最後の希望(2)

 ……シュランドは夢を見ていた。

 幼いころの夢。

 まだなにもなくさず、失わず、幸せだった子供のころ、たかまがはらで過ごしていたころの夢を。

 高天原は狙われていた。

 巨大な怪物、《すさまじきもの》に。

 全身の半分ほどもある巨大な頭。風洞のように虚ろなふたつの目。胴体は先細りに細くなり、先端は尻尾のようになり、前に向かって丸まっている。足はない。そのかわり、巨大な拳を地面につき、その拳で立ち、歩いている。

 山ひとつ分もある異形いぎょう胎児たいじ

 それが《すさまじきもの》。

 それがなにものなのか、どこからきて、どこへいくのか、誰も知らない。ただ、ずっとずっと昔から存在していた。最長老の祖父のそのまた祖父のさらにその前の時代から。

 突然、現われてはドクドクと脈打つ心臓をむき出しにした胸から稲妻を放ち、世界を壊し、人々を殺し尽くす。その稲妻は一撃で山を砕き、大地をえぐる。けれど――。

 少年は一度だって《すさまじきもの》を恐いとは思わなかった。なぜなら高天原には守護者がいたから。

 《すさまじきもの》を打ち倒す巨大な《鬼》。

 高天原の選ばれし民、陰陽師おんみょうじによって操られる世界の守り手。その力は《すさまじきもの》さえも圧倒し、一撃でこの怪物を仕留めることもできる。

 ――《すさまじきもの》が出現した。

 その報を聞けば陰陽師たちは即座に《鬼》を駆って出陣し、退治するのだ。

 その司がヤシャビト。陰陽師を束ね、《すさまじきもの》の侵攻から人々を守る高天原の英雄。

 少年はどれほどその姿を誇らしく見上げたことだろう。少年の目に映るヤシャビトの姿はどれほど自信に満ち、光り輝いていたことだろう。少年ならば誰でも英雄に憧れる。だが、彼の思いはその誰よりも強かった。なぜなら、ヤシャビトは彼の父だったから。

 ――自分も大きくなったら父さんみたいな立派な陰陽師になる。そして、《すさまじきもの》をやっつけるんだ。

 物心ついた頃からそう思っていた。棒を振り回し、《すさまじきもの》を駆る《鬼》になったつもりで暴れまわっていた。そんな少年の姿を彼の母とヤシャビトとは仲睦まじくよりそい、微笑ましく見守っていた。

 そう。この偉大な父がいるかぎり、少年はなにも心配する必要はなかった。ただ子供らしく、町中を走りまわり、他の子供たちと遊んでいればそれでよかった。だが――。

 高天原は燃えていた。

 大地は紅蓮ぐれんの炎に焼かれ、世界は真っ赤に染まっている。建物という建物が破壊され、砕かれ、炎に焼かれてくずれ落ちる。人々はその炎に呑まれ、生きたまま焼け死んでいく。

 炎の向こうに浮かびあがる《すさまじきもの》の大群。その胸から放たれる稲妻が高天原を破壊しつづける。人々を殺しつづける。

 雷光がきらめくたび世界が壊れ、生命が失われていく。悲鳴が連鎖し、世界中が狂った音に包まれる。あまりに悲鳴ばかり多すぎてもう、悲鳴があがっていることにさえ気付かなくなるほどに。

 なぜ、これほどの数の《すさまじきもの》が高天原に接近できたのか。なぜ、ほしいままに破壊と殺戮さつりくを繰り返していられるのか。《すさまじきもの》を倒すべき《鬼》はどうしたのか。

 《鬼》はいた。

 ただし、《すさまじきもの》たちの真ん中に。

 包囲されているのではない。

 率いているのだ。

 その《鬼》が《すさまじきもの》の大群を率いて襲来し、他のすべての《鬼》を打ち倒した。

 「ヤシャビトが裏切ったぞ!」

 悲鳴に交じってそんな叫びが聞こえた。

 「ヤシャビトがおれたちを裏切った! 《すさまじきもの》についておれたちを滅ぼそうとしているんだ!」

 そう。

 《すさまじきもの》を率いて紅蓮の炎のなかに立つ《鬼》。それはまぎれもなく、陰陽おんみょうつかさたるヤシャビトの《鬼》だった。

 《鬼》以外に《すさまじきもの》に対抗できる力はない。その《鬼》のなかで最強の存在が《すさまじきもの》につき、他の《鬼》をことごとく倒したいま、《すさまじきもの》を止める手立てはない。ただただ追いまわされ、殺されるだけだ。

