神の物語
藍条森也
はじまりの部
最後の希望(1)
すでに葉の落ちて久しい栗の木の小枝を、小さな手がそっと押しのけた。わずかな音もたてないよう、慎重に、細心に、用心深く。わずかの音が自分自身の生命取りになりかねないことをその小さな手の主は知っていた。
手の作った小さな空間に顔が進んだ。体をねじり、木と木の間のせまい隙間をそっとくぐり抜ける。足の運びは獲物に近づこうとする毒蜘蛛のようになめらかだった。
秋から冬にかけて落ちた大量の木の葉がうずたかく積もった森のなか。木の葉はからからに乾燥し、手にもっただけで乾いた音を立てて砕け散る。風が吹けばかさかさと音を立ててこすれあう。そんな環境にあって足音ひとつたてずに忍びよるその技術は生半なものではなかった。
その人物はまだほんの少年だった。せいぜいが十四,五歳だろう。しかも、小柄だ。身長だけなら十二歳ぐらいにも見える。少年は右手に身長よりも長い槍をもっていた。鋭い先端が黒光りしている。毒が塗ってあるのだ。
毒蛙と毒虫と毒草からとった毒を混ぜ合わせ、煮詰め、強烈な効果を発揮するようにした毒だ。人間ならただ一滴の毒が血管に入っただけで即座に絶命する。
大型動物を狩るための特別な毒だ。その強烈な効果と特別さゆえに、きわめて神聖な毒でもある。村でも呪術師だけに調合を許された毒だ。その製法は呪術師から呪術師へと直接伝えられ、余人に知らされることはない。
では、そんな神聖な毒の槍を手にする少年が狩人なのかというとそうではない。少年の身をおおっているのは明らかに大きさの合わない、ぼろぼろに擦り切れた古い衣服だけ。
もう何年、着続けているのかもわからない。洗濯ひとつ、ろくにしていない。もっとも、こまめに洗濯などしていたらとうの昔に生地が弱まり、穴だらけとなり、着られなくなっていたにちがいない。それほど古い着物だった。
生命をかけて仲間たちに
――子供の頃に仲間からはぐれ、ただひとり、森のなかで生き延びてきた。
そんな境遇が一番ぴったりとくる姿だった。
もちろん、そんなはずはない。そんなことだったら毒の槍などもっているはずがないのだから。
だが、思わずそんなふうに思ってしまうほど、少年の姿がみすぼらしいのは確かだった。
少年はあくまでも静かに森のなかを進んでいく。指定された目標に向かって。額に玉のような汗がいくつも浮いていた。暑さのせいではない。時期は二月。太陽の輝きがもっとも弱まり、世界が寒さに包まれる季節。こうして歩いていても凍えるように寒く、吹き付ける風は氷の粒でも含んでいるかのように冷たい。
汗をかくのは暑さのせいではない。
極度の緊張のせいだった。
少年は用心にようじんをかさね、森のなかを進んだ。落葉が踏み砕かれることで付けられた頼りない足跡を追いかけて。普通なら五分で歩ける距離に一時間かけるような根気強さで。そして、ついに足跡の主をその目にした。
それは熊だった。
身長、実に十尺にも達する巨大な熊だ。
この三月あまりの間に二十人以上の村人を食い殺し、十指に余る手練の狩人たちを返り討ちにした恐るべき人食い熊。
もともとは村を囲む森のなかの主人のような存在だった。村人たちもその存在に敬意を払い、狙わずにきた。だが、去年の秋、ひとりの若い狩人がこの熊に挑んだ。腕自慢だった彼は森の主人をしとめることで自分の狩人としての技量を証明したかったのだ。
狩人は敗れた。返り討ちにあい、その身を引き裂かれて死んだ。
災厄はそこからはじまった。
熊は狩人を食った。人肉の味を覚えたのだ。
そして、もうひとつ。さらに悪いことも知った。
――肉を食えば冬眠せずにすむ。
熊はそのことに気が付いたのだ。
