第三部
《カグヤ》(1)
燃えていた。
炎のはじける音と建物の崩れる音、そして、死の恐怖にさらされた人々の悲鳴を連ねながら、日向の町はごうごうと燃えていた。
炎は地面をなめつくし、建物という建物すべてを巻き込んで崩壊させながら、渦を巻いて天高くのぼっていく。炎に焼かれ、消し炭となった人々の死体が激しい風にあおられて塵となり、黒い竜巻となって町をおおっていた。そのありさまを遠くから見る者がいれば無数のハエの群れが町を襲っているように見えただろう。
想像しただけで吐き気をもよおすありさま。
それほどにむごい光景だった。
渦巻く炎と黒い竜巻とを従えて、日向の町を見下ろすかのごとくそびえ立つものがいた。
《すさまじきもの》。
高天原を攻め落とし、出雲の町を廃墟とかえた《すさまじきもの》の王。その王がいま、日向の町を蹂躙し尽くそうとしているのだ。
異形の胎児を思わせるその巨人は一〇〇〇年を経た巨木のように太い腕でしっかりと大地をつかみ、消え果てようとする町のなかに立っていた。自分が消し炭にかえた人々の死体、その成れの果ての黒い塵におおわれ、全身をたたかれて、異形の巨人は歓喜に震えているように見えた。見ているだけで永遠の虚無に吸い込まれそうな、その虚ろな双眸の奥に知性とか感情とかいったものが存在すれば、の話だが。
むき出しの心臓を思わせる脈打つ胸が輝き、幾筋もの稲妻が放たれた。稲妻は地面を撃ち、えぐりとり、石畳で舗装された道を岩質の地面がむき出しの穴へと作り替えた。その地面すらあまりの高温に溶解し、沸騰し、溶岩の塊と化していた。
稲妻に撃たれた地面が無数の岩塊となってはじけ飛び、逃げまどう人々に容赦なく襲いかかる。岩塊に身をつらぬかれた人間は目と口とを見開いたままその場で息絶え、倒れ、炎に追い付かれて焼き尽くされ、消し炭となって新たに黒い竜巻に加わっていく。
『酸鼻』という表現すら生ぬるい、それは地獄絵図だった。
それでも人々は万にひとつの可能性にすがりつき、生き延びようと必死に逃げていた。家を、財産を、家族を、産まれたばかりの赤ん坊さえすてて身ひとつで逃げていく。力のかぎりに走り、他人とぶつかり、前をふさぐ人間を押し倒し、踏み潰す。あるいは逆に自分が後ろからきた人間に押し倒され、他人の足に踏み潰され、死んでいく。そこにいたのはもう人間の集団ではなかった。恐慌にかられ、危険から逃れようとする本能だけに支配された獣の群れだった。それでもなお、それは人々の営みの姿だった。
そんな人々をなおも襲うものがいた。《すさまじきもの》の群れである。王のように巨大ではない。せいぜいが人間のおとなと同じ、むしろ、少し小さいぐらいの大きさでしかない。しかし、その姿形はあくまでも《すさまじきもの》そのものだった。彼らもまた王と同じに脈打つ胸から稲妻を放ち、逃げようとする人々を殺していく。その殺し方はあくまでも緻密で正確、王のような大規模だが荒っぽいやり方ではなく、一人ひとりを確実に殺すための暗殺者のやり方だった。いや、むしろ、家のなかのハエを一匹いっぴきたたきつぶそうとするやり方と言うべきか。
いずれにしてもその小さな《すさまじきもの》の群れの殺し方には『ただのひとりも人間を生かしておくまい』というはっきりした意志があった。ただ殺すことを楽しむ残虐な怪物のそれではなく、明確な目的をもった知性を感じさせる、それだけに限りなく冷酷な『狩り』だった。
町を包囲し、どんな細い路地にも入り込み、生きた人間の姿を見ればどこまでも追い掛け、確実に殺す。すでに焼けくずれ、瓦礫と化した建物でさえ、その瓦礫をとりのぞいてなかにもぐり、生きた人間がいないかどうか確認する。身を焦がす炎など春の日差し程度にしか感じていないようだった。
