承前(1)
その会話はもちろん、シュランドたちの知る由もないことだった。ふたりの人物が言葉をかわしている頃、シュランドたちはどうにか黄泉比良坂の崩壊から逃れ、麓におり、整地が崩れていく様を眺めていた。
巨大な山が火を噴き、壊れ、崩れさっていく。子供の作った砂の城のように。『聖地』と呼ばれた場所が無残にも消えていく様はシュランドに何とも言いようのない感慨を抱かせた。
しょせん、よそ者のシュランドでさえそうなのだ。先祖代々、黄泉比良坂を聖地として崇め、その恵みをもって生きてきたタマモの気持ちはどれほどのものか。それを思うとタマモの顔を見ることすらできないシュランドだった。だが――。
「《すさまじきもの》を犠牲にしてでも……」
ぽつり、と、シュランドは呟いた。
「あの男はたしかにそう言った」
「……ええ」
カグヤも静かにうなずいた。
「どういうことだ? どうして、人を殺してまわる《すさまじきもの》が人間の『犠牲』なんだ? 高天原で《すべての鬼の母》が言っていた『人類が未来に犯す罪』とやらと関係があるのか?」
もし、そうだとしたら――。
――ヤシャビトが人類を裏切った理由とも関わってくる……。
ぞくり、と、シュランドの背筋を不安とも興奮ともつかないものが駈けのぼった。
「わからないわ。何もわからない」
カグヤが長い髪をゆらしながら言った。
「いまはとにかく町に戻りましょう。タマモ姫が無事であることを教えてあげないと。黄泉比良坂で見聞きしたことも伝えないといけないし」
「そうだな」
シュランドはうなずいた。心の痛みを感じながらタマモを見た。声をかけた。
「タマモ」
「えっ?」
タマモは魂が抜けたような表情で振り返った。黄泉比良坂の崩壊に気をとられ、ふたりの会話は聞こえていなかったらしい。
シュランドはほっとした。自分が裏切り者の息子であることはタマモには知られたくない。
「戻ろう、町へ」
「あ、ああ……」
シュランドの言葉にタマモは操り人形のような動作でうなずいた。そして、三人は戻りはじめた。町への道を。
だが、そのさなか、彼らは思いかけない集団と出くわした。それは、出雲の旗をたてた軍勢だった。
驚いた三人は軍勢に駆けよった。先頭に立つ兵士――と言っても、単に槍をかまえ、粗末な甲をつけているというだけで、その風貌、物腰はどう見てもただの町人だったが――を捕まえて、事情を尋ねようとした。
ところが尋ねるよりもはやくく、タマモの顔を見た兵士がびっくりして騒ぎ立てた。その声はさざ波のように軍勢の間を伝わり、あっという間に泡立つような騒ぎに包まれた。あまりに多くの声が交じり合っているせいでなにいっているのか聞き取ることもできない。
シュランドたちがきょとんとして立ち尽くしていると、軍勢が左右に割れ、なかから輿に乗ったミカゲが姿を現した。輿に乗って兵士たちに運ばれてのこととはいえ、右の手足を失い、ひとりでは身動きひとつままならないミカゲが自ら出陣していたのだ。驚いたタマモは父に駆けよった。
タマモ以上に驚いていたのはミカゲだった。信じられないやら、うれしいやら、色々な気持ちが顔に現われては消え、また現われ、表情がめまぐるしくかわる。それでも駆けよる娘を見てようやくすべきことを思い出したらしい。兵士たちに命じて輿をおろさせ、従者の手をかりて立ち上がった。
タマモは父の目前で立ちどまった。美少年を思わせる凛々しい顔立ちにこのときばかりは父を気づかう娘らしい表情を浮かべ、父親の姿を見つめた。
ミカゲは半ば放心したような表情になっていた。よろよろした足取りで娘に近づいた。それは、体が不自由だからというより、激しい緊張から解き放たれて安堵したためであるように見えた。
タマモは目を見開いた。父の目に信じられないものを見たからだ。ミカゲは涙を流していた。部下たちの前であるにもかかわらず、無力な子供のように涙を流していた。タマモの驚きはこのときこそが最大だったかも知れない。
いついかなるときも国王らしく泰然として威厳に満ちていた父。
決して感情に流されることなく、豪胆さに裏打ちされたたしかな知性をもって何事でも処理してきた父。
タマモにとって父とは、物心ついたときからたくましく、揺るがず、巌のような存在だった。そんな父を誇りに思っていた。立派な国王だと思ってきた。だからこそ、タマモはそんな父の娘として恥ずかしくないよう、何事にも励んできたのだ。
もちろん、タマモもさびしい思いをすることはあった。幼いときには親と遊ぶ子供を見て、うらやましくなったこともある。もう少し成長したあとにはかわいく着飾った同年代の女の子たちを見て、自分は決してそんな格好をすることはないだろうと思ってつらくもなった。だが、そんな思いをすべて振り切ってひたすら『王の娘』として生きてきた。