熊は冬眠する。秋の間に大量に食べて脂肪を貯え、その貯えをもって冬の間は寝て過ごす。だが、それはなにか生理的な理由があってのことではない。ただ冬は食物が乏しくなるからその間をしのぐだけだ。食物さえあれば冬眠する必要は最初からないのである。
そして、この熊は冬の間の食料に気がついた。『人肉』という食料に。
本来、熊ほど心やさしい生き物はいない。肉食獣であるのに肉を食うことをやめ、木の実や蜂蜜を食うようになった。人間は冬を越すために他の動物を食うが、熊は他の動物を襲うことなく冬を過ごすために冬眠という方法を選んだ。そのやさしさと圧倒的な強さゆえに『森の王』とされる存在。
それが熊だ。
ところが、この巨熊はその熊本来の生き方を逸脱してしまった。ある意味では『人間になった』のだ。
この熊は獅子すらもはるかに越える巨体と比類なき力をもって村人たちを襲いはじめた。襲っては肉を食らった。それはもはや『森の王』などではなく、人を襲う怪物だった。
そんな怪物が生まれた以上、森に囲まれて生きる人々もおとなしくしているわけにはいかない。立ち向かい、退治しなくてはならない。そうでなければ遠からず村はこの熊一頭のために滅ぼされてしまうだろう。
その
それが少年だった。
名をシュランド。
十五歳。
親はいない。
母は彼が幼い頃に死んだ。
そして、父は……。
それにしても、この怪物を殺す刺客として選ばれるにしてはシュランドのなんとはかなげで弱々しく見えることか。熊の吐息ひとつで吹き飛んでしまいそうだ。
もちろん、シュランドが十五歳の少年として弱いのではない。相手が強すぎるのだ。この人食い熊は少年ひとりに任せられるような、そんな生易しい相手では絶対になかった。
シュランドはそっと熊の背目掛けて近づいた。あくまでも慎重に、蝶の羽ばたきほどの音も立てることなく。
うまくいきそうだった。熊は気付いていないようだ。じっとうずくまったまま身動きひとつしない。もしかしたら寝ているのかも知れない。
――いいぞ。
シュランドは緊張でからからの喉に唾を呑み込みながら思った。
――そのままだ。そのままじっとしていろ。もう少し、もう少しの間だけ……。
シュランドは祈らずにはいられない。もう少し、もうあと数歩。それだけ近付ければ槍が届く。強烈な毒を塗った槍の穂先でその背を貫くことができる。そうすればいかな怪物といえどもひとたまりもない。もう少しだ……だが――。
その背が槍の間合いに入る寸前、熊がはじめて動いた。ほんのわずかな動き。だが、その動きだけでシュランドを押しとどめるのには充分だった。
目が向けられたからだ。熊は頭を動かし、シュランドをにらみつけた。その目には見まちがいようのない、強烈な食欲の光があった。
――気付かれていた。
シュランドは絶望と共にそう悟った。
熊は最初から気付いていたのだ。自分を狙って狩人がやってくることに。気付いた上で待ち受けていた。食うために。痛いほどに空っぽの自分の
充分に注意は払った。自分のできるかぎりの細心さで行動した。しかし、それでもなお、充分ではなかった。何千万年もの間、狩り・狩られる関係のなかで培われた獣の超感覚は
熊がうっそりと立ちあがった。両腕を高々とかかげた。巨大な影がシュランドの小柄な体をすっぽりと包み込んだ。熊の全身を包む剛毛がそそけ立ち、目には凶猛な食欲。『食いたい』という純粋なまでの意志が熱風となって吹き付けてくるようだった。
それはなんと絶望的な光景だったことか。熊の身長はシュランドの三倍以上、体重にいたっては十倍以上もあるかも知れない。その圧倒的な体格差の前にシュランドにどんな勝機があったろう。手にした毒の槍などわざわざ熊の食後のために用意した爪楊枝にしか見えなかった。
