《スサノオ》(6)

 タマモはひとり祭壇の上に正座して座り、その時がくるのを静かにまっていた。

 自分でも不思議なぐらい、恐怖や不安は感じなかった。己れの心に負けないよう、幼い頃から鍛えてはきた。だが、それだけではない。不安など感じる暇もないほどにタマモの心は奇妙な思いで占められていた。

 タマモの脳裏を占めているもの。それは彼女を救おうとした少年の姿だった。

 ――なぜ、あそこまでして……?

 あのシュランドという少年はなぜ、あんなにも必死に自分を助けようとしたのだろう。そのために地下牢に放り込まれてまで。地下牢に放り込まれてもなお、自分を止めようとした。なぜ、あそこまでして? 彼はただの通りすがりの旅のもので、彼女にも、出雲にも、何の義理も関係もないというのに。

 自分を守ろうと必死だった少年の顔が頭からはなれない。タマモは王の娘であることを自覚したときからずっと、人々を守ろう、人々を救おうと、それだけを考えてきた。そのために武芸に励み、兵法を学び、学問もおさめてきた。

 その彼女を守ろうとしたのはあの少年がはじめてだった。

 『君は大馬鹿だ!』

 そうののしってまで彼女を止めようとしたときの少年の必死な表情。その表情を思い出すと胸が痛んだ。涙がにじんだ。生まれてはじめて『死にくたない』と思った。王の娘としていつでも人々のために死ぬ決意でいたというのに。

 もう二度とシュランドに会えない。

 そのことがたまらなく悲しかった。それを思うとこの場から逃げ出したくなる。なんだか、自分が誇り高い王の娘ではなく、あさはかで臆病な単なる町娘になってしまったような気がした。

 「シュランド……」

 涙をにじませながらタマモは呟いた。

 幼い頃から武芸一筋で普通の女の子らしいこととは無縁だったとはいえ、彼女は鈍感でもなければ、愚かでもなかった。少年の名を呟いたとき、自分の気持ちの正体をはっきりと悟った。

 タマモは腰を浮かせかけた。衝動のままに逃げ出したくなった。寸前で体が止まった。彼女をとどめたもの。それは王の娘としての誇りではなく、あるひとりの少女の清楚な姿だった。たおやかで、しとやかで、上品な、そしてひかえめそうな美しい姿。がさつで、乱暴で、出しゃばりな自分とは正反対の女らしい少女の姿。

 タマモはうつむいた。唇をかんだ。浮かせかけた腰を再びおろした。拳を握りしめた。 ことり、と、どこかで小さな音がした。

 タマモは顔をあげた。

 その時がきたのだ。

△    ▽

 シュランドとカグヤの目の前で突風がまき起こった。それは車輪のように地面を進む、地上に横たわる竜巻だった。

 竜巻は地面をえぐり、霧を裂き、ツル植物を薙ぎ払い、そして、尸解仙の群れを呑み込み、吹き払った。あの頑健な尸解仙たちが糸の切れた凧のように回転しながら吹き飛んでいく。脚がちぎれ、腕がもげ、五体がばらばらになり、転がるほど細かくなり、ついには細切れの肉塊と化していく。突如としてまき起こった横倒しの竜巻にはそれだけの威力があった。

 シュランドはその光景に唖然として見入っていた。

 「津波……」

 カグヤが呟いた。各地を旅し、多くのものを見聞きしてきた彼女にはその竜巻の正体がわかった。それは強烈な真空波と衝撃波とをあわせて津波状に打ち出し、相手を粉砕する侍の、それも、数少ない超一流の侍だけが使える神技。

 この技を受けた相手はまさしく津波にあった棒切れのように波に呑まれ、翻弄され、吹き飛ばされる。しかし、いったい何者がこの神技を使ったのか……?

 津波の残響が去ったとき、ふたりの前には干上がった川のような跡が地面をえぐってついていた。その向こうから足音が聞こえた。シュランドは斧を手にカグヤをかばって前に出た。

