《すべての鬼の母》(2)

 突然、背中にすさまじい殺気を感じた。雷に打たれたようにまわりを見た。あたり一面に人間が立っていた。十人や二十人ではない。百人、いや、それ以上か。ほとんどは男だが幾人かは女や老人もいる。すぐそばにこんなにも人がいたとは。

 シュランドは唇を噛みしめた。戦いの最中だったとはいえ、こんなにも大勢の人間がそばにいることに気がつかなかったとは。もし、後ろから矢でも射掛けられていれば確実に殺されていた。自分は盗賊たちのお情けで生き延びたのだ。そう思うと屈辱に目がくらむ思いのするシュランドだった。

 盗賊の群れから一際屈強な体躯をした男が姿を現わした。ゆっくりとシュランドに近付いてくる。殺意もない。敵意もない。警戒すらしていない。まるで水場に向かう虎のように堂々とやってくる。

 腕一本分の距離にまで近付いた。そこで立ち止まった。ただそれだけでシュランドはむっとするような熱風を感じ、思わず仰け反っていた。

 なんと大きな男だったことか。身長は七尺にも達し、体重はおそらく四十貫を超えているだろう。首も、腕も、胸板も、脚も、そのどれもが巨木のように太く、巌のように頑健だった。しかし、単に肉体だけで大きく見えるのではない。

 男を大きく見せているもの。

 それは気配だった。

 獲物を仕留め、殺し、食う。それをこそ生業とする野性の気配。それこそが男を実際以上に大きく見せていた。この男こそはまさに人の姿をした肉食獣だった。

 ――勝てない。

 シュランドは本能でそう感じ取った。

 顔をうつむかせ、上目遣いに男を見上げる。冷や汗が流れた。ぎりっと音をたてて歯軋りをした。この男には決して勝てない。戦えば殺される。

 本能がそう教えていた。

 シュランドはかつて、この男よりもなお巨大な熊を殺した。それを思えば勝てない相手ではないようにも思える。しかし、熊は武術を知らない。人を倒し、殺すための技などなにひとつ身につけていないのだ。

 この男はちがう。屈強な体格に加え、人を倒し、殺すことだけを目的に洗練されてきた技を身につけている。それも、達人と呼んでいい水準で。

 そういう相手なのだ。

 勝てるはずがなかった。

 もし、シュランドが獣であったならその場に寝転がり、腹を見せ、許しを乞うていただろう。だが、シュランドは人間だった。だから、そんなことはしなかった。いや、できなかった。必死に勇気を奮い起こし、その場に立ち、男を見上げていた。その膝は細かくかたかたと震えていたけれど。

 男の両手が持ちあがった。シュランドはハッとした。身構えた。次の瞬間、襲いかかってくるであろう男の拳に備えた。だが――。

 パチ、

 パチ、

 パチ、

 と、男の両手から乾いた音がした。

 男は拍手していたのだ。

 シュランドは呆気にとられた。その場に立ち尽くしてしまった。もし、このとき、弓を射掛けられていればシュランドはまちがいなく殺されていた。そして実際、まわりを取り囲む男たちのなかには弓をもつものも何人もいたのだ。

 それでもなお緊張を忘れてしまうぐらい、男の態度はのんきなものだった。

 「いや、見事なもんだったぜ」

 男が言った。

 「いくら下っぱとはいえ、うちのもんをふたり、まとめてやっちまうなんざあ大の男もびっくりだ。大したもんだぜ、小僧」

 その言い方が皮肉でもなんでもなく心から称賛しているとしか思えないものだったので、シュランドはかえってとまどった。なにしろ、このままじっとしていれば笑いながら頭をなでてきそうな雰囲気なのだ。

 シュランドはハッと我に返った。そんな場合ではないことを思い出した。気を引き締めなおした。膝を曲げ、心持ち前に倒した姿勢で構えながら男に言った。

 「……おれはお前の仲間を殺したんだぞ。そのことを怒ってないのか?」

 「はん?」

 シュランドの言葉がよほど意外だったのだろう。男は鼻を鳴らした。

 ――なにを言ってやがんだ、こいつは?