そのことを後悔してはいない。そうしてきたことを誇りに思っている。なぜなら、なによりも国王としての姿勢をつらぬいている父を尊敬していたからだ。その父がいま、子供のように涙を流している。泣きじゃくっている。それこそタマモには信じられないことだった。
ミカゲは震える指先でそうっと娘の肩にふれた。まるで、ふれれば溶けてしまう雪の結晶にふれるように。それから、背中に腕をまわし、娘の華奢な体を抱きよせた。残された左の腕で力いっぱいに抱きしめた。頬を伝って流れ落ちる涙がタマモの頬を打った。それ以上にミカゲの呟いた言葉は少女の心を打った。
「よく……無事でいてくれた」
父のその一言を聞いたとき、タマモの心のなかでなにかが切れた。自分でもわからない感情があふれだし、頭のなかがめちゃくちゃになった。だが、そのめちゃくちゃさは少女にとって決して不快なものではなかった。むしろ、心地のいいものだった。タマモも泣きはじめた。父の胸に顔をうずめ、泣きじゃくった。
国王とその娘とが誰はばかることなく抱き合い、泣いている。
その姿にシュランドが、カグヤが、そして、まわりにいるすべての兵士たちが暖かい気持ちになり、知らずしらず涙ぐんだ。
ひとしきりの時が流れた。
先にらしさを取り戻したのはタマモのほうだった。涙の後のついた顔をあげ、父に尋ねた。
「父上、この軍勢は一体……」
「うむ、実はな……」
ミカゲは涙を浮かべたまま説明した。
彼の話によるとタマモを生け贄として送り出した後、その話が町中にあっという間に広まった。すると、噴火のような勢いで町人たちの間にミカゲが予想もしなかった反応が生まれた。町人たちは怒り狂ったのだ。
『あの勇ましい姫さまを犠牲にするとはなんたることだ、許しちゃおかねえ!』
その叫びが町中にあふれた。興奮した男たちが宮殿につめかけ、石を投げつけ、タマモを救いにいくように叫んだ。果ては『兵隊たちがいかねえならおれたちの手で助け出す!』と、家にある鎌やら鍬やらをもって集まり出す始末。その勢いにミカゲもついに折れ、志願者をつのって救出軍を組織し、やってきた、というわけだった。
タマモはその話に周囲を見まわした。よくよく見れば男たちばかりではなく、女や少年、タマモとそう歳のかわらないだろう女の子までまじっていた。タマモはしばらく声も出せず、金魚のように口をぱくぱくさせていた。
「お、おぬしら……」
ようやく、呟いた。
「おぬしら、わらわのために……」
「なあに、当たり前のこってすよ」
手頃な兜がなかったと見え、鍋などを頭にかぶっている男が陽気に言った。
「おれたちゃ姫さまを犠牲にして生き伸びようと思うほど腐っちゃいませんよ」
「そうですよ、姫さま。あたしらみんなの問題なのに姫さまだけに背負わせたんじゃあ、たとえ生き残っても心苦しいだけですからね」
言葉に出してそう言ったのはほんの数人だけだったが、誰もが同じ思いでいるのは明らかだった。タマモを囲むすべての人々が、まるで自分の娘を見るかのような暖かい眼差しで彼女を見つめている。
「ば……」
タマモの目に再び涙があふれだした。
「ばかものおっ! なんという真似をするのじゃ!」
助けようとした少女の怒りの叫びにまわりにいた人間たちはあっけにとられた。
「おぬしらに何かあったらわらわはいったいなんのために……! わらわは……わらわは……」
そこまでだった。それ以上こらえきれなかった。タマモの凛々しい目から涙があふれ出した。
「うれしいぞぉっ!」
その叫びとともに大声でわあわあ泣きはじめた。そんなタマモの姿をその場にいる全員が微笑ましく見つめていた。
「でも、あれからまだ一日もたってないのによく、そこまでできましたね」
シュランドが何気なく言った。
ミカゲは彼らしくもないきょとんとした顔つきでシュランドを見た。
「一日? なにを言っておる。タマモを送り出してからもう二十日近くたっておるぞ」
「二十日⁉」
シュランドは驚いて叫んだ。黄泉比良坂にいた時間はものの数時間のはずなのに……。 「シュランド」
とまどうシュランドの肩にカグヤが手を置いた。
「ヤチホコさまがおっしゃっていたでしょう。黄泉比良坂と外の世界では時間の流れがちがうのよ」
「あ、ああ、そうだっけ……」
シュランドはそのことを思い出した。けれど、『時間の流れがちがう』というのはやはり、感覚的に納得できない。
そんなふたりのやりとりを、ミカゲはさも不思議そうに見つめていた。
「今度はこちらが聞きたい。いったい、黄泉比良坂でなにが起きたのだ?」
そう訪ねるミカゲの顔はすでに娘を思う父親のものではなく、豪胆で冷静な国王のものに戻っていた。
ミカゲの言うところによると、黄泉比良坂めざして進軍していたら突然、黄泉比良坂が噴火した。何事かといぶかり、いずれにせよタマモの生命はもうないものと思い、途方に暮れて停止していた。そこへ、タマモがふたりと一緒にやってきた。こんなに驚いたことはない……。
