第29話 光明
さしあたって、最後の問題は。
「おかえり、明里ちゃん。ちゃんと幻神さまを
皮肉げに
「……
「なんだ、そこまでばれてるの」
「……長者さま、あたしの義理の父だからね。気に入られたいと思うのは普通でしょ。お義父さんがめつい人だけど、うちの旦那は気が弱くて、奉公に行ったあたしを見初めるような人だったんだ。お養父さんはもっと商談に使える家の娘よかったらしいから結構揉めたけどね。……ほら、若者衆に夜這いとか手引きしてる連中いるでしょ?
蕗は早口でまくし立てていたが、そこで言葉を区切った。
「そしたら、そのすぐあとだよ。明里ちゃんが
蕗は顔をあげ、二人を見た。特に千影のほうを嫌そうに。
「……
「明里ちゃんは相談すらして来なかったのにね」と苦々しく言われる。
「そのうち、あたしが贄の親族だからって、旦那まで他の奉公人からいろいろ言われだしちゃって居たたまれなくなっちゃった。お腹が大きくなってたことにかこつけて、実家に戻ったの。そしたらさ、お養父さんが幻神さまを使役できる方法があるって教えてくれた。棚機の供物を貸し付けに使おうとあてにしてたみたいなんだけど、村人に返すことになって困ってるって言ってきた。自業自得で、ばかだよねえ。神様を従属できれば、水の利権とか? よく分からないけど美味しいらしくて。うまく明里ちゃんを説得してくれないかって頼まれちゃった。……だからまあ、そういうこと」
「ごめんね、怒るよね?」と苦笑する。明里はなんと返せばいいか分からなかった。蕗の事情は、おそらく本当だろうから。明里には見えなかった村の中のいざこざ。
最後に、蕗は観念したように言った。
「お義父さんに気に入られたい気持ちも、村の人に見返したい気持ちもあったけど。──無理強いの結婚から明里ちゃんが開放されるなら、それもいいと思ったのだって、本当だよ」
明里は不審そうにした。
「……なんで?」
「なんでって、ひどいなあ、信じてないでしょ。でも正解。明里ちゃんのためというより、千冬さんへの
「え?」
──千冬? 何故千冬の名前が出るのか。
「千冬さんはね」
蕗は顔を下げた。蕗自身の事情より、よっぽど言いにくそうだった。
「一年前、明里ちゃんとの祝言が決まってすぐに、あたしに頭を下げに来たの。もし、自分と離縁して明里ちゃんの帰る場所がなくなったら、今度こそ明里ちゃんを家族として受け入れてほしいって」
明里は目を見開いた。そんな話、千冬から聞いていない。
「祝言前に離縁の心配なんて、よく分からなくて、なんでって聞いたら。千冬さん、愛想つかされるかもしれないからって笑ってた。自分はたいした人間じゃないから、見放されるって。……笑ってたのに、そのすぐあと死んじゃった。なんでかな? なんで死ぬのが分かってたみたいなこと言ったのかな。それだけがずっと心残りだったの」
──違う。千冬は死を悟っていたわけでも。愛想をつかされることを心配したわけでもない。
千冬は明里を愛せないことが分かっていたから、いつか明里が絶望して、自分のもとを去ったあと、独りになるのを心配したのだ。
そんな心配までしてしまう。そんなことまで、気を回してしまう人だった。
「だから、明里ちゃんが無理強いの結婚で不幸になっているなら、うちに招くつもりだったの。千冬さん、最後まで明里ちゃんのこと気にかけていたから」
「千冬……」
ぽろりと一筋涙が伝った。
千冬は、愛せないからって、好きになれないからって、人をないがしろには決してしない、そういう人だった。どうしようもなく、苦しくて、優しい人だった。
「千冬さんも明里ちゃんの幸せを望んでいるはずだから」
