第26話 斜陽

「お前はなんだ? 俺の邪魔をして楽しいのか?」


 千影がじろり、とふきに睨みを効かせる。

 明里もふきも肩をはねあげさせたが、ふきは挑みかかってしまった。


「なにが楽しいものですか! もう村中評判です。幻神さまが無理やり明里ちゃんを手籠めにしているって」

「ふ、蕗……」

 

 はあ、と千影はため息をついた後──腹の底から響くような声を出した。


「──それがどうした。明里が自ら身を差し出したから、お前たち村の者は安寧を手に入れているのだろう? なにか文句があるのか」


 千影が堂々と宣言して、明里は驚いた。否定しようとしたら「黙っていろ」と制される。千影の視線は蕗を通り越して、こちらを窺う幾人もの村人に向けられていた。いったい、いつの間に。


(千影さま……わざと‥‥)


 あくまで明里は被害者である、と。今のは、まぎれもなく、非難や好奇の目を神様自身に向けさせるための言葉だった。


 ただ蕗に対しては、それは火に油だった。


「い、いくら神様だからって、身投げまでした娘を嫁にするのはどうかと思いますよ!」

「あ、あの蕗、待って、それは‥‥」


 明里の言葉を遮るように千影は口を開く。


「本人が了承している。余計な口を出すな。いくら親族と言えど、明里の伴侶は俺だぞ」

「明里ちゃんが大人しいからってそうやって好き放題して、今だってこんな真昼から……!」


 今? なんのことかと明里は驚いていたら、ぐい、と肩を掴まれた。


 千影の胸に顔を押し付けられて、つんのめりそうになる。


「俺が、俺の妻を愛でて何が悪い? お前こそ無粋すぎるぞ。それともなにか? 災厄を食らいたいと申すのか」


 千影の瞳が金色に変化する。蕗が怯え押し黙る。明里は焦った。フリと言えど、これ以上は蕗が村人に何を言われるか分からない。


「千影さま、あの、離してください。私から蕗に言いますから」

「‥‥‥」


 千影は明里の表情を見て、目の色を沈ませた。そうして、もう一度蕗を睨みつけたあと。


「──我が妻のやさしさに感謝することだな。娘、今後邪魔したら許さんぞ!」


 と、明里の額に口づけた。明里はびくりと震えたが、千影は腕を開放してくれた。


 もちろん、そのやりとりも全部、村の者が見ていたわけだが。


「蕗、あの、おすそわけがあるからうちに行こう。千影さま、お邪魔しました。お帰りお待ちしています」


 明里は千影の腕から抜け出し、蕗を掴んでその場から逃げ去った。



 

「なんなの! もう! えらそうに。脅迫して力づくなんて、最低っ!」

「し、心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だから、手籠めなんて、そんな、言い過ぎだから」

「‥‥そう言えって言われてるの?」

「ち、違うよ」


 蕗は全く、信じなかった。どうするべきか。蕗には本当のこと言ってしまっていいものか。でも、もし仮初めの夫婦だと広まれば、噂がどう波及していくか分からない。だってきっと“なにもなかった”なんてつまらないから。尾ひれはひれがついて、婉曲され、歪曲されていくに決まっている。やっと村は平穏を取り戻しつつあるのに。


(呑気に会いになんて、行かなければよかった……)


 村長が、千影に対して心遣いをしてくれたのが嬉しかったからって、余計な事せず、家で待っていればよかった。千影はあのあとひとり残って大丈夫だったのだろうか。喜ばせたかったのに、ひどい誤解を受けさせる羽目になってしまった。

 

 家までたどりついて、栗を板敷いたじきの上に置く。夕餉の準備に取り掛かる。せめて、楽しみにしていると言ってくれた食事くらいはしっかり作っておこう。


「蕗、これ村長からもらった栗。あと干し肉も持っていく? 千影さま、あまり血が出る食べ物が好きじゃないの」

「……別に、明里ちゃんは食べればいいじゃない。付き合うことないでしょ」

「え、そ、そうだけどでも別に一緒に作ったほうが楽だし……一緒に食べたほうが美味しいから」


 明里は俯いた。千影と一緒に食事を取ることが明里は好きだった。ひとつひとつ「好きか」どうか確かめる姿は微笑ましくて、あれもこれも、と作りたくなるくらい。


「なんなの、幻神さまは召使い扱いでもしてるわけ? 明里ちゃんも、言われるがままはどうかと思うんだけど」


 けれど、蕗には全然伝わらなかった。少し、苛ついてすらいた。身投げして、手籠めにされて、嬉々として料理なんてしていたら、そう思われて当たり前かもしれない。けれど、面と向かって千影に物申す親身さはやっぱり、不思議だった。他の村人は皆、村の安寧のために遠巻きに見ているだけなのに。


(あ、そうか)


 そうだ、それが違和感。いくら親族と言えど、あんなことしたら蕗だって村人から非難されかねない。神様と村娘の仲を裂こうとしているのだから。


 直接聞いてみたらいい、千影の言葉がよぎった。


「蕗はどうして? どうしてそんなに親身なってくれるの?」


 蕗は一瞬、小言を止めた。板敷に座り、小さく呟いた。


「……あたしのせいなんだ、明里ちゃんがあたしの家に居られなくなったの」


 え、と予想外の理由が出て、明里は戸惑う。


「明里ちゃんがうちに引き取られたとき、あの頃弟たちも生まれたばかりで、そこに明里ちゃんが入ってくるのは嫌だったの。明里ちゃんは昔から、そうやって誰かにから。親を亡くしてたのに、お母さんやお父さんのお手伝いも率先してしようとしてた。比べられて、なんか嫌だった。ごめん、ただのやきもち? かな」


