第一部

《すべての鬼の母》(1)

 高天原たかまがはら

 それは国の名前であると同時に、国のある山の名前でもある。見上げるばかりに高いその山は頂上が広大な平原となっており、中央には巨大な湖があった。その湖から流れ出る幾本もの川が平原を潤し、草木の生い茂る豊かな景観を形作っていた。他に類を見ないその不自然な姿から、『自然の山ではなく人工的に作られたものではないか』との声も前々からささやかれていた。もっとも、人工的に作られたものだとしたら一体、誰がどうやって、こんな巨大な山を作りあげることができたのか。その手段も方法も答えられるものはひとりもいなかったが。

 その山頂の平原の上、豊かな水と緑に囲まれて築かれたトワジでもっとも大きな国。それが高天原だった。《すさまじきもの》の脅威から人々を守る陰陽師の砦……だった。十年前のあの日までは。

 いまではすっかり廃墟と化した高天原にシュランドはひとり、戻ってきていた。山道を登り、平原の縁に立ち、かつては栄華を誇った国の残骸を見つめている。

 「……十年ぶりの生まれ故郷、か」

 シュランドは呟いた。その呟きにはなつかしさよりも苦々しさがこもっていた。唇を噛みしめ、舌打ちした。わかっていたことだ。高天原がもうただの廃墟にすぎないことは。しかし、それでも、こうしてその有様をじかに見るとやはり、悲しさと切なさとがこみあげてくる。

 ちがいすぎた。彼のわずかな思い出のなかにある高天原といまのその姿とは。シュランドの記憶のなかでは高天原はまさに『光の国』だった。すべての建物がきらきらと輝き、人々の表情は常に明るい笑顔で満たされていた。町の周囲はどこを見ても豊かな森であり、ときおり、狐や鹿や兎といった動物たちが町のそばまで遊びにきたものだ。

 それがいまやどうだろう。湖こそはかわることなくあるものの、徹底的に焼き尽くされた大地にはもはや植物を育む力はないのだろう。どこを見渡してもわずかな草の一本もなく、赤茶けた陶器のような土がむき出しのままさらされているだけ。すべての建物は無残に崩れ落ち、残骸と化して風に吹かれている。ときおり風に吹かれた廃墟の欠片が地面に落ち、乾いた音をたてる。それが唯一の動きであり、音であった。

 かつて豊かな生命におおわれていたその土地はいまや、生命の存在を否定する骸の地と化していた。

 シュランドは強くかぶりを振った。胸の奥の苦い思いをはき捨てるように唾をはき捨てた。これはすべて自分の父親のしでかしたことなのだ。父ヤシャビトが人類を裏切ったために起きたことなのだ。そして、自分がいまこうしている間にも、唯一の敵のいなくなった《すさまじきもの》たちはどこかの町を破壊し、人々を殺している……。

 それを思うとシュランドは頭を抱え、泣きじゃくりたくなる。だが、そんなことをしている暇はない。むだな感傷にひたるためにわざわざ帰ってきたわけではない。父ヤシャビトを探し、高天原を再興させる。その目的のためにやってきたのだ。ヤシャビトを探す手がかりがあるとすればそれは世界でもただひとつ、ここ高天原にしかないはずだから。

 シュランドは一刻も早くその手がかりを見付けだし、父を探す旅に出なくてはならない。新しい誰かが《すさまじきもの》に殺されてしまう前に。泣いて時間をむだにするなどシュランドには許されない贅沢だった。

 シュランドは町に向かった。瓦礫の山をかきわけて、昔は大通りであったらしい道の跡を進んだ。生まれ故郷とはいえこの町をはなれたのはわずか五歳のとき。町の細部まで覚えているはずもない。とはいえ、見当がつかないわけではない。見付けるべきは陰陽寮。陰陽師たちが集い、出撃に備えた建物だ。当然、そこには陰陽師の操る《鬼》たちもいたはずだ。