ああ──思い出した。一年前、千冬が亡くなってすぐに駆けつけてくれたのは。そう言ってくれたのは蕗だった。「まだまだ若いのだから相手はいる」「明里ちゃんには未来がある」。そうずっと声をかけてくれていた。「寂しいならうちに来たらいい」とも何度も何度も言っていた。その時点で蕗は幼少期の明里とのいざこざを解消しようと、してくれていた。けれど、明里は耳を塞いでいた。千冬の言葉じゃないからってないがしろにしていた。
「あたしも明里ちゃんも村の人も、皆が幸せになる方法を頑張って考えたんだけど、うまくいかないなあ。知らないもん、明里ちゃんがそんなに幻神さまを大事にしてたなんて」
「蕗……」
涙でにじむ視界で蕗の姿をよく見る。よく考えてみる。柔和だけれど、皮肉屋で。親切だけれど、計算高い。後ろめたいときは早口になる。蕗のお腹はもうかなり大きくて、蕗の祝言を挙げた今年の六月のときも。「花嫁衣装が入らなくて困る」と早口に言っていたのを思い出す。だったらもう少し早く祝言を挙げればよかったのに、とぼんやり思っていた。けれど、六月まで遅らせた意味は──。
「……蕗が、祝言を挙げるのを遅らせたのは、千冬の一周忌が明けるのを待っていてくれたから?」
蕗は初めて虚を突かれた顔をした。気まずげに、痛そうな顔をした。
「……偶然だよ。別に明里ちゃんと千冬さんは結婚してなかったんだから、親族じゃないし、そんなことする必要ないでしょ。でも、なんかいろいろ重なって、一周忌前にするのは居心地悪かっただけ」
「……ううん。ありがとう」
蕗が喪に服す義理は一切なかったが、気にしてくれていた。それだけでも嬉しかった。蕗は肩をすくめた。
「……あたしの事情はこれでおしまいです。幻神さま、
「……は? 神罰? 別にいい」
ぼんやりと明里を見つめていた千影は、一瞬反応が遅れた。
「え? お咎めなしなわけじゃないですよね? あたし神様に向かって使役しろとかずいぶんなこと言ったと思うんですけど」
「それはそうだな。だいぶ性悪だと思う。俺はお前が嫌いだ」
蕗はひくりと眉を歪ませた。
「正直どうかと思うが、いい。俺は今ものすごく落ち込んでいて、お前にかまっていられない。明里が千冬を忘れられない理由が理解できた。そんなのずるいだろ」
千影は泣き崩れる明里を痛々しく見つめていた。
「だいたい赤子は助けて母親に神罰を与えろとか、無理難題言うのやめてくれないか。神罰を食らいたいなら、もっと具体的な方法で言ってくれ」
あんまりな言いぐさを聞いて。蕗は唖然とした。
「でも、あの困るんですけど。一応覚悟を持って告白したつもりなので。許されるのも、何か理由がないと」
千影はため息をついた。心底面倒くさそうに。
「……人間は、何故許しに理由がいるのか。罰とか償いとかまで欲しがるのか、やっぱりよく分からない。──じゃあこれでいいか、お前は、明里の親族。贄の血縁。だから、許す。だから大目に見る。これなら俺が贔屓目に見る理由になるだろう」
ぐすぐす泣く明里の背を撫でて、千影は眉を下げる。そんな二人を蕗はぽかんと眺めていた。
「……幻神さまって、そんなに明里ちゃんのこと好きなんだ。それなのに身投げされるくらい嫌がられたなんて、可哀そう……」
「お前もう黙れ。さっさと帰れ。本当に煩い」
「暗いから送る」という明里の言葉に「一人で帰る」と豪語して、蕗は玄関先に立った。
「すぐそこだから大丈夫。幻神さまが叱ったならお養父さんも大人しくなるでしょ。あと、明里ちゃんも。なにかあったら、いつでもうちの実家に来て。困ってるならちゃんと、頼って。……あたしはともかく、お母さんも弟たちも普通に明里ちゃんのこと心配してるから。顔見せてやってよ」
「うん、ありがとう蕗」
ふん、と居心地悪そうにする蕗は幼少期の彼女を思わせた。幼いころの蕗は千冬の家のまで来ては、なんだか後ろめたそうに、明里を遊びに誘いに来たのだった。
「蕗! ああここにいたのか!」
「げ、
出ていこうとする蕗に小柄な細身の男が話しかけてきた。長者の息子、蕗の夫だった。