 明里は言葉をなくした。蕗がそんなことを思っていたなんて、夢にも思わず。蕗は、そんな明里を一瞥した。


「だから、分からないように締め出したり、ご飯を抜いたりしてた。そうしたら、明里ちゃんいつの間にか千冬さんのところに行くようになっちゃった。千冬さんはそういう明里ちゃんも放っておけなかったんだね」

「それは……」


 よく覚えていない。けれど。あの頃から、千冬は周りのいろんな目に気づいていて、先に問題を潰して回るような人だったから、その可能性はないとは言えなかった。問題が起きる前に、その問題を解消するから、誰にもその優しさは気づいてもらえない。そういうひと、だった。


「‥‥やっぱり、まだ千冬さんのこと、好きなんだね?」


 胸を痛ませる明里を見て、蕗はなにか確信めいたように言った。


「明里ちゃんが千冬さんに依存しきりになったのは、あたしのせいでもあるんだ。あのままうちにいたら、結果は違ったかもしれないのにね。明里ちゃんのこと、千冬さんに任せっきりにしていたし。だから、今明里ちゃんを助けるのは罪滅ぼしなんだよ。今更だけど」


 ──依存。その言葉が胸に重くのしかかった。そこまで知っているのか。あまり触れられたくはなかったが、蕗が親身な理由は理解できて、明里は笑みをとりつくろおうとした。


「そう……なんだ。でもだいじょうぶ、今は──」

「だから、」


 蕗は明里の声なんて聴きもせず、早口に述べた。


「明里ちゃんが言うのなら、千冬さんの遺灰だって盗んでこれるよ」


 ひゅ、と息ができなくなった。


「千冬の、遺灰?」


 考えないようにしていた。あの遺灰。


「……千冬の遺灰、まだあるの?」


 何故そんなことまで知っているのか。そういう疑惑すら頭から飛んだ。捨てられたかと思っていた。それを確認するのすら怖くて、遺灰を預けた巫女にも聞けなかったこと。


「うん、祝言の日。あたしだけ身重だったから社務所で休んでたの。そしたら、聞いちゃった。宮司さんと村長さまが話してた。まだ遺灰はあるよ。あれは幻神さまを封じこめる切り札のひとつだから、捨てないほうがいいってさ。ねえ、あれがあれば、幻神さまはなにもできないんじゃないの?」


 明里は、蕗の声が聞こえなくなる。千冬の唯一の遺品。千冬の遺灰。まだ、残っていた。


「よく分からないんだけど、千冬さんの遺灰と、明里ちゃんの……なに? 神様を殺す力があれば、完全に幻神さまを使役しえきできるって……従属させることもできるって言ってた。だったらなんでしないの? そのほうが、こんな力づくな結婚より、明里ちゃんも楽でしょ? そのほうが、村の人も……あたしも、安心できるんだけど」


 千冬の遺灰に意識を囚われて、よく内容が入ってこない。


 ──だから、その足音にも気づかなかった。ちゃんと、足音はしていたはずなのに。


「千冬‥‥」


「──俺がいないほうが、いい話か?」


 ばっと振り向く。玄関先の軒下に、千影は立っていた。その表情は冷たく、無表情だった。


「ち、千影、さま」


 話? 今、何の話を、していた?


 我に返る。声がうわずる。無感情な瞳が明里を見る。


「まだ続くようなら、俺は席を外す。好きなだけしていろ。穢らわしい遺灰の話なんぞ、耳に入れたくもない」


 衣をひるがえし、千影はきびすを返した。明里は青ざめる。


「千影さま、待って、待ってくださ」


 伸ばした手を振り払われた。

 強い拒絶。全身の熱が冷え切った。


「千冬の遺灰に縋りたいなら縋ればいい。そちらのほうが安心するのなら、勝手にしろ。俺も、死に縋る人間は──嫌いだ」


 声が出なくなる。千影は視線を向けず、そのまま足早にその場を去った。

 そんな二人を、蕗はただ無言で眺めていた。


「明里ちゃん追いかける必要ないよ。神様なんて言ってるけど? どうせ千冬さんのマガイモノなんでしょ? あ、それで明里ちゃんも踏ん切りがつかないとか?」

「──蕗!」


 明里が鋭く叫んだ。びくりと蕗は肩を揺らす。明里はあまり怒ることがなかったが、千冬に関してだけは驚くくらい激しい感情が出るときがあった。けれど、今は同じくらい、泣くほど腹が立った。蕗の言葉にも、自分自身にも。


「千影さまにそういうこと、言うのやめて! 言ったら許さないから」


 明里が声を震わせて、蕗は戸惑う。


「どうして? 明里ちゃんだって最初は嫌がっていたじゃない。怒られるから? 脅されるから?」

「ちがう、ちがうの」


 明里は零れそうな涙に耐えた。確かに最初は嫌だったし、怖かったし、怒られたりもした。けれど、神様はいつも明里の願いを叶えようとしてくれていた。本当に分かりづらいけれど、その行動はいつも単純なものだった。


 明里が望むから、千冬の姿で現れる。千冬のことに整理をつけて、答えを出すまで待ってほしいだとか、子供のような我儘を受け入れる。──自分の命を担保にしてまで。


「あの人、全然千冬と違うの。違うけど、同じくらい優しいの」


 三々九度で躊躇すれば「飲まなくていい」と言ってくれる。村に馴染む必要なんてないのに、好奇の目に晒される。明里を手籠めにしているなんて誤解をその身に受けてくれる。


 好きなものはなんだ──とか。そんな、どうでもいい、明里の質問を、馬鹿にせず、懸命に考えてくれる。


 分からないから、分からないなりに、歩み寄ってくれようとしていた。それだけは、明里にも伝わっていた。


「ただ、大事にしたいだけなの」

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