承前(2)

 祭りの果てた夜明け前。

 カグヤはひとり荷物をまとめ、出雲の地を後にしようとしていた。

 「ひとりで行く気かい、カグヤ」

 シュランドの声がした。

 カグヤは振り返った。

 「……寝ていると思ったのに」

 「生粋の狩人をなめないことだな。それより、冷たいじゃないか。おれをおいていこうなんて」

 「わかっているでしょう? わたしはいつまでも同じ所にはいられないわ」

 「わかってるさ。でも、君が行くときはおれも一緒だ。ずっとね」

 「でも、あなたはここで生きていける。それに、タマモ姫はあなたのことを……」

 シュランドはカグヤに最後まで言わせなかった。

 「ここに残るわけにいかないのはおれも同じだ。親父を探し、高天原を再興させなくちゃならないんだからな」

 「でも……」

 「ふたりとも、旅立つのか?」

 タマモの声がした。いつ起きたのか、タマモは大きな凛々しい目にまぶしいほどの光をたたえてじっとふたりを見つめていた。

 「ああ」

 シュランドはうなずいた。

 「君と会えて楽しかったよ。君はとても勇敢ですばらしいお姫さまだ。でも、おれにはやらなきゃいけないことがある。もう、お別れだ」

 「わらわも連れていってくれ!」

 その叫びはシュランドにとっても意外きわまるものだった。

 「なんだって?」

 目を丸くして聞き返した。タマモは真剣そのものの表情で訴えた。

 「おぬしたちには助けられてばかりじゃ。恩のひとつも返さぬまま別れることはできぬ。頼む。わらわも一緒に連れていってくれ」

 「なにを言ってるんだ。君はこの町のお姫さまじゃないか。君がいなくなったらこの町はどうなる?」

 「尸解仙の脅威の去ったいまなら多少、留守にしてもさしつかえあるまい。父上もきっとわかってくださろう」

 「でも……」

 「頼む、シュランドどの。わらわは……わらわは……」

 タマモの大きな目にたちまち涙があふれだした。唇を噛みしめ、じっとシュランドを見つめるその表情はいままでタマモが見せたことのないものだった。自分の気持ちを全身で必死に訴えかける女の子のものだった。

 タマモは涙をいっぱいにためてシュランドをじっと見つめる。そのいじらしいほどの視線に見つめられてシュランドの胸はどくり、と鳴った。

 いままでに感じたことのない思いを感じていた。力いっぱい、タマモを抱きしめたい衝動にかられた。思うよりも早く体が動こうとした。だが、彼がタマモを抱きしめるときは永遠にこなかった。シュランドの腕がタマモの体を抱きすくめようとするその寸前、地上に太陽が生まれた。

 そうと呼ぶほかないほどの激しい光と熱が町中に生まれ、轟音をたてて炸裂した。まるで、空気そのものが噴火したかのような激しさだった。爆風がはじけ、建物を吹き飛ばし、安堵の宴に酔い痴れていた人々の肉体を吹き飛ばした。爆風は空を飛ぶ魔獣の牙と化して吹き飛ばした人々に襲いかかり、真っ二つに引き裂き、手足をもぎ取り、首をねじ切った。ばらばらに引き裂かれた元・人間たちは建物の壁に叩きつけられ、跳ね返って地面に落ちた。そのときには彼らの肉体はすでに原型をとどめぬ肉塊と化していた。

 戦場を駆け巡り、敵兵を斬り捨てることに喜びを見いだす猛将でさえ胸が悪くなり、嘔吐するようなその光景はしかし、単なる災厄のはじまりにすぎなかった。『それ』がやってきたから。

 シュランドたちはあわてて外に飛び出した。そして、見た。人間という人間すべてを睥睨するかのごとく町の向こうに立つ、異形の巨人を。

 恐ろしく巨大な頭。闇を張りつけたようなふたつの目。牙の生えた口。胴体はそのまま尻尾となり、前向きにとぐろを巻いている。胴体の脇から生えた二本の腕は胴体よりも長く、握りしめた拳が地面を踏みしめている。足はなく、そのふたつの拳で地面をのし歩く。

 恐ろしく巨大な邪悪な胎児。

 《すさまじきもの》。

 高天原を滅ぼし、もて遊ぶかのように意味なく人々を殺し、破壊を繰り返す化け物。その化け物がついに、この出雲の地にも降り立ったのだ。それは出雲の滅亡を、そして、この地に生きるすべての人間の死を意味していた。

 《すさまじきもの》はふたつの拳をゆすりながらゆっくりと町に近づいてくる。その姿を見たとき、シュランドの脳裏でひとつの記憶がはじけた。

 ――あいつだ! 高天原を滅ぼした《すさまじきもの》の一団を率いていた……《すさまじきもの》の王!