炎に巻かれながらうぶ着にくるまれた赤ん坊が泣いていた。泣いているというより、泣き声の残滓を放っていた。はっきりした泣き声すらあげられないほどにその赤ん坊は弱っていた。親にすてられ、地面に投げつけられ、炎の熱と口や鼻に入り込む黒い塵に襲われ、その小さな生命は急速に失われようとしていた。放っておけばあと数分で死ぬにちがいない。
炎の壁を割って《すさまじきもの》が現われた。その小柄な《すさまじきもの》は赤ん坊に近づいた。地面を踏みしめる拳を赤ん坊の上にそえた。そのまま踏み潰した。哀れな赤ん坊は《すさまじきもの》の拳の下で血と肉の混じりあったぐちゃぐちゃの汁と化した。
目的を達した《すさまじきもの》は新たに殺すべき相手を求めて炎の壁のなかに消えていった。
放っておけばかならず死ぬ赤ん坊ですら確実に殺す。
人間の生き延びる確率はどんなにわずかでも残しはしない。
残してはいけない。
その断固たる意志のあらわれだった。
この完全なる殺戮の前では生き延びることのできる人間などひとりもいないだろう。
そう思われた。
だが、そのむごすぎる光景を目をそらすことなく見下ろしている人間の少女がいた。歳の頃は一六、七。白と緋色の巫女の衣裳に身を包み、額には第三の目をかたどった飾りをつけている。炎に照らされるその顔はたおやかでとても美しい。静かななかにも芯の強さを感じさせる顔だった。長い黒髪は風にあおられ、交尾期のヘビのようにくねりながらも美しいつややかさを保っていた。
少女は大きな社の頂上にたてられたピラミッドからその光景を見下ろしていた。晴れ渡った夜空を思わせる透き通った瞳に限りない悲しみをたたえながら。
少女の名はウズメ。
日向の町の巫女。
生神である。
神と人の仲立ちとなって神に仕え、神の恵みを地上にもたらす。
生神とは本来、初潮を迎える前の童女に限られる。神事をつかさどる老女たちの占いによって町に住む五歳前後の娘のなかから選ばれ、先代の生神からその魂を受け継ぐ儀式を受け、そのときからピラミッドにこもり、世間との交わりを一切、断った生活をはじめる。そして、初潮を迎えると、
――神の国から人の国に戻った。
と、見なされ、生神の役を退き、ひとりの人間に戻る。
一六歳の生神など、本来ありうべからざる存在だった。だが、ウズメは一二年前に生神に選ばれたときからずっと、その役を果たしつづけてきた。後を継ぐべき童女がいなかったわけではない。神官や民が代替りを望まなかったわけでもない。それどころか、誰もが一刻も早く新しい生神が誕生してくれることを願っていた。それなのに、ウズメは生神でありつづけた。一六歳となるいままで。
その理由は彼女の肉体にあった。ウズメの肉体は歳相応に成長し、成熟していた。ふっくらした胸も、丸みを帯びた尻も、その年齢にふさわしい女らしさをそなえ、清楚ななかにも匂うような色香を漂わせていた。もし、彼女が当たり前の普通の娘として町で生活していれば、今頃は夢中になった男たちに囲まれていたにちがいない。
それなのにただひとつ、彼女の肉体には当たり前の変化が起きていなかった。ウズメはまだ初潮を迎えていなかった。
一六歳になっても初潮を迎えない。そんなことが本来、ありえるはずがない。神事をつかさどる老女たちもそのことにとまどった。しかし、初潮を向かえていない生神を降ろすことはできない。それは先例に反する。ために、ウズメは生神でありつづけ、過去、例を見ない高齢の生神となった。
そんなウズメに対し、町の人たちは生神というより、薄気味悪い怪物を見るような目となっていた。
――引きずりおろしてしまいたいが、後のたたりが恐ろしい。
そう思っていることがはっきりと感じられた。
――本当は女ではないのではないか?