 そう言いたげな目でシュランドを見下ろしていた。

 「はっはっはっ!」

 突然――。

 大声で笑いはじめた。

 「なにがおかしい⁉」

 「いやいや、まいったな、こりゃ。襲いかかった相手に心配されちまったよ」

 男は心底、愉快そうに笑いつづける。

 どんな激しい敵愾心てきがいしんも溶かしてしまいそうなほど人懐っこい目がシュランドを見下ろしていた。

 「はっはっ。狙った獲物に返り討ちにされたからといっていちいち気にしていたらこの稼業はつとまらねえよ。やられたほうが悪りいのさ。まして、おめえみてえな小僧っ子相手とあっちゃあな」

 男は屈託なくそう言い切った。

 どうやら、この男にとってシュランドを襲わせたのはほんの遊びだったらしい。

 ――おっ、妙な小鼠こねずみがいるじゃねえか。おい、おめえら、ちいっとばかし遊んでやれ。

 そんなノリだったのだろう。その遊びのために人を襲い、ふたりも仲間を死なせ、そのことをてんから気にしようともしない……。

 シュランドは男のそんな在り方に心から反発を覚えた。

 「お前たちは盗賊だな?」

 「だったら?」

 「出ていけ」

 「はん?」

 「ここはおれの町だ。おれの生まれ育った故郷なんだ。盗賊なんかがいていい場所じゃない。すぐに出ていけ。出ていかないというなら……」

 「どうしようってんだ?」

 ニヤニヤと、男は面白そうに笑いながら尋ねた。いや、『面白そうに』ではない。完全に面白がっている。自分を前に必死に意気がっている子供を見て心の底から楽しんでいるのだ。

 シュランドはきっぱりと言った。

 「腕ずくで叩き出す」

 男は大声で笑った。おかしくておかしくてたまらない。そんな笑いだった。

 シュランドは真っ赤になって怒鳴った。

 「なにがおかしい⁉」

 「いや、悪りい、悪りい。けどよ。お前、正気か? おめえみてえな小僧っ子が腕ずくだなんて。少しは身の程を知ったほうが長生きできるってもんだぜ」

 「黙れ! 子供扱いするな、おれは世界を救う戦士なんだ」

 「へえ。世界を救う、ねえ」

 男はあくまでもにやにやと笑みを絶やさない。その態度にシュランドの血液が沸騰ふっとうする。顔が真っ赤になり、いまにも火を吹きそうだった。

 「だったら、やってみせてもらおうかね。見事、腕ずくで退治してみせな」

 「言われなくても」

 シュランドは身を屈めた。いつでも飛び掛かれるように膝をまげ、両手を肩の高さにかかげた。

 「いいぜ。いつでもきな」

 シュランドとは対照的に男は構えひとつとろうとはしなかった。両腕はだらんと下げたまま。まるで、我が子をあやす父親のような態度だった。

 それを見てシュランドも構えをといた。相手が構えないのに自分だけが構えるなどシュランドの矜持きょうじの許さざるところだった。

 「へえ」

 と、男は小さく呟いた。シュランドの意地に感心したのか、それとも無謀さをわらったのか。どちらともとれる言い方だった。

 シュランドが走った。男めがけて突撃した。まともにぶつかっても勝ち目はない。

 狙うのは目だ。

 目だけはどんな屈強な戦士も鍛えることはできない。目に指を突き込み、そのまま脳味噌までえぐる。それで人は死ぬ。それさえできればどれほど体格差があろうと、武術の腕の差があろうと勝てるはずだった。

 もちろん、まともに目を狙ったところで当たるはずがない。軽くよけられ反撃されるのがオチだ。だから、まず、誘いをかける。足元を狙うと見せ掛ける。男がその攻撃に対処するため身を屈め、下を向いたその瞬間、渾身の突きを目に突き込むのだ。