 足音の主が姿を現した。巨熊のように魁偉な体躯。右手にもった巨大な太刀。そして、その姿にはあまりに似付かわしくない人なつこい笑み。

 「よお。また会ったな、少年少女」

 「あなたは……」

 そこに立っていたのはあの男、出雲の町の手前で会った大男の侍だった。

 「あ、あなたが助けてくれたんですか……」

 シュランドはようやくそれだけを言った。

 「ありがとうございます。おかげで助かりました」

 「礼には及ばん。あやつらを始末するのはわしの義務だからな」

 「義務?」

 「まあ、それはよい。それより、お前さん方、なぜこんなところにいる? 子供が遊びにくるような場所ではないぞ」

 「実は……」

 シュランドは事情を説明した。

 大男の侍は話を聞き終えると露骨に眉をしかめた。

 「ふうむ。生け贄の儀式を復活させたか。それもタマモ姫自ら。そこまで追い込まれているとはのう」

 「お願いです! おれたちに力をかしてください。なんとしてもタマモ姫を助けなきゃ。生け贄なんて絶対に許しちゃいけない!」

 「頼まれるまでもない。タマモ姫はかならず助け出す」

 「本当ですか⁉」

 シュランドの表情が輝いた。

 「うむ」

 大男は重々しくうなずいた。そうしているとこの男にはたしかに、万民を統べる王たるものの威厳があった。

 「やった、カグヤ! これで百人力だ。きっと、タマモ姫を助け出せるよ」

 シュランドは喜び勇んで叫んだ。

 「ええ」

 カグヤは彼女らしい、ひかえめな微笑で応じた。

 すると、大男はふたりのやりとりがおかしかったのか、先ほどの重々しさもどこへやら、例の人なつこい笑みを浮かべて冗談ぽく言った。

 「それにしてもお前さん方、さしたる力があるわけでもないのに赤の他人のために生命まで懸けるとはのう。勇敢と言うか、無謀と言うか……」

 その言い方にシュランドはむっとした。小馬鹿にされたように感じたのだ。唇をとがらして反論した。

 「こんなことに他人かどうかなんて関係ないですよ。大体、あなただって彼女とは何の関係もないじゃないですか」

 「ところが、そうではないのさ」

 「えっ?」

 「わしとタマモ姫の間には大いに関係がある」

 「関係って……」

 「タマモ姫はわしの子孫のようなものだからな」

 「子孫?」

 「それはどういう……」

 大男の言葉にシュランドはびっくりし、カグヤはいぶかしげに眉をよせた。大男はとっておきのいたずらを披露する子供のような笑顔で言った。

 「わしの名はヤチホコ。タマモ姫の祖先の兄だ」

△    ▽

 タマモの前にいま、ひとりの異形の人間が立っていた。

 ひとりと言っていいのかどうか。

 ふたりと言うべきなのかも知れない。

 前後両面についたふたつの顔、四本の腕、四本の脚をもつ身の丈七尺以上の怪人。

 宿儺人。

 あるいは両面宿儺。

 その名で知られるかつての出雲の守り神。

 その怪人がいま、下の二本の腕に弓、上の二本の腕にはそれぞれ太刀をもち、タマモの前に立っていた。

 タマモは息を呑み、かすかに震えながら怪人の姿を見つめていた。

△    ▽

 「あなたがヤチホコ……さま? 出雲の地を統一なさった……」

 カグヤが大男を見上げながら言った。

 大男――ヤチホコはうなずいた。

 「さよう。わしこそは父カンバヤと共に幾多の戦いをくぐり抜け、出雲の地を統一し、新生・出雲を打ち建てたヤチホコさまよ」

 ヤチホコは傲然と胸をそびやかした。自らの業績を自慢するその姿は嫌味なところがまったくなく、爽快なほどだった。

 「うそだ……!」

 シュランドが叫んだ。

 「だって、ヤチホコさまは一〇〇年も昔の人だ。生きているはずがない!」

 「それに、ミカゲさまのお話ではヤチホコさまは五十の年に黄泉比良坂に入られたとか。あなたはどう見ても三十そこそこ……」

 「さればよ。それこそがこの地の奇々怪々なところでな」

 「どういう意味です?」

 「それは話せば長きこと。それよりもタマモの身が心配だ。まずは祭壇に向かおうではないか。道々、話すとしよう」

 「祭壇の場所をご存じなんですか?」

 「むろんよ。わしとて若い頃には生け贄を捧げるために幾度もその道を通ったものだからな」

 ヤチホコはそう言うと先に立って歩き出した。シュランドとカグヤは後に従った。そうしているとふたりの姿は親鳥の後についていく雛鳥のように見えた。

 歩きながらヤチホコは語りはじめた。

 「わしは侍などという異常な力をもつ人種によって、無力な一般人が抵抗もできずに殺されていく姿を子供の頃からずっと見てきた。やがて、侍は侍だけで住むべきだと考えるようになった。そこで、侍たちを引き連れ、黄泉比良坂にのぼった。山の一部に村を作り、暮らしはじめた。最初は何事もなく過ぎた。だが、あるとき突然、宿儺人の群れが襲いかかってきてな」

 「群れって……宿儺人ってひとりじゃないんですか?」

 シュランドが尋ねた。

 「うむ。わしも知らんかったが、大勢の宿儺人がおった。それにしても、それまで宿儺人が人間を襲ったなど聞いたこともないのに、急に攻めてきおった。あるいは、なんらかの禁忌を破ってしまったのかも知れぬ。だが、とにかく、襲われたとあっては応戦せざるをえぬ。なにせ、警告もなにもなく、いきなりだったからな。

 わしらは戦った。だが、さすがに日照りをおさめ、冷害を打ち払う力をもった宿儺人よ。歴戦の侍でさえ容易には勝てん。戦いは三日三晩つづき……ついに、わしを残して全滅してしまった。

