《カグヤ》(8)
その言葉はどこまでも淡々としており、なんの感情も込められていなかった。怒りや憎しみ、恨みさえ、ひとかけらも含まれていないようだった。
実際、いまの時点で『父を恨んでいるか?』と、問われれば首をひねるしかない。なんだか、恨みとか、憎しみとかいった感情がすっぽりと抜け落ちてしまっているような気がする。
もちろん、父を『赦す』とか『理解する』とか、そんな思いがあったわけではまったくない。ただ、誰かを恨みつづけ、憎みつづけるには十五年という月日は長すぎたのかも知れない。月日の過ぎるうちにそれらの思いは風化し、失われただけなのかも知れない。それでも――。
それでも、かつてはたしかに恨んでいたし、憎んでもいた。会えば殺す。それだけを思っていた。そう、自分に言い聞かせていたのだ。その思いは抜きがたい習性となって細胞の一つひとつにまで染み付いている。シュランドの心がどうあれ、肉体のほうがヤシャビトを殺さずにはいられない状態になっていた。そして――。
その体が爆発した。
暴風の勢いで鍛えぬかれた体が突進し、右腕が跳ねあがる。拳が突き出され、ヤシャビトの顔面をぶん殴った。
技とか、タイミングとか、そんなものはいっさいない力任せの一撃。ブチ切れた子供が泣きながら友だち相手に殴りかかる。そんな殴り方だった。
ヤシャビトはその一撃を真っ向から受けとめた。息子の拳が顔面にめり込み、頭こそ大きく揺れたものの、その足はまるで根が生えているかのようにどっしりとして動かず、一歩もよろめくことはなかった。
今度はヤシャビトの番だった。右拳が唸りをあげてシュランドの顔面にたたき込まれる。
シュランドもまたその拳を真っ向から受けた。さけようなどとは考えもしなかった。父親の拳が顔のど真ん中にたたき込まれ、鼻血が吹き出した。
気にせず殴り返した。
ヤシャビトも殴り返す。
延々とつづく足をとめての殴りあい。防御もない。技もない。武器も使わない。ただひたすらに素手で殴りあう。戦いなどと言える代物ではなかった。単なる喧嘩。親子喧嘩だった。
殴り、
殴られ、
殴り、
殴られ、
その繰り返し。
その間にシュランドは自分の心を幾重にもおおっている皮が一枚、また一枚とはがれていくのを感じていた。
かつて、シュランドは《姫》に言った。
――村の人たちを憎んでなんかいない。みんなの気持ちはわかる、と。
嘘だ。
でたらめだ。
憎んでいた。心の底から憎んでいた。『裏切り者の息子』という理由で自分をあんな目にあわせた村人たちをシュランドは心の底から憎んでいたのだ。
村人たちだけではない。すべてのものを憎んでいた。人を殺してまわる《すさまじきもの》も、人類を裏切った父親も、自分をおいてさっさと死んでしまったタマモやウズメ、そして――。
自分をすててヤシャビトに従ったカグヤまでも。
そう。
自分はこの世のすべてを憎んでいたのだ。
こんな世界、滅びてしまえ。自分をこんなにも苦しめる世界なんてなくなってしまえばいい。そう思うほどに。
その本心から目をそらすためにその憎しみのすべてをヤシャビトだけに向けていたのだ。自分をごまかすために。
――どうして?
シュランドの心にその思いが満ちた。
どうして、自分があんな目にあわなくてはならなかったのか。父親のしたことなど自分には関係ないことのはずなのに。
どうして、村の人間たちは抵抗ひとつできない幼い子供をあんなにもむごく扱うことができたのか。
どうして、《すさまじきもの》たちは人を殺すのか。
どうして、ヤシャビトは人類を裏切ったのか。
どうして、タマモやウズメは自分をおいて死んでしまったのか。
どうして、カグヤは自分をすててヤシャビトに付き従ったのか。
どうして?
どうして!
どうして⁉
心の底からそう問いたかった。答を聞きたかった。
――どうして?
いつかシュランドは滝のように涙を流していた。泣きじゃくりながら殴りあいをつづけた。駄々をこねて親に殴りかかる子供だった。
――どうして?
どうして自分はこんなにも殴りあっているのだろう。世界なんて滅びてしまえ。こんな世界なんてなくなってしまえばいい。そう思っているのに。
他の人間たちのことなど放っておいて《すさまじきもの》の蹂躙するのに任せておけばいいのに。それこそ自分の本当の望みのはずなのに。
――どうして?
その問いに答えたのは誰かの言葉ではなかった。自分の頭のなかに浮かんだ一枚の絵だった。その絵のなかでシュランドはまだほんの子供だった。やさしい母と頼もしい父に囲まれ、ただただ幸福に過ごしていた。その絵にもう一枚の絵が重なった。やさしい微笑みを浮かべるたおやかな少女の絵。
カグヤ。
――ああ、そうか。
シュランドは思った。
――そうだよな。そういうことなんだよな。やっとわかった。
もう迷いはなかった。渾身の力を込めたシュランドの一撃がヤシャビトの顔面をとらえた。ヤシャビトは吹き飛び、昏倒した。息子が父に勝利した瞬間だった。
……それからどれだけの時がたったろうか。
シュランドはひとり、その場に立ち尽くしていた。ヤシャビトの姿はない。そのかわり、白骨となった死体が足元に転がっている。
――ああ、そうか。
ぼんやりとその死体を見下ろしながら、シュランドはなにか妙に納得した気分だった。
『どうせ、おれを殺そうとしてももう手遅れだ』
ヤシャビトはそう言っていた。それはこういうことだったのだ。なにもかも納得のいった気分だった。
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