第4章 祝祭と惨禍

 「まるで雷鳴のような音が響いた。爆竹だ。踊りを演じていた者たちが引き下がり、煙と火が沸き上がる」(01)


 北宋の経済発展ぶりは現代でもよく知られている。中には彼らが英国より何百年も前に産業革命を達成する可能性もあったという主張が存在するほどだ(02)。当然ながらその都であった東京開封府もまた大いに繁栄しており、故宮博物院に収蔵されている『清明上河図』は、黄河と大運河の交差点という交通の要衝で殷賑を極めた町の姿を今にとどめている。当時の開封府は人口100万人を数える世界屈指の大都市だった(03)。

 都の華やかな姿を絵に残したのが『清明上河図』だとすれば、それを文字で記したのが孟元老の『東京夢華録』だ。本章の冒頭に紹介したのはそのうち開封府で行われた祭りの様子を描いた部分。だが彼がこれを書いた時、既に開封府は北宋の都ではなくなっていた(04)。民衆による幸せな祝祭の季節は終わり、兵が主役となる陰鬱な戦争の時代が到来していた。一度は滅びた宋は華南へ逃げてそこで亡命政権を打ち立てていた。

 奇妙なことに孟元老が回想しながら描いた町中の風景には、戦場で役立つはずなのに北宋の滅亡後まで使われることのなかった新技術が描かれている。爆竹だ(05)。中国には昔から火の中に竹の節を投じ、空気の膨張で裂けた竹が出す大きな音を使って悪霊を祓うという風習があった(06)。しかし孟元老が記した爆竹は、そうした古来のものとは明らかに違った。一緒に煙が沸き起こっていることから分かる通り、それは火薬を使用したものだった(07)。

 前章で説明した通り、11世紀の火薬は筒や密閉容器に詰めると燃焼しなくなっていた。ところが12世紀の前半に行なわれていた祭りの場面では、竹の節などに詰められていた火薬がきちんと爆発していたのである。おそらくアンドラーデの指摘する通り(08)、この時期までに中国で火薬の製法が発展し、密閉状態でもより爆発しやすい、硝石比率の高い火薬が作られていたのだろう。問題はその火薬が、祭りには間に合ったのに戦争には間に合わなかったように見える点だ。


 1126年、開封府は金の攻撃を受けた。この際に宋軍が霹靂砲を放ち、「敵が皆驚き叫んだ」(09)という話が伝えられている。アンドラーデはこの兵器について「恐るべき新兵器」(10)と呼んでいるものの、どのような理屈に基づいてこれが新兵器であると判断したのかについては何も語っていない。そもそも史書にはこの兵器が敵を驚かせたとは書かれているものの、損害を与えたかどうかについては言及してない。別の研究者はこの霹靂砲について、武経総要に載っている「霹靂火毬を点火したのち投石機で投げた」(11)と解釈しており、だとすればこれは新兵器ではない。

 また別の史料によれば、この戦いの際には宋軍(12)も金軍(13)も火砲を使ったとある(宋軍は他に火箭、蒺藜砲、金汁砲なども使った)が、それらが火薬兵器を指しているのかどうかすらはっきりしていない。一応、宋軍の火砲は火毬(つまり火薬兵器)を投石機で投げたものであるのに対し、金軍の火砲は単なる可燃物を投じたのではないかと見る向きもあるが(14)、これも推測にすぎない。要するにアンドラーデの論拠不明な主張を除き、首都を脅かされたこの重要な戦闘で、北宋軍が新兵器を投入したと明確に裏付ける証拠は見当たらないのだ。

 開封府の陥落と華南への亡命後においても、状況がすぐに変わった様子はない。1127年、皇族の1人である趙士晤が金に連行される途中で脱出し、洺州での抵抗に加わった時に火砲を使って戦ったという記録はあるが(15)、これも新兵器ではなく単に可燃物を投石機で投げただけの可能性が高い。1130年に金の皇族である宗弼と宋の韓世忠が戦った際には火箭が使われたとあるが(16)、そもそも使ったのは金軍の側であり、新兵器である証拠はない。せっかく爆竹に使えるような新たな火薬が作られていたかもしれないのに、それらが戦場で活躍した様子が見られないのだ(17)。

 新たな火薬が兵器に使われたことがはっきり分かるのは、ようやく1132年になってからだ。徳安城の防衛に当たった陳規が、攻め寄せる金軍を相手に二十数本の長い竹竿で作った火槍を兵に持たせて戦ったという記録が残っているのだが(18)、この火槍には「火砲薬」と呼ばれる火薬が使われていた。おそらく硝石の比率を高め、筒の中でも燃焼できるようにした火薬だと思われる。

 守備兵は2人1組でこの槍を持ち、城から出撃して攻城塔の足元にいる敵を撃退している。記録によれば出撃した順番は火槍が先で、その後に通常の槍と鎌が続いた。アンドラーデはこの配置から、火槍は白兵戦用の武器ではなく長い射程を持つ兵器だと指摘している(19)。ここで使用された火槍とは、竹の筒に火薬を詰め込み、それに火をつけることで火花を飛ばし敵を攻撃する兵器だと考えられる。