 そこでわしは一旦、山をおりることにした。もう一度準備を調え、挑むつもりでな。ところが……」

 ヤチホコは自嘲気味に笑った。

 「なんたることか。山をおりてみるとそこでは百年の時が経っておったのよ」

 「そんな……!」

 あまりのことにシュランドは声を失った。

 「ヤチホコさまはどれだけの間、この山におられたのです?」

 カグヤが尋ねた。

 「さよう。一年ほどだ」

 「わずか一年?」

 カグヤは眉をよせた。

 「うむ。村を作ってより毎日、暦を数えておったからまちがいない。この山と外の世界では時間の流れがちがうようだ」

 「時間の流れがちがうなんて……そんなこと、信じられない」

 シュランドが頭を振った。

 カグヤが冷静に指摘した。

 「でも、仙境を訪れて帰ってみたら何百年もたっていた、という伝説はいくつもあるわ。ここがそのひとつなら……」

 ヤチホコはうなずいた。

 「さよう。その意味においてこの地はまさに仙境。我々の住む世界とはまったくの別物だ。しかも、この地にいる間、わしはだんだんと若返っていった」

 「それで、いまのお姿に?」

 「そうだ。それもわしだけではない。他のものも若返った。人間だけではなく、道具の類まで新品に戻っていった。といって、完全に昔の姿に戻ったわけではないがな」

 「どういう意味です?」

 「見よ」

 と、ヤチホコは腕をあげ、力こぶを作って見せた。

 「すさまじい筋肉であろう?」

 「……ええ」

 「いかにわしが『武神』と呼ばれた身であっても以前は、つまり、本当に三十代であった頃はここまでの筋肉はついていなかった。若返るほどに筋肉もますます盛りあがっていったのよ」

 「ただ若返るのではなく、より強く、よりたくましくなるということですか?」

 「そうとも言えんな。変化は人それぞれだ。わしはたまたま強くなったが、弱くなったものもいた。手足が新たに生えてきたものもいるし、はなはだしい場合は怪物へと姿をかえてしまうこともあった」

 信じられないような話にシュランドとカグヤは互いの顔を見合わせた。

 「信じられんのもむりはない。だが、すべて本当にあったことよ。そんなことが起きたのでさすが、歴戦の侍たちも気弱になっての。山をおりるかどうかということになった。宿儺人が襲ってきたのはその矢先よ」

 ヤチホコの声には後悔の念がにじんでいた。

 「ともかく、それからわしは山をおりた。まさに驚きの連続であったよ。百年もたっているうえに、尸解仙などという化け物が出雲の町を襲うようになっていたのだからな。しかも、その尸解仙どもはこの地に埋葬された死者たちの蘇った姿とは……」

 「……宿儺人と戦ったとおっしゃいましたね?」と、カグヤ。

 「殺したのですか?」

 「……うむ。頭らしい一体をのぞいて、な」

 「では、もしかして、あの異変はそのための……」

 シュランドははっとしてヤチホコを見た。

 ヤチホコの表情は沈痛に沈んでいた。

 「そうかも知れん。そうでないかも知れん。そうであればもちろん、そうでないとしても出雲を守る力たる侍をひとり残らず連れ去ったのはわしだ。わしが解決する義務がある。あるいは、ミカゲの言ったとおり、生け贄の儀式をやめたせいなのかも知れん。だとすればやはり、儀式をやめさせたわしの責任だ」

 「そんなことない!」

 シュランドが叫んだ。

 「生け贄を中止したのは正しいことです! どんな理由があったって、他人を犠牲にして生き伸びるなんてあってはならないんだ、そんなこと、絶対にまちがってる!」

 シュランドは少年らしい一本気な視線でヤチホコを見た。ヤチホコはそんな少年を厳格なほどの視線で見返した。そして、呟いた。

 「そう言えるやつが……いてくれたのだな」

 しみじみとしたその呟きは、人の心を打つ情感に満ちていた。

 三人はなおもしばらくの間、歩いた。やがて、大きな岩戸の前に出た。ヤチホコが言った。

 「この岩戸の向こうが祭壇の間だ」

 「この向こうにタマモ姫がいるんですね?」

 シュランドが興奮して叫んだ。

 「そうだ」

 「早く開けてください!」

 「まあ、あわてるな。この岩戸は力任せでは開かんのだ。ある祈りを唱えなくてはならんのだが、これがなかなかまどろっこしくてな……」

 ヤチホコは露骨に顔をしかめた。眉間にしわをよせ、祈りの言葉を思い出しているふうだ。生粋の武人だけあってこの手の、神官がするような作業は苦手らしい。

 しばらくしてからヤチホコがようやくうなずいた。祈りの言葉を思い出したらしい。ゆっくりと唱えはじめる。その言葉は妙に間延びしたもので、本人も言ったとおり、ひどくまどろっこしいものだった。聞いていると苛々してくる。

 ――早く、はやく!

 シュランドは胸に騒ぎながら地団駄を踏んだ。

 ――こうしている間にもタマモ姫が殺されてしまうかも知れないんだ!

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