第25話 木漏れ日

「まあ、村の者が?」

「はい……」


  寝不足でぐったりしている明里を見て、巫女は苦笑した。昨夜のことはおそらく若者衆の間では噂になっているに違いない。というか、千影とも顔を合わせるのが居たたまれなくて夜明けとともに家を抜け出してきてしまった。必死に目を閉じても、真横の衣擦れや寝息の音の存在感が気になって仕方がないのだ。


「それはお気の毒に。少し社務所でお休みになられますか?」

「いえ、大丈夫です。すぐ戻ります。でも、こういうのまだ続くのですかね……」


 早朝の境内。澄んだ秋の朝。枯れ葉を掃除しながら、巫女は社の高台から村を見下ろした。


「無理に止めるのは不自然ですし、しばらくは仕方ありません。けれどまあ、お二人のねやを覗こうと思えるくらいには、興味があるのですね。村の者は」


 なにかの揶揄かと思って巫女を見たが、巫女は真面目に続けた。


「夫婦というのは肉体的な繋がりだけではない、とは申しましたが──契りはやはり、一番強い結びなので。神様が自分たちと同じ只人ただびとである明里と結ばれているのは、安心できるものなのですよ。高位の存在に親しみを感じるときとは、自分たちと同じ感覚を持っていると分かることですから」

「それにしても、ひどいです」


 不満げな明里に、また巫女は苦笑した。


「祝言をあげるのは、周りに夫婦と示す、外側の結び。同じ釜の飯を食べるのは身体の中、内側の結び。そして、契りとは、外側と内側──身体と心が繋がるということ。だから強い結びつきなのです。……下世話かもしれませんが、色恋沙汰は使えます。利用したほうがいいです」


 明里は、ため息をついた。言われていることは分かる。そのための仮初めの夫婦だということも。けれど、今だってやっと神様との──千影との距離が測れるようになってきたのに、興味半分、面白半分で台無しにされたくはなかった。


「大丈夫。今はまだそういう好奇の目に晒されてしまうでしょうが、そのうち仲良くするだけでよくなりますよ。興味があるのは知りたいという証でもあるのですから。なにかしら、きっかけがあれば村の中でも、上手くいくはずです」


 拒絶ではなく、興味ならば。巫女の言葉に明里は少し顔をあげた。


「幻神さまも、それが分かっていて、わざわざ演技して見せたのでは? 幻神さまもちゃんと馴染む気があるということですよ」


 そうか、と明里は納得する。一晩中、明里は緊張し通りだったが、千影は普段通り寝入っていたし、あのあと明里に指一本触れなかった。明里を手籠めにしているなんて不名誉を千影は自らかぶっているのだ。それならば、明里も弱音を吐いている場合ではない。


「ありがとう、巫女さま。相談に乗って頂いてすっきりしました。正直、これからひとつ寝するのは困っていたのですが、千影さまは手籠めになんてしないって誤解が解けるよう頑張ります」


 決意を新たにする明里を見て、巫女は一瞬不安そうにした。


「……それはそれで、なにか危うい気がしますが、まあ、大丈夫でしょう」とよく分からない独り言を最後にこぼしていた。

 


***



「詐欺のような娘だ」


 いきなり何の話かと、清治は顔をあげた。秋の晴れた日、神様と村娘の祝言から三日後。村の男たちは総出で稲刈りを行う。千影もそれに参加していた。他の者は遠慮していたが、“千冬”のガワをかぶっていたときから、この神様は土いじりが好きだった。誘いに来た清治に二つ返事で了承した。黄金に広がる稲を、鎌で刈り取る。水干にたすきをかけて、ざくざく鎌を使う姿は板についていた。「稲刈りうまいなカミサマ」「神事でも行うからな」と軽口を叩いていたら、唐突に話が飛んだ。


「あの娘、隙だらけなのに手を出すと跳ね返りを食う。もはや、なにかの罠なのではないと」


 何の話かは分からないが、誰の話かは分かった。寄合所で酒に酔った者たちが、ふたりの閨を覗きに行っていることは無論清治の耳にも入っている。それは度胸試しのようになっていて、飽きもせず、未だに続いていた。


「明里のことか? もう村中評判だぞ。カミサマがご寵愛ちょうあいのあまり、毎晩手籠めにしているーって面白おかしく広まってたけど」


 嫌がる明里に無体を敷いたとか、明里の声が枯れるくらい行為に及んでいたとか。あられもない明里を見ようとしたものが目を潰されかけたとか。


「……そんなわけないだろ、神殺しの言霊があるのに」

「じゃあなにがあったんだよ。罠って?」


 稲刈りしている村人に聞こえないよう清治が声を潜める。千影はむす、と不貞腐れた。


「村の者が興味本位で覗くのは分かる。明里が睦言むつごとに不慣れなことも理解できた。そこまではいい。俺が一芝居、打てばよいだけだからな」


 第一、交わりを晒す趣味もない、と千影は言い捨てて、左手に持った稲株いなかぶをざっくりと一太刀で刈り取る。なんだか普段より荒っぽかったが、稲穂を痛めていないのは不思議だった。


