第15話 渦
「──‥‥っと。もうこんな時間か。そろそろ戻らないと」
時刻は夕暮れに近づきつつあった。あまり長居しては日が落ちる。清治は腰を上げた。ひとまず、神様と邂逅は果たした。現状はいいとは言えないが、及第点ではある。拒否されなかっただけ、次の会話の余地はあるだろう。
「カミサマは戻らないのか?」
「俺はまだここにいる」
「そうか、ならまた飯持ってくるよ」
「‥‥」
幻神は静かに目を閉じて返事をしなかった。その様子が気にかかり、去り際に清治は尋ねた。
「なあカミサマ、結局贄を伴侶にするまでの期間はどのくらい猶予があるんだ? そんなに短いものなのか?」
「いや‥‥選ばれた月にもよる。贄を見つけてから伴侶にするまでの期間は、その月から次の年が開けるまでだ。条件は一夜共に過ごすことだが‥‥十二月の
なあんだ、と清治は胸を撫で下ろした。
「なら急ぐことはないんじゃないか? こういうのは時間に任せるのも大事だぞ」
先延ばししていい案件でもないが、明里も今は混乱しているだろう。間を置くのも大事だ。幻神はゆっくりと目を開いた。
「そうも言っていられん。俺にはもう一つ縛りがある」
低く落ちた声色に清治は目を見張る。流れる水面を幻神は見つめた。
「カタチのある他の神とは違い、俺の本質は水のようなものだ。──清治、川の水を汲むにはどうすると思う?」
いきなり水を向けられて、意味の分からないまま清治は答える。
「‥‥そりゃ水桶で掬うとか、瓢箪で汲むとか、器に入れるんじゃないか」
そうだ、と幻神は緩く頷いた。
「水をカタチにして現世に留めるには器がいる。写し身とは贄が作るその器のことだ。けれど、明里は俺の写し身を否定してしまった。贄の言霊は強い。今は器にヒビが入っているような状態だ」
「‥‥‥ええ、と、つまりそれは」
なんとなく嫌な予感がして、清治は答えを急かした。神様が、今にも水に溶けて消えてしまいそうに見えたのは、あながち的外れでもないのかもしれない。
「あと三日も経たず、“俺”は霧散する。器が壊れれば、水をカタチしておくことはできないからな。このまま恩恵も災厄も村に与えないのであれば、俺はただの現象、幽鬼にすぎなくなる。神として、死を迎えるということだ」
それから、幻神は一日中、ぼうっとしていた。あの後、清治は何も言わずに押し黙って帰っていった。また来るとは言っていたが、翌日に再び訪れることはなかった。村に報告したのか、胸の内に留めておいているのか、どちらにせよあまり興味はなかった。明里が写し身を拒否した時点で幻神の取れる選択は二択しかない。災厄で村を潰すか、幻神自身が泡と消えるかだ。
だったら、このままなにもせず、なにも手を出さず、幻神だけが消えてくれたほうがいいと、明里も清治も村人もそう思うに決まっている。人の都合など、所詮そんなものだ。縋るときには滑稽なほど縋り、見放すときには冷酷なほど見放す。怒りは湧かない。いいも悪いもなく、そういうものだからだ。だが。
──他人の望みばかりを優先して、見ていてしんどそうだった。あれじゃお人形だ。
あれだけは看過できなかった。幻神は乾いた笑みを浮かべる。千冬の表情の中で笑顔ばかりを模倣していたせいか、幻神の感情の表現は笑みを浮かべることが、一番容易かった。仮に、その感情の由来が怒りであっても。
よくもまあ、この身を前にして言えたものだ。うっかり、清治の首をねじ切るところだった。怒りを通り越して呆れ果ててなにもできなかったが。清治は気がついていないが、千冬を労るその言葉は、幻神の行為をも否定するものだった。
幻神の写し身は他人の望む通りの人形になるも同然だ。贄が伴侶になったあと、共にカミの国に行ったとしても、贄が寿命を終えるまでそれは続く。贄の望む人形になりきり続ける。その幻神がしてきたこれまでの行いはすべて苦行だったと。自己を持たずに献身する姿は哀れだと。ヒトにはそう見えるらしい。
(潰される本人はたまったものではない、か)
ずいぶんと、幸せな悩みだ。幻神には潰す自己すら持ち合わせていない。誰でもないから、誰にでもなれる。自分を持たないから、いくらでも贄の望むまま、他人の望む姿になれる。
今までの贄の中には愛し合うだけではもの足らず、恋しい相手を傷つける者もいた。愛情の表現が暴力に、支配になる。そういう人間だっていた。
例えば、身分違いの貴族に横恋慕した下人。嫉妬のあまり、夫の側室を亡き者にした奥方。そういう激しく誰かを想う声を聞き届けて、幻神はカタチを得た。逃げ出した本物のかわりに偽物である己が贄の願いを叶えた。一度贄を選んでしまえば、替えは効かないからだ。
誰かを想う気持ちが強ければ強いほど、幻神はその声に引き寄せられる。理由は分からない。生まれついての神としての性質だった。だから、いくら無体にされようと、蹂躙されようと、全部黙って受け入れた。人の身では決して耐えられない痛みをすべて受け止めてなお、それでも。幻神自身を愛す贄はいない。いつだって本物の誰かを通した愛を向けられていた。健全な愛も、歪んだ愛すらも幻には手に入らなかった。
だから、明里や清治が持つ千冬へ罪悪感が幻神には分からない。いくら、千冬が村の中で自分の意志を潰されようと、誰かの影になるわけではない。千冬自身の存在が消えてなくなったりはしない。
それが証拠に、姿形が同じはずの千冬と幻神は全然違うと、明里は言う。明里の想いはいつだってまっすぐに千冬に向いていた。写し身を通して、その愛情はちゃんと幻神にも伝わっていた。千冬は神様にも手に入らないものを、ちゃんと手に入れていた。
バキバキ、と突然足元に亀裂が走った。真夏だというのに、千冬の顔を映していた水面が凍てついて割れていた。
「──‥‥?」
力の加減ができていないのか。川の凍結が止まらない。根を張る氷は幻神の足元まで貼り付けにしていく。だいたいあのクスノキを割るつもりもなかった。神木は宿木。神の降り立つ場所の目印。わざわざ力を削ぐ真似までして、いったいなにをしているのだろう。
手のひらを見た。輪郭はかろうじて保たれているが今にも崩れて落ちそうだった。この調子なら三日も持たないかもしれない。
だったら、さっさとケリをつけるべきだ。明里が器を完全に破壊する前に、すぐにでも災厄で村ごと明里の命を断つべきだ。この村は未来永劫消え去るかもしれないが、周りの土地には畏怖の念が生まれる。贄を与えない報いを知らしめることができる。そうすれば、幻神は神として延命できる。今まで育んできた水の神としては一旦終え、祟り神として祀られることになるかもしれないが、所詮幻神に自己はない。別にどうということもない。今まで積み上げてきたものがなくなるだけだ。
それなのにどうして、あの愚かで世間知らずな小娘を殺せないのか。あの真水のような涙が無くなることを惜しいとすら思うのか。目の前の千冬の写し身より、塵のような遺灰を後生大事に抱え込んでいるばかな娘をどうして諦めきれないのか。
ずっとそんな逡巡を繰り返している。ずっと棚機の晩からあの顔が、あの声が、あの涙が忘れられない。
さくり、と草の根を踏む音がした。
「──幻神さま」
名を呼ばれて、ぼやけいた輪郭がほんの少し持ち直す。己を泡へと追い込もうとする幻神の贄が立っていた。
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