 ――そうさ、それで勝てる。あの図体だ。いくら力があったって速さならおれのほうが上のはずだ。

 それに、男は油断している。自分のことをなめ切っている。だったら――。

 その計算あってのことだった。だが――。

 シュランドが男に突撃した次の瞬間、シュランドの顔面になにかが現われた。すさまじい風をまとって接近してくる巨大ななにか。そのことに気がついた次の瞬間、シュランドの顔面を激しい衝撃が襲っていた。

 それが男の拳であり、殴り飛ばされたのだとわかったのは、激しく吹き飛ばされ、地面に叩きつけられたあとだった。

 シュランドの立てた戦術はすべて無意味だった。男はシュランドの攻撃をさけようとすらせず、真っ向から迎え撃ち、力任せの一撃でいともたやすく迎撃してしまったのだ。それはこの男が体重や筋力のみではなく、疾さはやにおいてもシュランドを圧倒していることを示していた。

 すさまじい一撃だった。

 たった一発でシュランドの頬骨きょうこつは陥没し、顔面が変形していた。鼻はひしゃげ、血が吹き出し、何本もの歯が折れて口のなかから吹き出していた。歯茎からは滝のような血が流れ落ちている。

 それほどの一撃を食らってなお、シュランドは立ちあがった。立ちあがりはしたものの膝はがくがくと揺れ、世界は歪んでいた。目に見えるすべてがぐにゃぐにゃとたゆたい、水に落ちた墨のように広がり、変形していく。

 完全に脳震盪のうしんとうを起こしていた。世界がぐるぐると回転し、立っていることがやっとの状態だった。歩くことさえまともにはできない。それでも――。

 それでも、シュランドは立っていた。

 「ほほう」

 男が感心したように声をあげた。

 「いまの一撃を食らってまだやる気か。けっこう、けっこう。若いもんはそうでなきゃいけねえ」

 感心したように、ではない。

 感心しているのだ。

 自分に対し、必死に向かってくる子供をめたたえるおとなの態度。シュランドには自分を傷つけることは決してできない。それがわかっているからこその余裕の態度だった。

 シュランドは再び、男に向かって行った。最初の一撃さえ通用しなかったのにふらふらの状態での攻撃が通用するはずもない。シュランドは再び、男の巨大な拳に殴り飛ばされていた。

 同じ光景がつづいた。

 シュランドか男に向かい、殴られ、吹き飛ばされる。文字通り、おとなと子供の喧嘩だった。

 一刻と立たないうちにシュランドは見るも無残な姿になっていた。顔面が変形し、鼻と口からは血が吹き出し、まともな歯は一本も残っていない。全身は痣だらけで体そのものが紫色にはれあがったかのよう。骨も何本かは折れているにちがいない。それでもなお――。

 男が充分に手加減していることをシュランドは感じとっていた。もし、男が本気で殴っていれば最初の一撃でシュランドの頭蓋骨ずがいこつは粉砕され、絶命していたはずなのだ。いまだにシュランドが生きているのはまさに男のお情け。それ以外のなにものでもなかった。

 ――くそっ、くそっ、くそっ!

 そのことがわかっていてなお、シュランドは闘志を捨ててはいなかった。

 ――あきらめるもんか!

 心のなかで激しく叫ぶ。

 あきらめるわけにはいかない。自分にはこれから先、もっとずっと巨大な戦いがまっているのだ。裏切り者を殺し、《すさまじきもの》を打ち倒し、人々に昔の暮らしを取り戻させるための戦いが。

 それなのにたかが人間相手に勝てなくてどうする。だから、あきらめない。絶対に。あきらめなければいつかは勝てる。絶対に……きっと……。

 その思いを胸にシュランドは立ちあがる。

 男はそんなシュランドを見て苛立ったような表情を見せた。

 「ふん。『あきらめなければいつかは勝てる』ってか?」

 さげすむように言う。

 「あいにく、おれは生命を盾に勝利を盗もうってやつは好きじゃなくてな。負けを認めねえやつにはとどめを差す主義だ」

 男が右拳を振りあげた。その一撃を食らえば今度こそシュランドは死ぬ。いきなり殴りかかるのではなく、わざわざ振りかぶり、威嚇いかくして見せたのは男なりの優しさと忍耐だった。