そんな噂も立っていた。
姿形は女でも、実はそうではないのかも知れない。だとすれば、神の怒りが恐ろしい。よりによって女ではない『何か』を巫女として捧げてしまったのだ。人間にあざむかれた神がどれほど怒るか。その怒りがどんな形になって降りかかることか。人々は気が気でなかった。
一刻も早く初潮を向かえ、退いてほしい。もし、それがないというなら早く死んでもらいたい。
それが町人たちの偽らざる心境だった。
なぜ、自分がこんなにも特別なのか。その理由を彼女は知っていた。彼女自身だけが知っていた。あの少女と出会ったからだ。
サラサラの銀の髪と紅玉のような深紅の瞳をもつ少女。その少女が自分の前に現われたとき、自分は永遠にかわったのだ。
『この世界のため、あなたの生命をもらう』
少女はそう言った。
その言葉を聞いたとき、ウズメの肉体は根本から作り替えられ、常人と同じ時を刻むことを許されなくなった。
そう。自分は少女によって怪物へとかえられたのだ。
あの少女はなんだったのか。あるいは、あの少女こそ自分の仕えてきた神そのものだったのかも知れない。そうでないのかも知れない。
わからない。
わかっているのは自分がその少女によってなんらかの役割を背負わされたということ。ただ、それだけ。それがいったいどんな役割なのかまではわからないけれど。
その特性のためか、あるいは神との交感をあまりに長くつづけてきたせいか、ウズメの生神としての力は過去のいかなる生神も比較にならないほど強大なものとなっていた。
彼女は天候を正確に占うことができたし、人の生き死にを予知することもできた。田畑にどんな病気や害虫が発生するかを見抜き、予防することができた。敵に攻め込まれても彼女の予知によってすべて前もって知ることができたので先手を打って撃退することができた。彼女はたしかに日向の町の守り神だったのである。
だが、ウズメが力を発揮すればするほど、人々はその力を恐れるようになった。
彼女のことを自分たちとはまったくちがう『何か』だと思い、身のまわりの世話をする侍女たちでさえ、怯えながら接するようになった。ウズメもまた、自分と普通の人間との間にある越えがたい垣根を感じ、自ら身を引いていた。
そして、《すさまじきもの》たちがやってきた。ウズメの予知能力は早くからこの日がくることを知らせていた。町が灰燼と化し、すべての人が殺される日の訪れを。
ウズメはそのことを誰にも告げなかった。神事をつかさどる老女にも。身のまわりの世話をする侍女たちにも。
無意味だったからだ。
《すさまじきもの》たちの襲来を教えたところでどうにもならない。立ち向かい、撃退することはできない。戦っても、戦わなくても滅ぼされるだけ。ならば、その日の訪れを教えることはない。その日がくるまでは平安に、楽しく、幸せに暮らしてもらいたい。
そう思ったのだ。
だからウズメはこの日の訪れは告げず、そのかわり、心地よい予言だけをした。
理由はもうひとつある。
日向の滅びをきっかけに世界はかわる。
その予感が強くしたのだ。どのようにかわるのか。よい方向へか、それとも悪い方向へか。それはわからない。
そこから先は靄がかかったように隠されており見ることはできない。どんなに精神を研ぎ澄まし、見据えようとしても靄が晴れることはとうとうなかった。だが、とにかく、世界はかわる。その確信だけはあった。そして、そのために自分が関わることも。
――自分の存在が世界をかえるきっかけとなるのなら……。
ウズメは思った。
――その役割を果たしてみたい。
その欲求はとうてい耐えることができないほどに強烈だった。
だから黙っていた。誰にも言わなかった。どうせ、言ったところで対処する術はないのだし……。
――でも……。
破壊と殺戮の様を見下ろしながらウズメは思った。生きていた人間の体が灰となり、逃げ遅れて泣き叫ぶ子供の体をおとなたちが踏みにじる。その光景を見ているうちにウズメの心はぐらぐらとゆれた。
――これでよかったの? 本当に……?
