弾を撃ち出す大砲)と似た機能を持ちながら、より機動力のある兵器として使われるようになった(21)。臼砲が攻城兵器として、台の上に載せるよう砲耳が砲尾近くにセットされていたのに対し、曲射砲は砲耳の位置が通常の大砲とほぼ同じで、砲車に載せて運用できる点が、使い勝手の良さとして評価された。英軍でも17世紀後半には曲射砲の記録が登場するようになり(22)、18世紀に入ると他の国にも広まっていった(23)。

 大砲の加工方法も18世紀になって変わった。それ以前は鋳造に際し、鋳型の砲腔に当たる部分に予めコアやカーネル・バー(日本語では中子)と呼ばれる物を入れておき、鋳造後にドリルで削って細かい調整をするという製造法が一般的だった。だがこの方法は中子が少しでもずれると砲身の厚みが一定にならなくなってしまうという問題を抱えていた。より精密な大砲を製造するためには中子を使わず、砲腔部分にも金属を流し込んだうえで後から砲腔を削り出す方が望ましかった。この方法を最初に実現したのがスイスのジャン・マリッツだ(24)。

 彼がこの方法を始めたのは1714年と言われている。彼はまず、従来は垂直に設置されていたドリルを水平に配置し、またドリルそのものではなく大砲自体を回転させる方法で砲腔を削り出すようにした。これによって大砲の加工が以前より容易にできるようになったという。この手法にはオランダとフランスが注目し、彼は1734年にフランスに雇われた。また一族の別のジャンは鋳鉄製の大砲を削る機械をフランスで作り、スペインにも工場を置いた(25)。マリッツの取り合いでフランスに負けたオランダでも、1757年にはフェアブルッヘンがやはり水平式のドリルを開発。彼はさらに1770年には英国に移り、そこでも大砲製造に携わっている(26)。

 鋳造した金属を後から削り取るためには、それだけの硬度を持つドリルが必要だ。だがそうした課題をクリアできれば、この方法は中子を使うより有利な点があった。まず大砲の中心点をきちんと定めて砲腔を削り出せるため、砲身の厚みに余裕を持たせる必要がなくなり、それだけ大砲が軽量化できる。また砲腔の内径を砲弾の口径にギリギリまで近づけ、隙間を減らして火薬の勢いをできるだけ多く砲弾に伝えることも可能になる。実際、1825年に英軍は隙間を減らすような改革を実施しており(27)、新しい製造法がこうした改良を可能にしたのだと思われる。

 この時期の改良は火薬そのものにも及んだ。黒色火薬の3つの材料のうち、木炭を密封した鉄の円筒内で製造するという手法で、こうして作られた火薬はシリンダー・パウダーと呼ばれた(28)。同じ条件で臼砲から64ポンドの砲弾を撃ち出した際に、旧来の火薬は150フィートの飛距離にとどまったのに対し、シリンダー・パウダーは180フィートの距離まで届いたという実験結果もある(29)。加えて新火薬は時間の経過に伴う劣化も少なく、そうした改良点が評価されて1801年には英海軍での採用が決まった。強力なシリンダー・パウダーのおかげで大砲を撃つ際に必要な火薬量が3分の1まで減ったという話もある(30)。


 一方、銃の世界では使い方の変化がさらに進んでいた。フリントロック(第10章)の使用増大と並んで急速に進展したのが銃剣の発明と普及だ。発明されたのはおそらく火打石を使った点火機構よりも後だが、場所や正確な時期は分からない。最も古い記録は中国では1606年(31)、西欧では1611年に登場しており(32)、最初は猟師たちが狩猟の最中に必要に迫られて銃口に短剣を挿して使ったのが始まりだとされる。西欧で最初に軍事目的に使われたのは1647年(33)、そして1670年代にはフランスや英国で銃剣を装備した部隊の編成が命じられた(34)。