 五歳のシュランドがその脳に刻み付け、夢のなかで幾度となく繰り返してきたその姿。その姿をいま、現実のものとして見上げているのだ。

 朝の訪れを告げる一陣の光が世界を照らすなか、むき出しの心臓を思わせる《すさまじきもの》の脈動する胸が光を発した。最初はおぼろな霧のように。ついで白く輝く太陽となった。

 《すさまじきもの》の胸から幾筋もの稲妻が放たれた。

 シュランドは悲鳴をあげた。絶叫だった。わずかの間をおいて……シュランドの放った悲鳴は町人すべてのものとなった。

 人々は皆、安心してぐっすりと寝入っていた。なんの心配もしていなかった。なぜ、心配などしなければならないのだろう。多くの町人を殺した尸解仙たちはもういない。他に敵はいない。襲われることなどない。心配するべきは起きた後のことだけ。店の品は売れるだろうか、家畜たちは元気に過ごすだろうか、魚は捕れるだろうか……それぞれの人がそれぞれの悩みを抱えている。しかし、それはすべて、起きた後のこと。せめて、夢の園を訪れているいまはなんの心配も不安もなく、心行くまで過ごそう。いまはもうそれができるのだ。寝ている間に襲われる心配なんてありはしないのだ。誰もがそう信じていた。だが――。

 《すさまじきもの》の放った稲妻が町を打った。大気が発光し、大地が裂け、家屋は砕け散った。轟音があがり、粉塵が舞いあがった。人々はなにが起きたかわからなかった。多くの人たちがわからないまま稲妻に打たれ、灰となった。第一撃をまぬがれた人たちは恐慌とともに跳ね起き、家の外に飛び出した。そして、見た。夜が明けようとする空を背景に、両の拳で地面を踏みしめて町に迫りくる異形の巨人の姿を。

 町人たちの表情は一瞬、化石と化した。あまりに現実ばなれした光景を見出だし、心が理解することを拒んだのだ。そして、その意味するところを理解したとき、すべての人たちの顔にこれ以上ない恐怖の表情が浮かびあがった。

 それをまっていたかのように、《すさまじきもの》の胸から二度目の稲妻が放たれた。先程よりもさらに強く、激しく、美しいほどのすさまじさをもって。

 出雲の町が噴火した。そうとしかいいようのない激しさで建物が吹き飛び、岩塊が飛び散った。人々は風にまかれる塵のように吹き飛ばされ、渦巻く大気の流れに飲み込まれ、五体を引き裂かれ、灰となって消え去った。

 町の一角に火の手があがった。橙色の火花がたちまち紅蓮の炎となり、流れ出る溶岩のように町中を飲み込んだ。闇に包まれていた世界は真昼よりも明るい、しかし、まがまがしい輝きに包まれた。

 「いかん!」

 タマモが叫んだ。

 「みなを逃がさねば!」

 絶対の滅亡を前にして、彼女はひとりの娘から王家の姫へと戻っていた。

 タマモは駆け出した。駆け出そうとした。その腕をシュランドがつかんだ。力任せに引きずり戻した。

 「だめだ!」

 シュランドは叫んだ。血走ったその目はこの少年には似付かわしくない恐怖に満ちていた。

 「だめだ、タマモ! 逃げるんだ! でないと君が殺される!」

 「馬鹿を申すな、わらわは姫じゃ! 姫たる身が民を見捨てて自分ひとり逃げるなどできるものか!」

 「格好つけてる場合じゃ……」

 ない!