「けれど、昨晩は“私も頑張ります”と言って、寝所で三つ指ついていたのだぞ。さすがに困惑した。──……いいのかと、思うだろう普通。それなのに、村の者を追い払ったあとは、くうくう寝入るんだ。最初の晩は緊張していたようだから、寝たふりしてやったのに、いきなり安心して寝だすのはどういう心境の変化だ? さっぱり分からない」


 清治なら分かるか? お前ならどうする? と、大真面目に相談されて、清治は言葉に迷った。その状況は、神様でなくとも、健全な男子であるならおおいに勘違いするところである。むしろ、手を出していない(出せないの間違いだが)精神力に感服する。


「いや、それは……俺にも分からないかも」


 千影は長いため息をついた。清治は神様に初めて同情した。


「けれど、下手に手を出すと跳ね返りが来る。思えば最初からそうだ。明里の望む声に引かれて顕現すれば、遺灰を持っているは。明里の望む姿になれば、目も合わせないは。儀式を受け入れたのかと思えば、写し身を破壊されるは。しまいには神殺しだぞ。そんな贄いるか?」


 並べられてると、確かに踏んだり蹴ったりである。愚痴が止まらない神様に清治は言葉を挟む暇がなかった。


「もう罠としか思えない。俺の心をもてあそんで楽しいのだろうか」


 心、か。清治はくすりと笑ってしまった。閨を覗くよりよっぽど、村に馴染めそうな愚痴ではあるが、聞かせられないのが残念だ。というか、いろいろダダ洩れだけれど、隠す気はないのか。この神様。


「カミサマも大変だな」

「まったくだ」


 土を踏む気配がして、二人はいったん、言葉を止めた。稲刈りをしていた別の男が、おずおずと声をかけてきた。


「あ、幻神さ……清治、明里が幻神さまのこと呼んでいるぞ」

 

 男は一度、千影に声をかけようとして、清治に言い直す。闇夜にまぎれて閨を覗くことは可能なのに、真昼中、直接声をかけるのははばかるらしい。興味もなさそうに、千影は顔をあげた。土手の上にいる明里は、千影と目があった瞬間。ぱ、と顔を綻ばせた。千影はもう一度ため息つく。噂をすればなんとやら。


「──……だというのに、あの顔を見たら、すべて許してしまいたくなる。本当に、恐ろしい娘だ」


 独り言のように呟いて、千影はその場から去る。残された男は首を傾げたが、清治は「ただの惚気だよ」と笑った。




「あ、千影さま。作業中、申し訳ありません。稲刈りなら一日がかりかと思って、お弁当持ってきました。清治の分もあるので、渡してもらえますか?」


 いつかのお礼に、と明里は差し出す。社の高台で、棚田を見ながら食べた清治からの握り飯を明里は覚えていたらしい。


「ああ、助かる。ありがとう」


 はい、とにっこり明里は笑う。その手の籠にはたくさんの栗が入っていた。


「村長が千影さまに吉日を選んでいただいたお礼にと、先ほど頂きました。稲刈りによい日を決めてくださったと、喜んでいました。直接、言えばいいのにって言ったのですが」 


 秋の稲刈りは、その日のうちに刈った稲を干さねばならない。だから、雨の降らない晴れの日に行われる。神様がわざわざ決めなくとも、だいたい天候で分かるものだが、千影のほうが風や雲の流れは掴みやすいし、なにより神様が決めた日はそれだけで村の気運が上がった。


「別に構わない。お前に礼を言づけたなら同じことだからな。配偶者とは、夫婦とは、そういうものなのだろう?」

「……はい、そうですね。あの、たくさんもらったので、ご近所さんに分けてもいいですか? 祝いの品のお返しに、ふきにも」


 任せる、と千影が頷く。


「残った分は一緒に食べましょうね。蒸しても焼いても美味しいと思いますので。千影さま、栗は好きですか?」


 何の気なしに明里は問う。この娘はいちいち「好きか」どうか、尋ねてくる。それにどれだけ千影が心を揺すぶられているかなんて、気づかないまま。写し身ではなく、ガワではなく、“千影本人”の好きなものを見つけては嬉しそうにする。そんな、どうでもいいことを、大切にする。やっぱり、心臓を握られているのは自分なのではないかと、千影は思った。


「……おそらく、好きだと、思う。お前が作ったものなら、なんでも」


 するりと、千影はその髪に触れた。籠を抱えた明里が無防備に、千影を見上げる。祝言を上げてからか、共に住まうようになってからか、明里は千影が間合いに入っても、強張ることがなくなった。言葉ではない、行動に表れるそういう“隙”や“無防備さ”が伝わるたびに、つい、千影は手を伸ばしかける。分かっていても、その罠に落ちかける。


「今日は夕暮れまでかかるから、帰るのを楽しみにしている」


 その頬に触れ、その顔に影を落として──……


「明里ちゃん! やっぱり、手籠めにされてるじゃない!」


 ふきの声が割り込んできた。二回目は、さすがにどうかと思った。

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