 銃剣とフリントロックは歩兵の武装を最終的に変化させる効果をもたらした。それまで比率が減ったとはいえ歩兵の中にはパイクを持った兵が必ず残っていたが、銃剣を装備することで銃を槍のように使うのが可能になり、ついにパイクが姿を消したのだ。また、兵同士が暴発をさけるために一定の距離を置く必要があった火縄(35)とは違い、フリントロックは暴発のリスクが少ないため、歩兵が密集して槍衾を作ることがたやすくなった(36)。銃剣を装備したフリントロックのマスケット銃は槍としても使えるよう長さが増し、着剣時の全長は人の身長を上回るほどになった。

 パイクの消失は歩兵戦術も変えた。それまで歩兵はかなり厚みのある隊列を組むのが普通であり、スウェーデン王グスタフ・アドルフはその厚みを多少減らしたものの、10列から6列まで引き下げる程度にとどまった(37)。しかし歩兵が全員マスケット銃で武装するようになった18世紀のフリードリヒ2世は厚みが3列しかない横隊を主に使うようになり(38)、いわゆる戦列歩兵の時代が訪れた。歩兵が持つ火力を最大限に発揮するためには、できるだけ横に薄い隊列を組み、全員が前方に向けて射撃できるようにするのが肝要だと考えられた。

 18世紀末から19世紀初頭のナポレオンの時代には厚みのある隊形を戦場で使う場面もあったが、基本的な部隊単位である中隊では3列横隊が原則だった(39)。英軍などではさらに射撃の威力を増すため2列横隊も使われるようになっていた(40)。火薬革命以降、西欧の軍勢が時とともに火力を重視した使い方にシフトする流れは、パイクが消えた後も続いた。

 それが最も極端に進んだ事例が散兵戦術と言えるかもしれない。隊列すら組まず、個々の兵が散開し自らの判断で射撃を行なうシステムは、現代ではむしろ歩兵の一般的戦術となっているが、それが西欧で広まったのが18世紀頃だ。1740年代、オーストリアの軍事国境で集められた非正規兵(グレンツァーやパンドゥール)が、敵の連絡線などに攻撃を仕掛けたのが散兵の使用が本格化した始まりともされている(41)。こうした軽歩兵はその実効性を評価されたのだろう、他の諸国にも急速に広まった。

 アメリカ独立戦争時には既にライフルで武装した散兵が生まれており、彼らだけで勝利をつかむことはできなかったとしても、隊列を組んだ既存の部隊と連携して効果的に戦う方法は広まっていた(42)。フランス革命からナポレオン戦争期になると、兵士たちは最初から散兵と戦列歩兵のどちらでも戦えるよう訓練を受け、状況に応じて時には隊列を組み、時には散らばって戦うのが当たり前となった(43)。1793年のオスコットの戦いのように、フランス軍のほとんどが散兵として戦ったとされる事例も出てきた。

 散兵戦術と相性が良かったのが、銃腔内に刻まれた螺旋状の溝(ライフリング)がある銃、つまりライフルだ。この溝は弾丸にスパイラルを与えることでその弾道を安定させ、射撃精度と射程距離を高めた。隊列を組んだ兵であれば命中精度を気にせず弾丸をばら撒くだけでも良かったかもしれないが、個別の判断で射撃をする散兵にとっては狙って当てることが重要。このためアメリカの民兵も、あるいは英国の軽歩兵も、ライフルで武装している兵がいた(44)。

 ライフル自体はかなり古く、15世紀末には発明されていたという話がある(45)。だがライフルには利点と同時に大きな問題もあった。弾丸にスパイラルを与えるには弾丸が銃腔と密着する必要があるのだが、前装式の銃の場合、こうした弾丸は装填するのに非常に手間がかかった。革やぼろきれで弾丸を包んで押し込むか、あるいは大きい弾丸を力づくで叩きこむといった手法が使われており(46)、ただでさえ装填に時間のかかる前装式銃の弱点がさらに大きくなっていた。