「もちろん、これほどうれしいこともなかったがな。しかし、それにしてもそなたらは奇妙なことを言っておるし、そもそも、なぜ、そなたらがタマモと一緒にいるのだ? わからぬことだらけだ。説明してくれぬか?」
「ええと、それは……」
シュランドがどう説明すればいいのかわからず途方に暮れていると、カグヤがかわりに話してくれた。タマモの助けで地下牢を脱出したこと、彼女を助けるために黄泉比良坂に向かったこと、ヤチホコとの出会い、そして、黄泉比良坂の奥で出会った奇妙な人物とそれ以上に奇妙な話。
それだけのことをカグヤは順序だてて簡潔に説明した。
ミカゲはカグヤの説明を聞き終えると、深々と息をついた。
「う~む。そうか。そのような不思議なことが……。その御仁はさては神仙の類が地におりてきたものでもあったろうか。われら人間には及びもつかぬ玄妙な術でも試していたのかも知れぬな」
「はい。わたしもそのように思います」
「ふむ。それで、その御仁はたしかに以降は安全になると言ったのだな?」
「はい」
「そうか。そなたたち、わが娘のために生命まで懸けてくれようとは。そなたたちこそ真の英雄。このミカゲ、心より礼を言う」
ミカゲはふたりに向かって頭をさげた。
「そ、そんな……」
「頭をおあげください、ミカゲさま」
国王たる身に頭をさげられてふたりはあわてふためいた。そんなふたりに爽快なほどの笑い声がふりそそいだ。
「遠慮することはないぞ、シュランドどの、カグヤどの。英雄が感謝されるのは当然じゃ」
タマモだった。そう言って快活に笑うタマモの表情は以前のとおりに凛々しかったが、以前にはなかったほがらかな明るさが加わってもいた。
ミカゲは軍勢のほうに振り向いた。国王らしい重々しい声を張りあげた。
「皆の者、聞いたな! わが娘タマモと、このふたりの若き英雄どのによって出雲は救われた! さあ、出雲に戻り、祝いの宴を開こうではないか!」
地面を揺るがすほどの歓喜の声が爆発した。
その日は夜通し、祭りというのもはばかられるほどの乱痴気騒ぎだった。宮殿の食料庫が解放され、とっておきの酒やら、肉やらがふるまわれた。町人たちは思いおもいに飲み、食い、歌った。誰もが即席の大道芸人や歌い手や踊り子となった。生命力のありったけを解放して、いつ果てるとも知れなかった不安から救われた喜びをぶつけあった。
道々のどこにおいてもお手玉やら皿回しやらの素人芸を披露するものがあふれ、好き勝手な歌声が響きあい、楽器を演奏した。音に合わせて踊り出すものが現われた。ひとりが踊り出すとたちまち伝染し、誰もが踊り出した。その足踏む音で地面が崩れ落ちるのではないかと思うほど、誰もが踊っていた。
そのなかにはシュランドたちの姿もあった。村で祭りがあっても『不浄のもの』として参加を許されなかったシュランドにとっては生まれてはじめての祭りである。
いままで祭りの日といえば古い家畜小屋のなかに閉じこめられ、小さな窓からひとりさびしく眺めているしかなかった。何度、自分もあのなかに入りたいと思ったことだろう。想像のなかで祭りに参加して家畜小屋のなかでひとりで踊ったことが何度あるだろう。そして、ひとしきり踊った後でそのむなしさ、さびしさに気がつき、愕然としたことがどれだけあったろう。
でも、いまはちがう。これは想像ではない。自分はいま、たしかに祭りに参加している。参加することを認められている。自分がこの場にいることをまわりの人たちが喜んでくれている。しかも、一緒に踊ってくれる女の子までいるのだ!
シュランドはそれが嬉しくてうれしくてしょうがなかった。その喜びが尽きせぬ力となって小柄な体を動かしつづけた。彼は町の誰よりも激しく、盛大に、食い、歌い、踊った。
その暴れっぷりが気の荒い男たちの一団の気に入った。彼らはシュランドを仲間に引き入れた。シュランドも大喜びで加わった。旗やらのぼりやらをかかげて踊りくるい、殴りあいの喧嘩をし、挙げ句の果てに酒の飲み比べを挑まれた。
酒などろくに飲んだことのないシュランドである。その場の勢いで受けたものの、最初の一皿で真っ赤になってひっくり返り、男たちの笑いを浴びた。だが、そうして笑われるのは気持ちのいい体験だった。
たおやかなカグヤや、常に武人たらんと志しているタマモも、このときばかりは普段の態度をかなぐりすてて皆と一緒にはしゃぎまわった。
三人ともあまりに暴れたのですっかり疲れ果て、いったい、いつどこで眠りにおちたのかわからないほどだった。
少年少女たちを眠りの園に追いやったまま、宴はいつ果てるともなくつづいた。
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