熊が腕を振るった。暴風を従え、巨木のような腕がシュランドに襲いかかった。かすめただけでもシュランドの肉はこそぎ落とされ、骨がのぞいていたにちがいない。シュランドはかわした。間一髪、後ろに飛びのいてその一撃をやり過ごした。地響きを立てて熊が迫ってくる。シュランドは横に飛んだ。木に登った。熊はその木に激突した。すさまじい力だった。いともたやすく木はへし折れ、地面に倒れた。だが、それよりも早く、シュランドはとなりの木へ飛び移っていた。
猿のような身軽さだった。両腕で幹を抱えるようにしてするすると降りてくる。熊の後ろに降り立った。熊が振り返った。立ちあがった。腕を振るった。シュランドはまたも後ろに飛びのいてよけた。
シュランドにはなす術がないように見えた。逃げるのが精一杯のように見えた。『挑む』という言葉が
体格でも、力でも、速さでも、勝負にはならない。だが、相手を一撃で殺せる毒の槍を手にしぼうていることはたしかなのだ。一瞬、ほんの一瞬でいい、隙さえあれば。その隙に槍を突き刺すことさえできれば。
それで勝てる。
シュランドは熊の猛攻をかろうじてかわしながら、全神経を集中してその隙を探った。
そして、見付けた。シュランドの少年ばなれした狩りの目は熊の動きに致命的な欠陥があるのを見抜いた。
腕を振るった後の脇腹だ。
あまりにもすさまじい力で腕を振るうために一瞬、体が流れる。その一瞬だけは脇腹が無防備なままにさらされる。そこに槍を突き刺しさえすれば……。
だが、それはたやすいことではなかった。その隙はほんの一瞬。大きく飛びのいて攻撃をかわしていれば間に合わない。突き刺そうと近づいたところを返す刀で振るわれた腕の一撃を見舞われ、即死することとなる。成功させるためには一寸だってよけいな距離をとるわけにはいかない。熊の腕が届かないぎりぎりの距離でかわし、全速で近づく。それしかない。もちろん、見切りに失敗すればシュランドの死、だ。
だが、シュランドが勝つためにはそれしかない。このまま追い駆けっこをつづけていればいずれは疲れ果て、動けなくなる。そうなれば熊の餌食だ。この巨大な熊がシュランドよりさきに疲れるはずは絶対になかった。
シュランドは全身の神経を見切りのためにそそいだ。必要な距離を保った。熊が
不思議なぐらいゆっくりと、熊の腕が目の前を横切るのをシュランドは見た。鈍く光る熊の爪がはっきりと見えた。その後から吹き付けてくる風の色まで見えるようだった。その風だけで目が切れるのではないか。そう思うほどにぎりぎりの距離。その距離をもってシュランドは熊の攻撃をかわしていた。
――勝った。
シュランドの心は思った。彼は自分が賭けに勝ったことを知った。
そこからはもう本能のしたことだった。シュランド自身はなにも意識していなかった。小柄だが筋肉の甲におおわれた体がはじけるように動き、槍と一体になったかのように突進する。脇に構えた槍が熊の脇腹に突きささった。剛毛をかきわけ、皮膚を裂き、筋肉を貫く。血管を破り、穂先が内臓まで届いた感触がはっきりとシュランドの手に伝わった。
一瞬、時間がとまった。
シュランドは槍を突き刺したまま動かなかった。
熊は槍を突きさされたまま動かなかった。
両者の動きは彫像のように停止していた。
その
咆哮が途切れた。熊の巨体がゆっくりと後ろに倒れていった。地響きを立てて倒れた。それきり、ぴくりとも動かなかった。
シュランドはしばし、倒れた熊をぼんやりと見下ろしていた。
――終わった……。
その思いが少年の心に広がった。どっと汗が吹き出し、呼吸が荒くなった。いまになって心臓が早鐘のように鳴っていることに気付いた。
シュランドの体がくず折れた。両手、両膝をついて倒れ込んだ。全身が細かく震えている。緊張から一挙に解き放たれ、しばらくは身動きひとつできなかった。
「やったか」