 ライフルは銃の殺傷力を大きく高める可能性を持った技術だったが、18世紀の時点ではそうした問題もあってあまり普及せず、戦場を大きく変えるには至らなかった。砲車に乗った青銅製の大砲と、点火機構を備えた銃が生まれてから300年、細かい改良は進んだものの、兵器の基本的な機能はあまり変わらなかったと言える。やはりこの時期に大きく変わったのは、兵器そのものよりもそれを使う人間たちの方だった。


 絶対主義王政の時代は、西欧で兵力が急増した時代として知られている。17世紀半ばから18世紀半ばにかけて、フランスでは5-6倍、オーストリアは7倍、プロイセンに至っては16-17倍まで、軍の規模が膨らんだ(47)。傭兵だけでなく、売官制を通じて国内のエリートたちも戦争に動員されるようになった結果、尋常ならざる速度で使えるリソースが拡大したのだ。

 この巨大な軍勢をさらに倍に膨らませたのは革命だった。フランス革命時、対仏大同盟に攻め込まれた革命政府はまず30万人の動員を、続いて総動員を発令した(48)。この結果、1792年には22万人だったフランス軍は1794年には75万人という空前の規模に達し(49)、連合軍をフランス領土から追い出すことに成功した。1798年にはジュールダン法によって恒常的な徴兵制が導入され(50)、傭兵やエリートだけでなく、一般大衆を含む国家の成員の大半を戦争に巻き込むシステムが出来上がった。

 細かい実態はともかく、戦争では数が多い方が有利という基本的な条件と、そして革命によって権利を得たフランス国民の間で「革命擁護と祖国防衛」のために動員を許容する度合いが高まっていた点が、こうした兵力増大の背景にあると見られる(51)。彼らは国王をギロチンに送り、政治的権利を手に入れ、そして「大砲の音万歳」(52)と歌いながら多くの兵士を戦場に送り込んだ。さらに大量動員を成し遂げたフランス軍の強さを見て他の欧州列強も同様に大量動員を始めるようになる。火薬革命によって変貌を遂げた欧州社会は、今や「国民戦争」の時代へと突入しようとしていた。


 だが火薬が変えたのは欧州社会だけではない。その影響は、多くは西欧列強の海外進出を通じ、世界各地に及んでいった。軍事革命が世界を変えようとしていた。



01 Johann Jakob Christoffel von Grimmelshausen, Courage: The Vindictive Tramp (2011), pp62

02 Bertolt Brecht, Mutter Courage und ihre Kinder (1939)

03 Klára Andresová, Women and Children in the Military Camps of the Thirty Years' War (2019), pp26

04 John A. Lynn, Women, Armies, and Warfare in Early Modern Europe (2008), pp215-221

05 菊池良生, 傭兵の二千年史 (2002)

06 Peter Haldén and Peter Jackson, Transforming Warriors: The Ritual Organization of Military Force (2016), pp100

07 David Parrott, The Business of War: Military Enterprise and Military Revolution in Early Modern Europe (2012), pp106-115

08 Parrott (2012), pp212-219

09 Xenophon, Anabasis, Chapter 1

10 William Caferro, John Hawkwood: An English Mercenary in Fourteenth-Century Italy (2006), pp47

11 Frederick Lewis Taylor, The art of war in Italy, 1494-1529 (1921), pp41-42

12 Parrott (2012), pp266-270

13 Parrott (2012), pp283-286

14 J. H. Lefroy, Official Catalogue of the Museum of Artillery in the Rotunda, Woolwich (1864), pp1-45

15 Sara Grace Hoskins, 16th Cetury Cast-Bronze Ordnance at the Museu de Angra do Heroísmo (2003), pp121

16 Stephen Summerfield, 18th Century Artillery (2012), pp21-35; Summerfield, French Gribeauval and AnXI Cannon (2012), pp49-68

17 Anton Dolleczek, Austrian 15th to 19th Century Artillery (2011), pp14, 20

18 Dolleczek, Geschichte der österreichischen Artillerie von den frühesten Zeiten bis zur Gegenwart (1887), pp201; Dolleczek (2011), pp28