 《すさまじきもの》に対抗するための巨大な《鬼》。その身長はじゅっひろにも達する。そんな《鬼》たちを何体も住まわせていたのだ。普通の建物であるわけがない。高天原でももっとも広大な敷地をもつ建物であったろう。瓦礫の山とはいえ建物の基礎まで破壊されているわけではない。基礎の部分を見れば建物の大きさはわかる。町でもっとも大きく、もっとも頑丈な基礎を見付ければいい。そこが陰陽寮の廃墟だ。そして、巨大な《鬼》たちを出撃させる必要上、陰陽寮は大通りとつながっていたにちがいない。つまり、もっとも大きい通りの跡を進めばいずれは陰陽寮にたどり着く……はずだ。

 シュランドはそう判断し、瓦礫をかきわけながら道幅を確認し、より広いほう、広いほうへと進んでいった。シュランドが一歩、歩くごとに足元で塵が舞いあがる。ただの塵ではない。十年前に殺された人々の肉が、骨が、焼き払われ、塵と化したものなのだ。シュランドはいま、人々の死体を踏みしめて歩いているのだ。

 それを思えば胸が痛む。足をどけたくなる。だが、それはできない。いまの高天原はどこもかしこもこの塵におおわれている。塵を避けて歩くことは不可能だ。陰陽寮を探すためには塵をふみにじって進むしかない。

 ――ごめん。

 胸のうちにそう呟く。刺すような痛みに耐えながら、震える足に力を込めては歩きつづける。

 ――きっと、仇はとる。《すさまじきもの》はおれが倒すから。だからいまは……ごめん!

 唇をかみしめ、歩きつづける。と、首筋の辺りにちりちりした感触が走った。シュランドには馴染みの感触だった。森のなかで肉食獣に狙われたときと、それは同じ感触だった。

 ――誰かがおれを見ている。

 それもひとりではない。最低でもふたり。塵の山に隠れながらじっと見つめている。もっと大勢いるかも知れない。そして、それは決して友好的な相手ではない。友好的な相手なら隠れ、ひそみながら様子をうかがうはずがない。敵意があるかどうかまではわからないが油断ならない相手なのはたしかだった。

 シュランドは警戒しながら進んだ。相手の動きをたしかめるための誘いだった。思ったとおり、監視者はシュランドにぴったりとついてくる。さりげなく気配のする辺りに目を配った。目にはなにも映らなかった。歩くことで舞いあがるはずの小さな塵埃ひとつさえ。

 敵意をもった相手かどうかをたしかめるため、シュランドは誘いをかけることにした。塵の山に足をとられ、姿勢をくずしたように見せかけた。敵意をもった相手ならこの隙を見逃すはずがない。

 空気の裂ける音がした。一振りの短刀がシュランドめがけて飛んできた。シュランドは前に飛んでさけた。つい先ほどまでシュランドの頭のあった空間を短刀が飛んでいった。それからわずかに遅れてもう一振りの短刀がそれより下の空間を通り過ぎた。シュランドが身をかがめて避けることを予測してすぐに二本目の短刀を投げていたのだ。

 恐ろしく用意周到な相手だった。

 しかし、シュランドは身をかがめるのではなく、前に飛ぶことでさけた。せっかくの相手の配慮も空振りに終わった。

 さあ、次はどうする?

 シュランドは思った。その瞬間、もうもうたる塵煙ちりけむりをあげてひとつの影が飛び出した。やせ形で背が高く、驚くほど手足が長い。

 蜘蛛くもを思わせる男だった。

 その男が右手に一振りの剣をもち、シュランドに襲いかかってきた。男の目に憎悪や怒りはなかった。敵意すらない。あるのはただ静かな殺意だけ。ということは……。

 ――本物の盗賊だ。

 シュランドはそう判断した。

 廃墟と化したこの町はいまや盗賊の根城にでもなっているのか、シュランドは自ら腹をすかせた肉食獣の群れのなかに飛び込んでしまったらしい。

 シュランドは激しい怒りを覚えた。たとえいまは廃墟でも自分の生まれた町だ。絶対、許せない。退治してやる。

 シュランドは心に叫んだ。

 手にした剣を振りかざし、蜘蛛のような男がシュランドに襲いかかる。シュランドはきびすを返し、男とは逆方向に走った。逃げたのではない。その逆だ。後ろから襲いかかってくるもうひとりの相手を先に倒すためだった。

