幕間 井戸車──幻神と過去の贄の話

 声が聞こえた。誰かを恋しいと願う声。


 目が覚めると真暗闇だった。土埃が舞う穴蔵で胎児のように身体を丸めていた。視界は膜が張ったように不明瞭で、手足も生えたてのおたまじゃくしのように覚束ない。人型になるのはおよそ百四十年ぶり。そのたびに、身体の動かし方を忘れてしまう。

 

 この國にはしきたりがある。一月から十二月。暦に割り振られた十二柱の神様に、その生まれ月の若者が贄に選ばれ、伴侶として捧げられる儀式。十二年に一度、一柱のみ伴侶が選ばれる習わし。


 神の性質はそれぞれの月によって異なる。例えば今年この儀式に該当する六月の幻神げんしん。贄の望む姿で現れる、カタチを持たない神様は暗い穴蔵の中で目を覚ました。


 誰かを想う強い声に惹かれて、幻神げんしんは自分の意識とは関係なく顕現する。今回の写し身はとりあえず五体満足のようだった。五感も正常に機能している。肺で呼吸するのを思い出し、視界が光を吸収すると、目が暗闇になれた。横たわっていた場所は穴蔵ではなく、古びた土蔵のような場所だった。幻神はたいして疑問にも思わず、そのまま格子から覗く月夜を見ていた。


 ふいに、まだ輪郭が朧気な身体を抱きすくめられた。


「──ああ、姫! 待っていてくれたのですね!」


 気がつくと、目の前に男がいた。無精髭をたくわえた、やせ細った下人。今回の声の主。今回の贄。その淀んだ眼と目が合うと強烈に縁は結ばれた。男の望む姿が水鏡に映る。


「信じておりました! 姫は私のことをお見捨てにならないと」


 贄の男が名前を呼んで、幻神は完全なカタチを為す。


 声、鈴のような軽やかな響き。

 瞳、丸くあどけない眼差し。

 髪、艷やかで流れるような長い黒髪。

 身体、何不自由なく育った華奢な肢体。

 

 薄浅葱色の袿に濃色の袴を纏ったとてもこの下人と釣り合うはずもない、貴族の娘のようだった。


「姫が見つけ出されたと騒ぎがあって、慌てて戻ってまいりました。私から逃げたなんて信じられなくて。ああ、でも、やはり姫は待っていてくれた。私を愛してくださっていたのですね」


 野太い男の手が華奢な肩に食い込んだ。


「私と一緒になってくれますよね?」


 沼のように濁った瞳を幻神は見つめ返した。


 男の中の記憶を辿る。たまたま垣間見た身分違いの姫君に入れ込んで、ついには隙を見てその姫君を攫い、土蔵に隠した哀れな下人。


「──はい。旦那様。わたくしは外では生きていけません。おそばに置いてくださいませ」


 男の望みの台詞を吐く。傍から見れば、男よりもこの状況で平然としている姫のほうがよほど常軌を逸していたが、男は気づかない。


 土蔵の格子窓は外れていた。この男が攫ってきた本物の姫君は逃げ延びたらしい。この下人はすぐにでも衛士えじに捕らえられ処分を受けるだろう。そもそも姫の着ていたはずの袿は、この男自ら売り飛ばしていたのだから、元に戻っていることすらおかしい。少し考えれば、違和感まみれの存在だと気づくはずなのに、男は何も見ず、何も考えず、幻神を抱きしめた。


(ずいぶんと、今回は楽な贄だな)


 一度写し身の姿をとれば、贄を変えることはできない。中には偽物だと気づいてごねる贄もいたが、今回は幻術で惑わす必要もないほど、あっさりと贄の男は幻神を受け入れた。その場で契りを交わし、事が終わった瞬間に男の意識を奪う。あっけなく、儀式は終わる。


 十二柱の住まう天界に連れて行こうとすると、土蔵の入り口でばたばたと足音がした。駆けつけた衛士だった。すぐに異様な空気を感じ取り、二人を取り囲んだ。


「──な、なんだ。おまえは! 何者だ。あやかしか!」


 ゆらりと振り向いた“姫君”に太刀を向けて、衛士たちは叫んだ。“姫君”の瞳は金色に輝き、まるでジャの目のように衛士たちを釘付けにしていた。月夜に平然と素肌を晒し、大事そうに自身の伴侶を抱きしめた。


「わたくしは十二柱がひとり、六月の幻神。幻惑を司る水の神でございます。贄の儀式に伴い、この男を貰い受けに参りました」


 “姫君”の幼い声から放たれる異様な言葉。衛士は固唾をのんだ。ざわりとその場が混乱する。


「幻神とは、あの天界に住む神か?」

「確かに、今年は儀式の年だと陰陽師どもが騒いでいたが」


 “姫君”は太刀を前に怯えもせず、静かに答えた。


「はい。その通りでございます。わたくしは贄の望む姿でカタチを成します。今回はこの姫様の姿をお借りしただけです。もうよろしいでしょうか?」


 話すこともないと、“姫君”は衣をまとい、男を包み込んだ。慌てて、血気盛んな衛士がひとり踏み込もうとする。


「待て、化生!」

「おい、やめろ!」


 捕らえようとした衛士を別の者が制す。太刀を収め、耳打ちした。


「あやかしだろうが神様だろうが、罪人の男がひとり、消えたところでむしろ手間が省ける。それで恩恵までくれるなら言うことなしだろ」


 “姫君”は笑みを浮かべた。


「はい。贄のかわりにこの土地には水の恩恵をお約束いたします」


 衛士たちは反抗する気をなくしたようだ。誰にとっても悪い話ではない。誰も損するわけでもない。“姫君”は誰も止めないのを見定めて、ふわりと地を後にした。


「痩せこけた色狂いの下人を娶るとは、ずいぶん奇特な神様もいたものだ」


 最後に小馬鹿にしたような響きが聞こえた。その言葉だけが耳に残る。どうしてだろう。誰かを恋しく想う声は確かに美しいものなのに。


 双方合意の奇妙な神隠しは成立した。幻神は自身の贄と共に天界に戻った。十二柱の住まう神の社はそれぞれの神の特性に従い、花の御殿であったり、巨大な城であったりしたが、幻神は幻惑を司る神。贄の望む住処が、そのまま建屋として現れる。