 そう叫ぼうとしたシュランドの声は途中でとまった。《すさまじきもの》の胸から三撃目の稲妻が放たれた。稲妻は幾筋もの死神の矢と化して降りそそいた。そのうちの一筋がタマモをかすめた。シュランドの目の前で。少女は姫としての誇りをその表情に張りつけたまま、その身を真っ二つにされていた。

 すべてがゆっくりと流れていた。限界まで見開かれたシュランドの目の前で。タマモの体がふたつにわかれ、上半身はシュランドの手に引かれて宙に舞い、下半身は地面にくずれ落ちる。切断された胴体から血が吹き出し、あんなにも生きいきとした光に彩られていたタマモの瞳がその輝きを失った。

 そのすべての光景を、シュランドははっきりと目撃していた。

 「うっ……!」

 シュランドの口から悲鳴がもれた。

 「うわああああっ!」

 それは、少年の生涯でもっとも痛ましい絶叫だった。

 「タマモ、タマモおぉっ!」

 狂ったように泣き叫びながらひきちぎられたタマモの死体に駆けよろうとした。その体を抱きとめるものがいた。

 「だめ!」

 カグヤだった。カグヤがシュランドの体を抱きかかえ、押しとどめていた。

 「もう間に合わない、彼女はもう死んだのよ! 逃げるの、でないとあなたまで死んでしまう!」

 「うるさい、はなせ! タマモ、タマモ……!」

 なおも狂ったようにタマモを求めるシュランドを抱きかかえ、カグヤは走り出した。シュランドに冷静さが欠片でも残っていれば、このたおやかな少女になぜこんな力があるのか不可解に思ったことだろう。だが、このときのシュランドにはそんな余裕はなかった。自分がいまどうなっているのか、誰に運ばれているのかもわからずにただ、タマモを求めて腕を伸ばし、叫ぶばかりだった。

 天球が太陽の面を見せ、世界が朝の光に包まれた頃。

 《すさまじきもの》はその姿を消していた。

 残されたものは稲妻に打たれ、炎に焼かれ、踏みにじられ、単なる瓦礫の山となった町と無数の死体。骨まで灰になった死体が道端に転がり、真っ二つにされた体がわずかに残った家の屋根に落ちている。年端もいかない子供がくずれた建物に押しつぶされ、苦悶に満ちた顔だけを空に向けている。

 悲惨な光景だった。苦しみを追求する画家たちが一生をかけて描きたいと望む地獄の姿がそこにあった。

 その地獄絵をきらめく朝日が照らし出している。朝の光のさわやかさばかりはいつもと何らかわることなく、それがいっそうその場の痛ましさを際立たせていた。

 森や遠くの平原に逃れ、かろうじて生き伸びた人たちがぽつぽつと町に、いや、町の跡に戻りはじめた。彼らはあまりの衝撃に泣くことすら忘れ、ただただほうけた表情でその惨状を眺めていた。

 そのなかにシュランドとカグヤの姿もあった。ふたりの足元にはタマモの顔が転がっていた。ふたつの目をかっと見開いた怒りの表情。それは大切な町人たちを守れなかったことに対する無念の思いであったろう。

 シュランドはくず折れるようにしてその場にひざまづいた。タマモの顔をそっと抱き上げた。首だけになった少女を胸に抱きしめた。少年の体が細かく震えていた。焼き払われ、陶器のようになった土に涙が落ちた。低い嗚咽の声がもれた。

 シュランドは泣いていた。首だけになった少女をその胸に抱きしめながら、静かに泣いていた。大切な人を失った悲しみに、少年はただ泣きつづけた。

 「シュランド……」

 カグヤが呟いた。少年を見つめる顔はいまにも泣きだしそうだった。

 ――だから……だから、言ったのに。わたしなんていないほうがいいって……。

 自分がタマモを殺したのだ。カグヤはそう思っていた。タマモや、町のみんなを。自分がいれば《すさまじきもの》がやってくるのはわかっていた。どんな理由があっても自分は他人と一緒にいてはいけなかったのだ。それなのに……自分の甘さがみんなを殺したのだ。

 カグヤはシュランドの姿を見ていられなかった。顔を背け、後ずさった。このままシュランドのもとから立ち去り、もう二度と、誰とも会わないつもりだった。

 きびすを返し、駆け出そうとした。その足が途中でとまった。目の前にその男が立っていた。

 「カグヤ……?」

 シュランドが呟いた。カグヤがそばにいないことに気がついたのだ。我に返り、少女の姿を探した。その姿は巣に残されたまま母鳥の姿を探す雛のように心細いものだった。

 そして、見た。カグヤと、カグヤの前に立つ男の姿を。男は二十代後半ぐらいに見えた。屈強の戦士を思わせる均整のとれた長身と、暗黒の炎を宿したような黒い瞳をもっていた。そして不思議と……シュランドによく似ていた。似ているというよりシュランドの成長した姿のように見えた。そして――。