その声とともにいくつかの足音が近づいてきた。シュランドは手を着いたまま振り返った。そこにいたのはシュランドの父親ほどの年代の十人の狩人たち。シュランドと同じ毒の槍をもち、シュランドよりずっと立派な毛皮の服に身を包んだ真性の狩人の一団だった。
一団の先頭に立つ男がシュランド目掛けて手にした槍を振るった。
『退け』
そう言っているのだ。言葉に出して言おうとさえしない。動作だけでそう示していた。たったひとりで、それもわずか十五歳の少年にすぎない身で何十人もの村人を食い殺した怪物をしとめた英雄に対するにはあまりにも冷淡な態度だった。
シュランドはよろよろと立ちあがった。すべての力を使い果し、このまま泥のように眠りたい……そう訴えている筋肉を鞭打ち、歩き出し、近くの木の根元に両膝を抱える格好で座り込んだ。
その間に狩人たちは熊の解体に取り掛かっていた。手にした短刀で皮を裂き、肉を切り取り、袋に詰め込む。
「ざまあみろ」
「お前に食われた村人たちの仇だ」
「いいざまだぜ、怪物が」
そんなことを口々に言いながら、手を血に染めて解体をつづける。狩人たちの誰ひとりとしてシュランドを見ない。完全に無視している。そこにいることを知らないかのように。この怪物を倒してくれたことへの礼ひとつ、述べようとするものはいなかった。
男たちが熊の解体を終えた。新鮮な肉をパンパンに詰め込んだずしりと重い袋を担ぎ、村に向かって歩き出す。今夜はきっとこの肉を使って盛大な宴が開かれるのだろう。シュランドがその座に参加を許されることは決してないけれど。
狩人のひとりがふとシュランドを見た。シュランドもついつい見返した。ふたりの視線があった。狩人の顔に哀れみが浮いた。狩人は肉をつめた袋に手を差し入れるとわずかばりの肉と脂のついた小さな熊の毛皮を放り投げた。
それから狩人はしてはいけないことをしてしまったような態度で顔をしかめ、そそくさと去っていった。
シュランドは放り投げられた小さな熊の毛皮を見て薄く笑った。
狩人がシュランドに対して感謝の意を示したわけではない。人間扱いしたわけでもない。みすぼらしい野良犬を見かけ、気紛れを起こした……それだけのことだ。
――それでもまあ、同情にはちがいないか。
シュランドは熊の毛皮を手に取ると懐にしまい込んだ。とにもかくにもこれだけが、シュランドが生命をかけて巨大な人食い熊を倒したことに対する報酬なのだ。
シュランドは立ちあがった。
時刻はすでに夜になりつつあった。
空には天球が浮かび、はるか先の地平線は緩やかな曲線を描いて上昇している。
天球はまぶしく輝く太陽の半面と、あわくやさしい光を放つ月の半面とを合わせもち、天球を囲む球形の大地を照らし出す。天球が回転し、太陽の面と月の面とを交互に見せることで大地に昼と夜が訪れる。
それがシュランドの住む世界、『トワジ』と呼ばれる世界だった。
シュランドは狩人たちの後を追って、村への道を帰っていった。
狩人たちが村に帰り着くと、人々はとたんにざわめいた。人食い熊が死んだことを告げると一斉に沸き立ち、狩人たちにしがみついて喜んだ。歓声は狩人たちが袋を降ろし、なかにつまったたっぷりの肉を見せたところで最高潮に達した。抱き合い、涙を流し、宴の準備がはじまった。早くも踊りだしているものもいる始末だ。
シュランドは喜ぶ村人たちに目もくれず、自分の小屋に向かった。村外れにある、大きくはあっても古ぼけた小屋に。
シュランドは傾いていまにも外れそうな小屋の扉を開け、なかに入った。小屋のなかにはもちろん家具の類などない。寝具ひとつない。片隅に古い藁が積まれているだけだ。
シュランドはその上に倒れ込んだ。そのまま泥のように眠り込んだ。
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