 殿上人のように雅な暮らしを望むのであれば、豪華な寝殿造しんでんづくりに。慎ましい二人だけの生活を望むのであれば庶民の茅葺屋根の家に。如何様にも変えることができた。


 この男が望んだのは、あの土埃にまみれた土蔵だった。ほとんど正気を失い、天界にいることすら気がついていない男は“姫君”が逃げないように、何重にも重い鍵をかけて怯えて過ごしていた。少し境界を外れれば、天界のきらびやかな世界がすぐそこにあるというのに、井戸の底のように暗く、冷たい土蔵に幻神を閉じ込めた。


 男は昼間の時間は蔵から出て、夜には戻る生活を繰り返していた。実際は幻神が見せている幻術に過ぎないから土蔵の扉を開けた瞬間に夢に落ちているだけだ。夢の中で、僅かな食べ物を見つけてきては、“姫君”に渡す。人の身であるならば、到底足りない食量だった。


「姫、姫や。衛士に追われて、これだけしか食べ物がなくてすまない。もっといいものを差し上げたいのに」

「いいえ、旦那様。わたくしのためのそのお心遣いが嬉しゅうございます。どうぞ旦那様が召し上がってください」


 望みの台詞を汲み取って、望み通りの笑顔で微笑む。そうすると男は安心したように、水菓子を頬張った。“姫君”は食事をする必要もないし、天界の水菓子は、男の命を繋ぐには十分な栄養があった。


 そんな夢か現か分からない生活が数年続いた。

 あまりにも問題のない生活。あまりにも望み通りの“姫君“。

 奇妙に思うのと同時に正気に戻るのを拒む心。


 その狭間で男は病んだ。

 時折、男は狂ったように“姫君”を痛めつけるようになった。それでも泣いて怯えて、最後には許す“姫君”を見ては安心したように眠りについた。


 “姫君”のその行動こそ、男を苦しめていたのだが、カタチを持たない神様には人の心が分からない。幻神の写し身は贄が拒否すれば簡単に割れてしまうもろいものだった。だから、少しでも贄に不安を抱かせないよう、拒否されないよう、──贄が幸せでいるよう理想の人形を演じ続けた。その噛み合わない歯車が亀裂を生み続けた。


 痛みを知らないと、殴られたときの反応が薄いと言われるので、痛覚を感じるようにした。


 悲しみを知らないと、涙を自然に流すことは難しいので、感情を覚えた。


 男が“姫君”の髪を引き掴み、押し倒し、いくら身体を蹂躙しても“姫君”は泣いて謝り、最後には許し、微笑むのだった。そうして神様は、ひたすら贄に献身し続けた。


 天界にいても、人間の贄の寿命は変わらない。けれど本来の寿命よりも早く男は摩耗した。白髪だらけでさらに痩せこけた男は年若いままの“姫君”の膝の上で、今にも息を引き取ろうとしていた。


「ああ、ああ、ずっと悪い夢を見ていた心地がする。確かにあなたとずっといたのに、ずっと独りのような気持ちだった」

「なにをおっしゃいます。旦那様、気をしっかり持ってくださいまし」

「ああ、お会いしたい。姫君に。あの日、あの場所で垣間見た明るい笑顔のあの方にお会いしたい」


 男の淀んだ瞳の中、“姫君”はその心を盗み見る。男はずっとそばにいた望み通りに動く人形ではなく、幻神の知らない陽の光の下で笑う、本物の姫君を求めていた。


「わたくしは、ここにおります。旦那様」


 自然と口をついて出た言葉は男の望んだ台詞だったのか。幻神自身の気持ちだったのか。それすら本人にも分からない。


「わたくしは、わたくしはここに。ここに、います。旦那様、旦那様」


 その言葉の返事は永遠に返ってこなかった。男は静かに息を引き取った。“姫君”は無言でその死に顔を見つめていた。この男だけのために作られた形代は消える。贄が死ぬば贄が作った器が消え失せるのは当然のことだ。


 この写し身で得た感覚も溶ける。それが痛みや悲しみであったとしても、大切な自己になりかけていた感情すら残らず霧散する。ぽろぽろと、“姫君”は涙を流した。もう涙を流す意味もないのに止まらなかった。


 喜びなのか悲しみなのかは分からない。愛していたのかすら分からない。幻神には自己がない。カタチがない。なのに何故涙が出るのか。その涙の意味を理解する前にぱしゃんと身体は解けて水に溶けた。


 意識は霧のようにばらばらに融解した。次の儀式までの百四十年間。実体を持たない幻神は雨になり、川になり、海になり、雲になり、また雨になってこの地を揺蕩い続ける。


 次の誰かを求める声を聞き届けて。何十回、何百回、また誰かの影に成り代わる。

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