 その姿はシュランドのほのかな記憶のなかにあるものだった。

 「ま、まさか……」

 シュランドは呟いた。茫然と。ふらふらと立ちあがった。信じられない思いに目を見開き、男を見つめた。そして、言った。

 「親父……親父なのか?」

 男の姿はまぎれもなく、シュランドの記憶のなかにある父ヤシャビトのものだった。

 「そ、そんな……あれから十年もたってるのに……まるでかわってないなんて……」

 ヤシャビトは息子の言葉に答えなかった。答える気すらないようだった。彼は完全に自分の息子を無視していた。彼が視線を注いでいるのはシュランドではなく、カグヤだった。

 ヤシャビトはカグヤに右腕をのばした。

 「あ、あ……」

 カグヤは動かなかった。いや、動けなかった。自分に向かってくるヤシャビトの腕を前に魅入られたように立ち尽くしていた。

 「逃げろ! 逃げるんだ、カグヤ!」

 不吉な予感にかられてシュランドは叫んだ。しかし、カグヤは動けない。ヤシャビトの指先がそっと、カグヤの額にふれた。それから言った。

 「目覚めよ、《カグヤ》。お前の主人が迎えにきた」

 カグヤのなかでなにが起きたのか。ヤシャビトがその短い言葉を呪文のように唱えたとたん、カグヤがかわった。まったく別の存在へと。姿形はかわらない。しかし、中身がまるでちがっていた。やさしく、たおやかなその表情は硬質の線に包まれ、美しくはあるが生命のない人形のものとなっていた。

 カグヤがヤシャビトの前にひざまづいた。彼を見上げ、人形の表情のままに言った。

 「我が君」

 「………!」

 シュランドの心に稲妻のような衝撃が走った。

 「な、何を……カグヤに何をしたんだ!」

 シュランドは叫んだ。

 ヤシャビトがはじめてシュランドを見た。冷淡に。あくまでも無関心な様子で。それは決して子を見る親の表情ではなかった。邪魔者を見下すときの表情だった。

 ヤシャビトは言った。

 「さわぐな、小僧」

 「なに……⁉」

 「なにをしたもない。《カグヤ》の本来の姿に戻しただけだ」

 「なんだと?」

 「《カグヤ》は人間ではない。陰陽師が鬼を操るための媒体。陰陽師の血を引きながらひとかけらの能力も発現できぬお前には無用の存在」

 「な、なんだと……」

 ヤシャビトはそれ以上、シュランドを見ようとはしなかった。ふたたび、息子を無視していた。彼はカグヤに向かって言った。

 「ゆくぞ、《カグヤ》。我らはもはや地上には不要のもの。この世界は《すさまじきもの》の蹂躙するに任せておけばいい」

 ヤシャビトはきびすを返した。歩き出した。カグヤが立ちあがり、後を追った。シュランドは駆け出した。

 「ま、まて……!」

 ヤシャビトはたしかにまった。歩をとめ、シュランドを横目で見た。その目に力がこもった。光の矢が生まれ、シュランドの腹をつらぬいた。

 ――えっ……?

 何が起きたのかわからぬままにシュランドはひざまづいた。腹を押さえた。指の間からどくどくと血が流れた。

 「血、血が……血が……とまらない」

 はじめて身近に味わう死の恐怖に、シュランドの目から涙があふれだした。

 ヤシャビトはそんな息子に一顧だにしようとしなかった。ふたたび歩き出した。

 「ゆくぞ、カグヤ。我らは天球に帰り、天球に眠る。二度と地上におりることはない」

 「御意。我が君」

 カグヤはそう答え、ヤシャビトに付き従った。シュランドを振り向こうとはしなかった。

 「そ、そんな……」

 カグヤの後ろ姿を見つめるシュランドの顔が涙と苦痛と恐怖と、そしてさびしさとに歪んだ。

 「ま……まって、カグヤ……。血が……血がとまらない……死んじゃうよ、まって……カグヤ……」

 少年の言葉はしかし、カグヤには届かない。カグヤはヤシャビトに付き従い、振り向こうともせずに歩み去っていく。

 「う、うそ……だ……。カグヤが、あのカグヤがおれを見ない……なんて。……ねえ、カグヤ……戻ってきてよ……。痛いよ、死んじゃうよ、カグヤ、カグヤ……」

 地獄絵図と化した町に少年の絶叫が響いた。

 「カグヤあっ!」

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