19 Benjamin Robins, Mathematical Tracts of the Late Benjamin Robins, Vol. I (1761), pp261

20 Summerfield, 18th Century Artillery (2012), pp24, 29; Summerfield, Napoleonic Ordnance Weight and Range Tables (2013), pp77

21 Manucy (1994), pp56

22 Angus Konstam, Big Guns: Artillery on the Battlefield (2017), pp62

23 Richard Phillips, The British Military Library, Vol. II (1801), pp527

24 Charles Ffoulkes, The Gun-Founders of England (1937), pp19

25 David A. Stephenson and John S. Agapiou, Metal Cutting Theory and Practice (2016), pp5-6

26 J.R. Verbeek, ‘Screws’, or Tricks of Trade: Secret Repairs of Solid Cast Cannon by Jan Verbruggen (2013), pp94, 97

27 McConnell (1988), pp289

28 Andrade (2019), pp252

29 Ralph Willett Adye, The Little Bombardier, and Pocket Gunner (1802), pp163

30 Gareth Cole, Arming the Royal Navy, 1793–1815: The Office of Ordnance and the State (2015), pp16, 80

31 兵録巻12

32 Sibbald David Scott, On the History of the Bayonet (1864), pp336

33 François-Jacques de Chastenet marquis de Puységur, Mémoires de Jacques de Puysegur Chastenet (1690), pp613

34 Scott (1864), pp339

35 16世紀末の本にはマッチロック兵は長さ4フィート、幅4フィートの空間を占めると書かれている; Barret (1598), pp237

36 18世紀末の歩兵マニュアルには肘を接するように隊列を組むとある; Règlement Concernant l’Exercice et les Manoeuvres de l'Infanterie (1793), pp66

37 C. S. Lincoln, The Development of Infantry Organization and Tactics (1910), pp590

38 Emile Poirot, Study in the Tactics of Detail of Infantry (1874), pp72

39 Terry Crowdy, Napoleon's Infantry Handbook (2015), pp164

40 William Balck, Tactics: Introduction and Formal Tactics of Infantry (1911), pp46

41 M.S. Anderson, The War of Austrian Succession 1740-1748 (2014), pp221-223

42 Robert W. Coakley and Stetson Conn, The war of the American Revolution (1975), pp82-83

43 Steven T. Ross, The A to Z of the Wars of the French Revolution (2010), pp77

44 英国では1800年にヨーク公の命で、ライフルで武装した部隊が編成された; Walter Wood, The Rifle Brigade (1901), pp2-3

45 ドイツで発明されたという説や、それ以前にイタリアにあったという説などがある; The Artizan, Vol. XXIII (1865), pp136; Otto Henne am Rhyn, Allgemeine Kulturgeschichte von der Urzeit bis auf die Gegenwart (1878), pp565; The Magazine of American History with Notes and Queries, Vol. XXIV (1890), pp179

46 Robins (1761), pp336-337。英国のベイカーライフルを発明したイジキエル・ベイカーも、著作の冒頭でいかに装填するかの説明をしている; Ezekiel Baker, Remarks of Rifle Guns, The Ninth Edition (1825), pp7-12

47 Parrott (2012), pp294

48 Alan Forrest, L’armée de l’an II : la levée en masse et la création d’un mythe républicain (2004)

49 Frederick C. Schneid, European Armies of the French Revolution, 1789–1802 (2015), pp21

50 Gunther E. Rothenberg, The Art of Warfare in the Age of Napoleon (1980), pp101

51 遠藤芳信, 19世紀フランス徴兵制研究ノート (1985), pp10; 武田昌之, 近代における戦争と平和 (1989), pp49-51。軍のプロフェッショナリズムにこだわっていた一部のエリートたちも必要に迫られて大量動員を受け入れた; 竹村厚士, フランス革命と徴兵制 (1996)

52 革命歌「カルマニョール」の歌詞; Du Mersan, Chansons nationales et populaires de France (1846), pp498-502

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