 この戦いに関する記録は正史にも記されている。それによると60人が火槍を持って西門から出撃し、攻城塔を焼いたそうだ(20)。この記述からニーダムは、火槍が敵兵を攻撃するのではなく、攻城兵器を焼き払うために(つまり以前と同じ焼夷兵器として)主に使われたのではないかと指摘しているが(21)、上に紹介した攻城戦自体の記録を見る限り、むしろ最初から対人兵器として使われたと考えるべきだろう。

 それにしても性能の高い火薬がまず祭りの爆竹として使われ、それより遅れて兵器として使われるようになったのが事実だとしたらなかなか興味深い。火薬史については時に、中国は火薬を自ら発明したにもかかわらず、主に爆竹に使ってろくに兵器として使用しなかったという誤解が見受けられる(22)。これが間違っていることはこれまで紹介した史実から明らかではあるが、もしかしたら時に爆竹を兵器より優先する場面があったのかもしれない。もちろん『東京夢華録』が一種の回想録であり、リアルタイムの記録よりも信頼性が低いことを踏まえるなら、安易に「爆竹が先行した」と結論を出すわけにもいかない。

 いずれにせよ火槍の登場(23)によって火薬技術は一歩進んだと考えられる。これまでよりも効果の高い火薬が生まれたのが確認できるうえに、この火槍が後に銃や大砲の誕生へとつながったという意味でも、その歴史的な意義は大きい。

 その後も中国では火槍が使われ続けた。例えば宋の逆臣であり、13世紀前半に活躍した李全は梨花槍という武器を使っていた(24)のだが、明代の記録によるとこれは普通の槍に火薬を詰めた筒を取り付けたような形状をしていた(25)。この話自体はあくまで後代の記録であるため全面的に信用はできないが、次章で述べる通り13世紀以降も火槍が使われていた記録は多数ある。


 竹を使った点で火槍という新兵器は爆竹と共通項はあるが、容器内に火薬を密閉して爆発させる形の兵器、即ち爆弾ではない。そうしたタイプの兵器は、爆竹後もなかなか登場しなかった(26)。1135年に有名な岳飛が洞庭湖付近で反乱を起こした鐘相や楊麼と戦った際に、灰砲という兵器を敵の船に投げ込んだとの記録があるが、これは薄い瓦缶の中に毒薬や石灰、鉄のまきびしを入れたもの(27)。戦争の激化に伴い色々と工夫を凝らした様子はうかがえるが、火薬を使った新兵器ではない。

 1161年の采石の戦いで使われた霹靂砲も、おそらく爆弾ではない。北宋滅亡時に使われた兵器と名称は同じだが、こちらは紙製で中に石灰と硫黄が入っており、水に落ちると硫黄が反応して火がおこり、雷のような音を出して煙が立ち込めたという(28)。音と煙を伴って火が起こった点だけ見れば爆弾のようでもあり、高性能の火薬を容器に密閉したタイプの兵器かもしれないと考えたくなるが、紙製の兵器でそのような爆発を起こせるのかは疑問だし、そもそも硫黄が水と反応して火が発生することはあり得ない。この記録は人づてに聞いた話をまとめたものであるため、実際に使われたのは霹靂火毬ではないかとの説もある(29)。

 同じ1161年に行なわれた別の戦いでは火砲(30)あるいは火箭(31)が使われたが、これまた火薬が使われたかどうかは不明。また1163年以前に魏勝が作った如意戦車に設置されていた火石砲(32)については、18世紀後半に書かれた書物の中に硝石、硫黄、柳炭で作られる火薬を使っていたとあるのだが(33)、さすがに時代が遅すぎて証拠とするには弱い。

 むしろ爆竹に次ぐ爆弾の記録は、これまた軍事以外の分野で先に登場したとの説もある。1189年、金国の猟師が狐を狩るため、陶器に詰めた火薬に導火線で点火して爆発させたという話で、複数の研究者(34)が紹介しているのだが、これの元ネタは実は小説(35)。フィクションを史実の論拠として使うのを避けた方がいいと考えるなら、こちらもあまり信用しない方がいいだろう。

 爆弾の可能性が高い兵器が登場するのは、ようやく13世紀に入ってからだ。その一つが1206-1207年の襄陽攻城戦で使われた霹靂炮(36)。名称は昔のものと一緒だが、この兵器を使った時には単に敵が驚いただけでなく、200余人が宋軍に殺されたとか、死傷者の数は知れずとか、逃げまどって兵2000-3000人、馬800-900頭が死傷したといった記述が並んでいる。具体的な兵器の特徴に関する記述はないため、引き続き霹靂火毬ではないかと見る向きもある(37)が、アンドラーデはこれを「本当の火薬爆弾」と解釈している(38)。

 さらに爆弾の可能性が高い兵器として知られるのが鉄火砲だ。1221年に行なわれた攻城戦で金軍が使ったこの兵器は、鋳鉄製でひょうたんのような形状をしており、厚みは2寸あったという(39)。この兵器によって顔の半分が吹っ飛んだとか、城壁が震動したとか、けが人が相次いだといった描写もあるため、慎重な見方をすることが多い研究者ですらこの容器の中には火薬が入っていたと推測している(40)。