 シュランドに対して生き延びる機会をやったのだ。自らの敗北を認め、詫びをいれ、生命をひろうための時間を。

 しかし、シュランドはその最後の機会を生かそうとはしなかった。決して屈しず、なおも男と戦おうとしていた。

 その意志を認めたとき、男の忍耐も終わった。巨大な拳が大気を裂いてシュランドに襲いかかる。そのとき――。

 「おやめください、ハヤトさま」

 静かな声がした。

 その声に従うようにハヤトと呼ばれた男の拳がシュランドの顔面すれすれで止まっていた。その静かな声を聞き分けることができたのも、殺す気で放った一撃をぶち当たる寸前で止めることができたのも、この男ならではだった。半端な戦士であれはそうはいかない。勢いのままに殴り付け、殺していたところだ。

 ハヤトは振り向いた。そこにはひとりの少女が立っていた。盗賊たちの群れのなかにいるにはあまりにも似付かわしくない少女。歳の頃は十七、八というところか。シュランドよりわずかに年上に見える。艶のある漆黒の長い髪に驚くほど白い肌。ほっそりとしたしなやかな体躯と人形のように整った顔立ち。服ともいえないような粗末な服をきていてさえ、全身が光に包まれて見える。それほどに清潔感と気品に満ちた美しい少女だった。けれど――。

 細くしなやかな首には首輪がかけられ、そこからは一本の鎖がたれていた。そのことが彼女の立場をはっきりと物語っていた。

 「邪魔する気か、カグヤ?」

 ハヤトが少女に言った。

 カグヤ、というのが少女の名前らしい。カグヤは静かに答えた。

 「それ以上、殴ったら本当に死んでしまいます」

 「そりゃそうだ。殺すつもりなんだからな」

 ハヤトはおどけたように答える。

 カグヤはその言葉を無視するようにふたりに近付く。

 「いくらわたしでも死者を蘇らせることはできません」

 「しかしなあ……」

 と、ハヤトは困ったように頭をかく。それまでの獰猛どうもうな雰囲気もどこへやら、一転してやけにのんきな雰囲気になっていた。まるで、かわいい娘のわがままを聞き入れようかどうか迷っている父親のように。

 「こいつが負けを認めねえんじゃしょうがねえとは思わねえか? おれにもかしらとしての立場ってもんがある。素人の小僧っ子に勝ちを譲るってわけにはいかねえからなあ」

 心底、困ったように言う。

 もともと、殺す気などなかったのだ。この男にしてみればただ単に生意気な子供をからかっていただけなのだから。シュランドが一言、詫びを入れれば笑ってすませるつもりだったのだ。

 それなのにシュランドが頑固にも向かってくるものだから立場上、殺さないわけにはいかなくなった。ハヤト本人も実はけっこう、迷惑していたのである。カグヤの制止を受け入れたのはそれが渡りに船だったからだ。そうでなければ奴隷の小娘の言うことなど聞くはずもない。

 カグヤはハヤトを無視するようにシュランドに近付いた。シュランドは自分に近付いてくる少女の姿をじっと見つめた。天女のように美しいその姿を。真っ赤にはれあがったまぶたがほとんどふさいでしまっている目ではろくに見ることもできなかったけれど。

 そっと、カグヤの両手がシュランドの両頬を包んだ。ただそれだけで不思議なぐらい心が落ち着いた。まるで、母の乳房を吸う赤ん坊のように安らいだ気分。カグヤの両手から暖かいなにかが流れ込んできて少年の凝り固まった敵愾心を溶かしていくようだった。

 「眠りなさい。いまは」

 カグヤがそう告げた。その言葉に誘われるように――。

 シュランドは少女の胸のなかにくずおれていた。

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