 男たちのなかでとくに勇敢だったもの、無謀だったもの、あるいは臆病すぎて恐慌をきたしたものは手にてに剣をとって《すさまじきもの》に立ち向かった。

 奇声をあげ、斬り付けた。人間の振るう剣が山ひとつ分もある怪物に通用するはずがない。傷ひとつつけることすらできず、踏み潰された。その姿を見たとき――。

 恐慌が支配した。

 人々の理性の糸は切れ、本能が支配した。奇声をあげ、我先にと逃げ出した。そこにいたのはもう人間の集団ではなかった。恐怖にかられ、その場から逃れようとする無力な小動物の群れだった。

 おとなたちの濁流だくりゅうに吹き飛ばされた子供が倒れ、泣き叫んでも助けようとする余裕もない。そのままふみにじり、逃げていく。倒れた子供は無数のおとなたちの足に踏まれ、やがてぐちゃぐちゃの肉塊と化していく。そんなことがあちこちで起きていた。どんな天才画家の筆をもってしても描きだすことは不可能な、それは地獄絵図だった。

 少年の母もそのなかで死んだ。彼の手を引き、必死に逃げようとしていたさなか、崩れ落ちた家の下敷きになりかけたよその子供を救おうと飛び込んだのだ。それは母としての本能だったろうか、それとも、夫が人類を裏切り、滅ぼそうとしていることへのせめてもの償いだったろうか。

 ともかく、彼女は身を呈して子供をかばった。なんの意味もなかった。崩れ落ちる建物の圧倒的な重量。華奢な女性ひとりの身で支えられるはずもない。肉のつぶれる音がして骨が砕けた。血がしぶいた。母の半身は完全につぶされていた。助けようとした子供もまた、その下で押しつぶされ、ペチャンコになっていた。

 その母の前で少年は泣いていた。母が死にかけていることが悲しくて泣いているのか、町が滅びる恐怖に泣いているのか、それとも親切でやさしい人間たちであったはずの人々がけだものと化したことが恐ろしくて泣いているのか、彼にもわからない。ただ、泣いていた。泣きつづけていた。

 そんな少年に、死にかけている母は瓦礫の下から声をかけた。

 「……逃げて、シュランド」

 弱々しい、しかし、最後の力を振り絞って発っせられた声。その声は小さかったが、そこに込められた母の思いのゆえだったろうか。まだわずか五歳の少年は泣くことをやめた。涙をいっぱいにためた目で母を見た。母は幼い息子の目をしっかりと見返し、彼に告げた。

 「……逃げるのよ、シュランド。あなたは死んではだめ。逃げて、生き延びるの。あなたは陰陽師の血統……生き延びて、人々を守る義務があるのよ。みんなはきっと、生き延びたあなたにつらくあたるわ。でも、みんなを恨まないで。彼らの気持ちをわかってあげて。そして、いつか……」

 母の言葉はそこでとまった。目の輝きは失われ、その体はぴくりとも動くことはなかった。母は死んだ。

 ――お母さんは死んじゃったんだ。

 幼いシュランドはその現実を知った。

 彼はしばらくの間、そこに立ち尽くしていた。だが、やがて、拳で涙をぬぐうと顔をあげた。町を焼く炎の向こう。そこに火の粉におおわれて群れなす異形の胎児が立っている。そして、その中央には父ヤシャビトの駆る《鬼》。

 シュランドはその《鬼》をにらみつけた。

 ――すべては父の裏切りのせいなのだ。

 幼いシュランドはその事実を胸のうちにしっかりと刻み込んだ。

 ――自分は帰ってくる。きっと、帰ってくる。そして、きっと、きっと……。

 少年はもう泣かなかった。目を見開き、真っすぐに唇を引き結ぶと死体となった母に背を向けた。そして、二度と振り返ることなく、力強い足取りで歩き出した……。

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