《カグヤ》(2)
いきなり、強い力で突き飛ばされた。地面を転がった。とまったところで驚いて見上げた。彼女は見た。自分をかばうようにして 《すさまじきもの》と自分との間に立つ男の姿を。
まだ若い男だった。歳の頃はせいぜい二〇ぐらいだろう。端正なその顔立ちにはまだ幼さが残っている。しかし、天をつくような長身、がっしりとした胸板、全身に張りついた重々しいが機能的な筋肉の鎧は何十年もの間、戦場を駆けてきた歴戦の戦士を思わせた。
いったい、どうすればここまで屈強な肉体を手に入れることかできるのか。
その場の情況も忘れ、ウズメがそんな思いを抱くほど、男の肉体は見事なものだった。
「立てるか?」
男が《すさまじきもの》をにらみながら言った。自分に向かって言ったのだ、ということにウズメが気がつくまで、わずかな時間があった。
「立てるなら逃げろ。そうでないならじっとしていろ」
男は言った。命令口調と言うより、話し慣れしていないためにぶっきらぼうになっている、そんな口調だった。
男は右手にもった斧を顔の高さにかかげた。斧と言ってもごく粗末な、薪割り用の小さな手斧だ。屈強な男の手にもたれていてはせいぜい大振りな短刀のようにしか見えない。
男はそんなちっぽけな武器だけを手に、《すさまじきもの》に立ち向かおうとしているのだ。
――わたしを守るために……。
その思いが心に浮かんだとき、ウズメのなかで生神とはちがうもうひとりの自分の心臓がどくんと鳴った。
男が動いた。
《すさまじきもの》に向かって。
大地を蹴って、駆けると言うよりも跳んだ。わずか一足で《すさまじきもの》との間合いをつめていた。手斧をもつ右手が水平にふるわれた。一〇〇年を経た芸術家が迷いの果てについにたどりついた線を思わせる軌跡。一切の無駄のない、『相手の首を落とす』という目的のためだけに研ぎ澄まされた、まがまがしくも美しい軌道。猛々しい筋肉の力と洗練の極みに達した技とか完璧に融合した姿。ごうごうと流れ落ちる滝でさえ両断しただろうと思わせる一撃だった。
白くきらめく斧の刃が寸分の狂いもなく《すさまじきもの》の首筋に打ち込まれた。だが……。
乾いた音を立てて手斧は折れていた。刃が砕け、柄の中程からふたつに折れていた。折れた刃先は回転しながら宙を飛び、むなしく地面に転がった。
薪割り用の簡単な作りの、それも古びているとはいえ、斧は斧。その刃は強靭な鋼でできている。その刃がいともたやすく砕け散ったのだ。《すさまじきもの》の皮膚は鉄よりも硬い。それもはるかに。そうとしか考えられなかった。
その事実にウズメは目を見張った。信じられない思いだった。だが、愕然としているのはウズメだけで男のほうは眉ひとつ動かすことはなかった。
――こんなことで倒せる相手ではないのはわかっている。
そう言わんばかりの態度だった。
男は平然と手に残った斧の柄を放り捨てた。両拳をかかげた。武器を失ってもなお、この男は戦うつもりなのだ。
《すさまじきもの》の胸が光った。稲妻が放たれた。幾筋もの雷光が男を襲った。男ははじかれたように倒れた。ウズメは声にならない悲鳴をあげた。しかし、倒れたと思った男は何事もなかったかのように立ちあがった。パネ仕掛けのオモチャのように、『ぴょん』と音を立てそうな身軽さで。
武芸の心得のないウズメにわかるはずもないが、男は稲妻に撃たれて倒れたのではなかった。膝の力を抜き、自ら後ろに倒れ込んだのだ。それがもっとも早く稲妻をかわす方法だったから。
もし、地面を蹴って飛びすさろうとすれば間に合わなかった。稲妻につらぬかれ、死んでいた。だが、とっさに『膝を抜き』、筋肉の力ではなく、重心を移動させて一気に倒れ込むことで、間一髪、稲妻を避けることができたのだ。見る者が見ればその動作ひとつで男の並々ならぬ技量を見抜いたところだ。
《すさまじきもの》の胸がふたたび光った。もう一度、稲妻を放とうというのだ。だが、今回は男のほうが早く動いていた。あまりの速さに残像が連なり、体がのびたように見えるほどの動き。獲物を狙って急降下する隼の勢いで男は《すさまじきもの》に襲いかかった。
男の右手が雷光となって繰り出された。鍛えぬかれた手刀が《すさまじきもの》の巨大な目をつらぬいた。うつろな風洞を思わせる目がつぶれ、体液がほとばしった。鋼よりも強靭な《すさまじきもの》の肉体も、目だけはそうではなかったのだ。それは、《すさまじきもの》もまた当たり前の生物の一種であることを示していた。
男の右腕が巌のようにふくれあがった。太いものが引きちぎられる音がした。男が右手を抜いた。その手にはビクビクとうごめき、体液をしたたらせる生物の組織が握られていた。男は《すさまじきもの》の目の奥にある体組織を引きちぎったのだ。
さしもの《すさまじきもの》にとってもそれは限界をこえる痛手だった。声をあげることもなく、異形の胎児は倒れふした。
男は引きちぎった組織をすてた。ウズメに近づいた。一声もかけることなくその体を抱きあげた。そう思ったときには走りだしていた。町の外に向かって。ウズメの体重など毛ほどにも感じていないような、風のような走り方だった。
「とこへ……」
男に抱かれながらウズメはようやく言った。
男はぶっきらぼうに答えた。
「とりあえず逃げる」
「でも、町の人たちが……」
「どうにもならん」
「でも……!」
目の前で炎がふくれあがり、壁となった。男はかまわず走りつづけた。ウズメは目をつぶった。男の体が跳んだ。ウズメを抱えたまま跳躍し、炎の壁を軽々と飛び越えていた。
――この男だわ。
男の腕に抱かれて宙を飛びながら、ウズメの生神としての感覚がそのことを告げていた。
――この男が世界をかえるきっかけとなる。わたしは……わたしはこの男と出会うために生まれてきた。
直感をはるかに超えた、生神としての確信だった。
ウズメは尋ねた。
「あなたの名は?」
男は答えた。
「シュランド」
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