「ああ、幻神さま、明里さん。本当に申し訳ございません。村長からいろいろから聞きました。父と妻が大変失礼をしたようですみません。どうにも結婚してから父と蕗は気が合うようで、僕に黙っていろいろ結託していて。蕗、ちゃんと謝ったのか? 家のためとはいえ、父さんと悪だくみするの本当にやめてくれないか」
「う、うるさいな! 家のためだけじゃないってば! いろいろ事情があったの、事情が! ていうか、もうその話済んだの! 帰るところだったの!」
蕗は夫の腕をつかみ、その場から足早に去った。
「今度、お詫びの品を持ってまいります! 本当にすみませんでした!」
最後まで頭を下げる蕗の夫を見て、千影と明里は目をぱちくりさせた。
「……なんだか、ほとほとよく分からなくなってきた。俺を畏れているのか、利用したいのか、どっちなんだ。この村の者は」
「それは、私にもよく分かりません。でも、狭い村の中でもやっぱり、いろんな人がいますから」
遅くなった食事をとりながら、二人はため息をついた。さすがに今夜、覗きに来る村人はいないようだ。
「そうだな。いろんな者がいる。簡単には区別できん。それはつくづく理解できた。俺には複雑怪奇すぎる」
辟易している千影を見て、明里は苦笑する。けれど、と千影は続けた。
「俺が千冬の写し身で現れたばかりの頃は、村の者は今よりずっと、気楽に俺を受け入れていたな」
ぱきり、と焼いた栗を割り、千影は中身を露出させた。
「それは千冬がそういう人間だったのだろう。そこにいるだけで馴染むような。あんなに面倒でややこしい村人とうまくやるなんて、神より神がかった行いだな」
「……はい、でも千冬はただの人間でした」
川に流されれば、あっけなく命を落としてしまうくらいには。
「だからこそ正直妬ましい。こんなに打ちのめされるとは思わなかった。
「はい……?」
千影は栗の実を口に放り込んだ。もぐもぐと、ゆっくり
「けれど、千冬がいなければ、俺はここにいないから──お前と会えてすらいないから」
千影は明里を見た。ゆっくりと。
「だから、大切にしなければ。お前の心も、千冬も」
「千影さま……」
ああ、そうか。千冬は何も残してくれていないと思ったけど、千冬がいなければ確実にこの神様は今明里の隣にはいないのだ。
「はい。ありがとう、ございます」
明里は眉を下げて、微笑んだ。千影はため息をついた。
「……邪魔が入らなくなったところで、結局心の問題か。けれど、諦めるなと言ったのは他でもない明里だから、言うぞ」
千影の独り言に、明里は首を傾げた。板敷が軋んで、千影は明里に近づく。祈るように、明里の手を握った。
「明里。どうか今だけは、神殺しの言霊を、使わないでくれ」
「え?」
握られた手に力がこもる。大きく目を開く明里の瞳に、千影が入り込む。明里の顔に、影が落ちる。
「ちか……」
思わず漏らした声は塞がれた。──千影自身の唇に。それは一瞬のことだったが、唇の熱はいつまでも残っていた。
「……千冬はお前に関わらない方法でお前を守ったようだが、俺はそのつもりはない。俺は千冬ではない、から。お前に関わりたいし、お前とともに生きていきたい。できることなら、仮初めの夫婦を超えた、その先も」
そうして額をくっつけて、千影は懇願する。
「早く忘れろとは言わないから。いつか、俺のことを好きになってくれ。千冬を想う、その激しさ、俺に向いたらと思うだけで、身が震える喜びだ。いつも夢想していた。そんなふうに想ってもらえるなんて、どんな気持ちなんだろうと」
「ち、ちかげ、さま」
「好きなものも、好きなことも、お前に敵うものはない──明里、俺はお前が、好きだ」
明里は戸惑う。赤面する。心臓が、跳ね上がる。
熱心に想いを告げるその姿は千冬でもなくて──神様でもなくて。
ただの男の人に見えた。
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