第4話 水影
それから明里は一層塞ぎ込んでしまった。夕暮れの散策にも行かず、ひたすら千冬を還してほしいという願いを抱いた自分を責めた。外に出てあの千冬の幻に会うことをなによりも恐れた。
「明里、少しはなにか食べないと。村長からたくさん米も魚も届いているのに」
「いらない。そんな供物みたいな食べ物。食べたくない」
ふるふると頭を振って寝間にこもる。
明里の世話をしながら、巫女は息をついた。祭壇のように祀られた食事は確かに供物そのものだった。その中から瓜を選び、水につけて冷やす。少しでも食べやすいものを選んだが、果たして口に運んでくれるだろうか。
(
十二柱の伴侶の習わしは神職に就く者には必須の知識だった。もちろん今年がその年に当たるのも知っていた。まさか本当にこの村から選ばれるとは思わなかったが。
表向きはあらゆる土地から区別なく贄が選ばれると教えられていたが、その実は偏りがある。都のように民が集まり、娯楽が発展していれば当然、芸事に秀でた
この村はどちらでもない。この國では平凡な川沿いにある集落のひとつ。栄えてもいなければ、飢えて死人が出るほどでもない。村人が食うだけの蓄えがある小さな農村。だから、五穀豊穣と関わり深い幻神が現れるのもある程度予想できた。獣や異形の姿を取る神の性質によっては贄が拒否する場合もあったが、幻神は贄の望む姿で現れるため比較的滞りなく、贄の儀式は行われてきた。だというのに。
幼い頃に両親を流行り病で亡くした明里は、同じ寄合の千冬の家によく世話になっていた。明里は内気な性格だったが、二つ年上の千冬にはよく懐いていて、村長から許嫁にと決まった際には社で祝言を挙げられると嬉しそうに報告していたと宮司から聞いた。子宝に恵まれず、遅くに一人息子を授かった千冬の母も、明里の嫁入りを歓迎した。あの水害さえなければ万事うまくいくはずだった。その明里に今回の贄の話はいささか酷であると巫女ですら思う。
(かといって、どうしたものですかね‥‥)
社から言いつかった巫女の役割はもちろん、贄となる明里の世話。そして神の伴侶を受け入れる説得である。巫女は頭を抱えた。
時期はもうすぐ
──もちろん、一度決まった贄を選び直すことは神様にもできない。
ぽつり、と雨粒が地面に染み込んだ。あっという間に辺りは激しい土砂降りになる。農作業をしていた村人たちが慌てて作業を中断し、軒下や大木に雨宿りをする。
「おーい、カミサマ。雨だぞー休憩にしよう」
破れた番傘を掲げて
「何故だ、清治。今日はこの一面を終わらすと言っただろう」
「あのねーカミサマと違って普通の農民はそんな頑丈じゃねーの。雨に打たれて風邪をひいたらどうする」
この程度の雨では水害とは言わんぞ、とぐだぐだ言う“千冬”の腕を引っ張って強引にクスノキの下に連れて行く。村一番の大木とあって、雨は凌げそうだ。
ずぶ濡れの“千冬”の頭をわしゃわしゃと手ぬぐいで拭ってやる。神様に対していささか不敬なのかもしれないが、いくら村に馴染んできたといっても、相手が相手なので打ち解ける者は少ない。自然と清治が“千冬”のお目付役になってしまった。
「というか、ずぶ濡れじゃねーか。カミサマでも風邪ひくのか? 明里が最初に会ったときは、ひと雫も雨に濡れていなかったとか言ってたが」
まるで、あやかしのようだった、と苦々しく言っていたのはもちろん伏せておく。されるがまま拭われていた“千冬”は何故か得意気に言った。
「それはまだ身体がこの男の姿に馴染んでいなかったからだ。
「なら、もっと気を遣えよ‥‥」
威張って言うことか。よく分からない自慢を繰り返す神様は自身が“千冬という人間”に近づくのが嬉しいようだった。姿形は千冬なのに決定的に中身が違う違和感。どうも情緒が育たない赤子のようだ。無垢といえば聞こえがいいが、まるで世間知らずもいいところだ。