 重要なのはこの兵器を持ち出してきたのが、昔から火薬を使っていた宋ではなく金軍であること。華北を支配した彼らの軍勢に、火薬技術を持った中国人が加わるようになったのだろう。もちろん地域的には中国の中にとどまっていたとはいえ、一国に限定されていた火薬の使用が横に広まる機会がここに生まれた。


 とはいえ、実のところ金と南宋も四六時中戦争をしていたわけではない。北宋滅亡後はしばらく戦乱が続いたが、12世紀半ば以降は短期間を除いて13世紀初頭までほとんど平和な時期となっている。爆弾がなかなか発展しなかった背景にはこうした状況も影響したのかもしれない。

 それでも12世紀から13世紀にかけて火薬は焼夷兵器の枠から離れ、爆発物としての性格を強めていった。停滞していた技術革新の歯車が、ゆっくりとではあるが再び動きだした格好だ。だがこれで騎兵の時代にとどめが刺されたわけではない。それどころか火薬を使って戦う中国人の前に、歴史上でもおそらく最強と思われる騎兵帝国が立ちはだかることになる。モンゴルだ。



01 東京夢華録巻7

02 Ronald A. Edwards, Redefining Industrial Revolution: Song China and England (2013)

03 Ian Morris, Social Development (2010), pp118

04 東京夢華録序には1147年(紹興丁卯)の日付が記されている

05 東京夢華録巻7では爆仗と書かれている

06 岡田登, 爆竹の起源と発展 (1979), pp81

07 この時代の爆竹を示す用語としては爆竹、爆仗の他に烟火、地老鼠、流星、流星火などがある、岡田 (1979), pp84

08 Andrade (2016), pp38-39

09 靖康伝信録巻中

10 Andrade (2016), pp34

11 岡田 (1981), pp58

12 三朝北盟会編巻68

13 三朝北盟会編巻66

14 岡田 (1981), pp58

15 宋史巻247

16 金史巻77

17 岡田は他にもこの時期の宋軍による兵器の使用をいくつか検討しているが、いずれも目新しい兵器ではなく、そもそも火薬を使っていないものもある; 岡田 (1981), pp58-59

18 守城録巻4

19 Andrade (2016), pp39

20 宋史巻377

21 Needham (1986), pp222

22 ユヴァル・ノア・ハラリ, サピエンス全史 下 (2016), pp75など

23 火槍についてはHawがもっと早くに生まれたと主張している; Haw (2013), pp443-444。論拠の1つは1000年に唐福が献上した新兵器(第3章)について、「火箭火毬火蒺藜」ではなく「火箭火毬火鎗」とする史料があることだ; 群書考索後集巻43。ただしこの史料は南宋時代に書かれたものであり、徳安城の戦いが南宋の初期に行なわれたことを考えるなら、論拠としては弱い。次に武経総要中に火槍という文言が出てくることも指摘されている; 武経総要前集巻12。ただしここで出てくる火槍とは投石機を使って投げる物の一例であり、徳安城で使われたような竹の中に火薬を入れた兵器とは言い難い。最後にフランスのギメ東洋美術館にある敦煌莫高窟第17窟から見つかったタペストリーの図像がある。仏陀を惑わす悪魔の一体が火槍のような物を携えているのが論拠で、ニーダムもこれを論拠に火槍が10世紀半ばには存在していたと記している; Needham (1986), pp8。ただ、悪魔のような架空の存在が出てくる図像を基に史実を確定しようとするのは問題が多い。加えて前にも書いた通り、11世紀以前の火薬は筒に入れるとろくに燃焼しない性質を持っていたことまで踏まえるなら、これらの主張はいずれも論拠としては弱い。実際、アンドラーデによると中国の研究者はその大半が早い時期の火槍の存在に懐疑的だという; Andrade (2016), pp35。

24 宋史巻477

25 武備志巻55

26 1129年に宋の船にすべて「石炮火炮火箭」を搭載するようにとの指示が出されており、アンドラーデはこれを「爆弾(gunpowder bomb)を投擲するトレビュシェット」であると解釈している; Andrade (2016), pp39。ただしそう書かれているのは明代に編纂された永楽大典であり、より古い宋史にはそうした記述は見当たらない; 永楽大典巻14464; 宋史巻25

27 老学庵筆記巻1。Hawはこの灰砲が火薬を使った爆弾だと主張しているが、老学庵筆記のどこにも火薬と書かれてはいない; Haw (2013), pp447

28 誠斉集巻44

29 岡田 (1981), pp60-61

30 金史巻65

31 宋史巻370

32 宋史巻368

33 陔余叢考巻30

34 Andrade (2016), pp41; 岡田 (1979), pp85

35 続夷堅志巻2。なおこの小説は岡本綺堂が日本語訳している

36 襄陽守城録

37 岡田 (1981), pp61

38 Andrade (2071), pp41

39 辛巳泣蘄録

40 岡田 (1981), pp61

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