 相手の回避行動を予測して二本目の短刀を投げるような男がこんなにも目につく襲い方をするはずがない。この男は囮だ。自分に注意を引き付け、逆方向にひそんだ仲間が襲いかかる隙を作る。そのためにわざと目につく襲い方をしてきたのだ。

 幾度となく、狼の群れが狩りをする様を見てきたシュランドは『群れでの狩り』の方法を知り尽くしていた。

 予測どおり、シュランドの向かった先にもうひとりの男が現われた。男は短刀を逆手にもち、じりじりと近付こうとしているところだった。気配の断ち方といい、足の運びといい、高度な訓練を受けた忍びにちがいない。しかし、さすがにシュランドがいきなり自分に向かってくるとは予想していなかったのだろう。一瞬、驚きの表情が浮かんだ。それが隙となった。

 シュランドはその隙を逃さなかった。体ごと男の懐に飛び込み、突進の勢いと全体重とを乗せた拳を男のみぞおちにたたき込む。その一撃で男は大量の息を吐き出し、気を失った。だが、ただ敗れたわけではない。シュランドにおおいかぶさり、動きを封じた。今度はシュランドが窮地きゅうちに陥った。男の体をのけていれば蜘蛛男に追い付かれ、後ろから斬り付けられる。このまま振り向けば男の体におおいかぶされたまま戦うはめになる。どちらにせよ、勝ち目はない。

 シュランドはどちらもしなかった。むしろ、積極的に男の体を利用した。倒れ込んできた勢いを利用して背負い投げの要領で蜘蛛男めがけて男の体を投げ付けた。男の体をのけること、振り向くこと、蜘蛛男の動きを封じること。シュランドはその三つの目的をたったひとつの動作でやってのけたのだ。

 驚いたのは蜘蛛男だった。いきなり仲間の体を投げ付けられ、さすがに目をむいていた。それでもとっさに仲間の体をたたき落とし、最小限の隙ですませたのはさすがだった。だが、そのわずかな隙でもシュランドには充分だった。

 シュランドの小柄な体が投石機から撃ちだされた石の勢いで動いた。全身がひとつの拳と化したように蜘蛛男の懐に飛び込み、その胃に渾身の一撃をたたき込んだ。シュランドは小柄な少年であり、体重も軽い。全身で飛び込んでもその威力はたかが知れている。

 しかし、シュランドにはそれを補う筋力があった。強靭な足腰が回転し、地面を蹴り、蜘蛛男の体を拳に乗せたまま運んだ。塵の山に叩きつけた。全身の筋力を振りしぼり、蜘蛛男を塵の山に打ち込むかのように密着状態からの一撃を放った。

 蜘蛛男の体が『く』の字に曲がり、瓦礫の山にめり込んだ。塵が舞い、蜘蛛男を呑み込む勢いで降り積もった。シュランドは蜘蛛男の上に馬乗りに飛び乗った。全力を込めて蜘蛛男の頭部を塵の山のなかに押し込んだ。このやわらかい塵の山の上でいくら殴っても効果は薄い。むしろ、その柔らかさを利用することだ。なかに押し込み、窒息させる。それがもっとも効率的な倒し方だった。

 蜘蛛男はひょろ長い手足をバタバタさせて抵抗した。もがけばもがくほど塵の山は崩れ、なかに呑み込んでいく。やがて、動きがとまった。蜘蛛男の首から上は完全に塵のなかに埋まり、枯れ枝のように突き出した四本の手足はもはやピクリとも動くことはなかった。

 シュランドは息をついた。立ちあがった。

 人を殺したことへの感慨かんがいなどない。生き延びたければ殺すしかない。そういう世界で生きてきたのだ。

 十年前のあの日から。

 シュランドにとってこの殺人は、自分を襲う肉食獣を返り討ちにするのとなんらかわりのない行為だった。

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