「カミサマって長生きなんだろ? なんでそんなに無知なんだ」
敬わなければならないと分かっていても、ぶしつけな態度になってしまうのはその顔のせいか。気分を害した様子もなく、淡々と“千冬”は言った。
「今までは贄を娶ったらすぐに天界に行っていたからな。いくら話に聞いたとて、お前は都の
「下々の者で悪かったな」
「? 何も悪くはない。
話していたら口寂しくなったのか、懐から瓢箪を取り出して、神主から献上された神酒を堂々とあおる。清治のような農民が酒を呑める機会はせいぜい祭事か正月くらいだ。なるほど下々の者の気持ちは本当に分からないらしい。遠慮なく一滴残らず飲み干して、満足げに袖で拭った。
「こんなに下界にいたのは初めてだ。俺も長くこの村にいて分かった。畑仕事は大変なものだな」
「‥‥じゃあ、明里がせっかく摘んできた露草を投げ捨てたのは、明里の気持ちを無視した行為だと理解できたか?」
なんだがむかむかしてきて、この前の失態をこっそりと忠告する。このカミサマに悪気ないと分かっていても、その姿で明里にあんな台詞を吐くのはあまりにも酷い。きょとんと“千冬”は目を瞬かせた。
「そうか。そういうことか。なるほど頭がいいな清治」
合点が行ったと急に身を乗り出されたので、清治はぎょっとした。普段は感情の色が映らない眼が反射した水面のようにきらきらと輝いていた。
「自分の労働をばかにされたから怒ったのか」
……いや、それはなにか違う気がする。
「それなら分かる。俺も明里のために苦心してこの男に似せる努力をしているというのに、明里はまだ不満らしい。悲しいことだ」
清治は言葉に迷う。どう正せばよいのやら。“千冬”が小首をかしげる。
「それで?」
「‥‥ん?」
「“千冬”なら、いったいどうするのが正解だったんだ? どうすれば、明里は喜ぶ?」
迷いなく、澄んだ瞳が清治を映す。明里が受け入れてくれていると信じ切った目。清治は目をそらして頭をかいた。
「‥‥千冬なら、ちゃんと自分で、露草を摘んで渡すんじゃねーかな。カミサマの幻術? とかそういうのじゃなくて、一人の人間ができる範囲のことをしてやるんじゃないか」
明里が体調を崩したときに、明里が好きだった露草を朝一番に摘みに行った面倒見のいい青年を思い出す。その世話焼きの青年と同じカタチをした幻は、同じ笑顔で微笑んだ。
「そうか。礼を言う。清治。しばし外す」
「あ、ばか。まだ降って‥‥!」
せっかく雨粒を拭ってやったというのに、千冬の幻はどしゃ降りの中、駆け出して行ってしまった。視界も霞む夏の夕立。すぐに見えなくなった千冬の蜃気楼。彼の行為をなぞったところで明里が喜ぶはずがないと分かっていても清治には止められなかった。
‥‥‥
‥‥‥‥。
ひどい雨音で気が滅入る。
頭が痛い。悩みすぎて、寝不足だ。心労も相まってうつらうつら、と明里は微睡む。巫女は外出しているようだ。監視役の彼女でも、いないとなんだか不安になる。もともと雨の日は体調を崩しやすい。両親を亡くしたときを思い出して、むずがって泣いていた明里を千冬はいつも慰めてくれた。その千冬すらもういない。その事実が悲しい。哀しくてたまらない。自分にはもう頼る相手がいない。寂しさのあまり、瞼からあふれた涙を誰かか拭った。
──明里、眠っているのか? 具合が悪いのか?
──おまえが好きな露草を摘んできたぞ。
「‥‥ち、ふゆ?」
優しい手が、額をなぞる。いつかの千冬と過ごした日々を思い出す。泥だらけの手元にはたくさんの露草の花。微睡む明里を見て、千冬は目を細めた。明里はその日、懐かしい白昼夢を見た。
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