滅びはさけられない。その日がくるまでよけいな不安を感じずに幸せに暮らしてほしい。
そう思った。
しかし、それは、『世界をかえる役を果たしてみたい』という自分の欲求を叶えるためのごまかしではなかったか。
予知を告げていれば、戦うことはできないまでも、逃げることはできたのではないか。そうしていれば少なくともこんなにも多くの人たちが死ぬことはなかったろう。
町をすてた人たちの生活はつらく、厳しいものになるだろうが、それでも殺されるよりはましだ。逃げることさえできなかったとしても、それでもなお人々に運命を語り、その日がくるまで幸せに暮らせるよう、人々を愛し、支えることこそ生神としての自分の役割ではなかったか。
――わたしは自分の欲望のために人々を地獄に落としたのかも知れない……。
いや、それどころか。
――もしかしたら、これこそがわたしの望んでいたことだったのかも……。
町の人たちの思いは理解しているつもりだった。憎んでなどいなかった。むしろ、愛してていた。だからこそ、生神としての務めに誠心誠意、励んできたのだ。それでも、心の奥では憎しみがあったのかも知れない。自分が望んだわけでもないのに生神として選んでおきながら、そして、自分の力にまちがいなく恩恵を受けておきながら、その存在を厭い、恐れていた人々に対して。
この日の訪れを告げなかったのはその復讐のためではなかったか。復讐のためにこの地獄絵図を演出したのではないか。伝えない理由としてあれこれとあげた理屈はすべて、復讐心をごまかすために自分で自分についた嘘ではなかったか。
ウズメは狂ったようにかぶりを振った。耳をふさいだ。その思いは彼女に耐えられるものではなかった。愛していた町の人々。その人々を自分は本当は憎んでいたのかも知れないなんて……。
稲妻が走った。《すさまじきもの》の王が放った稲妻が。その閃光は社を撃ち、側面を破壊した。ぐらり、と頂上が傾いた。最初はゆっくりと。ある程度傾くとあとは一気だった。頂上は音を立ててほとんど垂直になり、ピラミッドがくずれた。ウズメはピラミッドとともに放り出され、階段を転げ落ちた。地面に叩きつけられてようやくとまった。その激しい落下で傷つくことがなかったのが奇跡ならば、上から降りかかってきたピラミッドの残骸に押しつぶされることがなかったのは、もはや神の加護とでも呼ぶしかない幸運だった。
だが、ウズメの幸運もそこまでのようだった。ようやく立ちあがったウズメの目の前。そこに《すさまじきもの》が立っていた。
ウズメは真っすぐに顔を向け、底無し沼のような虚ろな双眸と対峙した。
その《すさまじきもの》の大きさは熊と同じくらい。屈強の狩人ででもあれば戦い、撃退することも可能かも知れない。しかし、わずか一六歳の少女、それも、巫女として暮らし、玉串よりも重いものなどもったこともない娘にいかなる抵抗する術があったろう。そして、瀕死の赤ん坊すらもわざわざ踏み殺した《すさまじきもの》が傷ひとつない人間を見逃すはずは絶対になかった。ウズメの前にあるもの。それは確実なる死。それだけだった。
人々の悲鳴はもはやない。ほとんどは殺され、生き残った人たちもすでに逃げようとする気力もなく、ただただこの恐怖の時間が早く終わってほしい、安息の死に早く迎えにきてほしいと望むばかりだった。
起こる音は炎のはじける音のみ。
動くものは《すさまじきもの》のみ。
死とあきらめの支配する世界のなかにウズメは立っていた。
《すさまじきもの》の胸が光る。ウズメに向けて稲妻が放たれようとした。ウズメは目を閉じた。
――かまわない。
そう思った。
町人にこの運命を知らせることもなく地獄に落とした自分だ。自分が生き残るなんて不公平だ。自分もまた町人たちとともに殺されるべきなのだ。世界をかえる役を果たせないのは残念だけど……いや、もしかしたら、自分がいまここで《すさまじきもの》に殺されることこそ、世界をかえるきっかけになるのかも知れない。
なにしろ、銀髪の少女はこう言ったのだ。『あなたの生命をもらう』と。それなら、悔やむものは何もない……。
ウズメは心静かに最後のときをまった。
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