第10話 浸水
「ひとつ、条件がある」
微睡みの中で声がした。
その声色は記憶の中の懐かしい彼と同じ声だというのに、不思議と明里にはそれが千冬ではないと理解していた。
「アレを俺の神域に入れたら、そのときは──」
感情の籠らない声、というより音のような囁やき。風に揺られる木々のざわめきにまぎれて最後まで聞こえることはなかった。
じりじり。目が覚めると同時につんざくような蝉の声。目が眩むほどの日差しと、茹だるような暑さ。格子から覗く空は雲ひとつない晴天だった。嵐は一晩で村を通り過ぎたらしい。なにごともなかったかのように、夏日に戻っている。家の中には何も異常はない。村からの緊急の連絡もない。たいした被害はないようで、明里は安堵の息をつく。
意識がはっきりしてくると家の外から話し声が聞こえてきた。
聞き覚えのある声は、なにか重苦しい雰囲気をまとっている。おそるおそる戸口に出ると、巫女と“千冬”が話し込んでいた。
「‥‥巫女さま?」
明里が顔を出すと、巫女は顔を強張らせて口をつぐんだ。変わりに、“千冬”はいつものように、にっこりと明里に微笑みかけた。
「なんだ、まだ寝ていたのか明里。日はとうに登っているぞ」
その手にはいつもの村からの供物。立派な魚と米。神酒まである。今日はずいぶん豪華だ。──と、いうか、何故当然のようにいるのか。
「幻神さま‥‥? なにしてるんですか?」
「? 今更何を言っている。朝餉を取りに来たのだが」
「昨晩は来なかったじゃないですか‥‥」
自分で言った台詞に、自分で違和感を覚える。──来なかった? 本当に?
“千冬”はまるで世間話をするような気軽さで答えた。
「ああ、村長に捕まってな。
棚機。ぎくりと明里は強張る。棚機に明里が嫁ぐことを聞いているのか。当然といえば当然だが、その表情も態度もいつもとなんら変わらない。
根本的な疑問。この神様はおそらく、明里のことを好いているとかそういうわけではないのだ。たまたま贄に選んだだけ。儀式が滞りなく済めば神様にとって都合がいいだけ。
居た堪れなくなって、黙ったままの巫女に声をかけた。
「‥‥今、朝餉を作ります。巫女さまも、召し上がっていかれますか?」
「‥‥いえ、私はこれで。宮司からの神酒を届けに来ただけですので」
巫女は事務的に告げて、明里に頭を下げた。
「明里、明日の早朝お迎えに上がります。そのあとは社で準備致しますのでそのおつもりで」
「‥‥」
輿入れの準備。明日の棚機には明里はこの神様に嫁ぐのか。冗談みたいな話だ。なんだかまるで現実味はなく、他人事のように聞こえた。
囲炉裏に火をつけて、鮎を焼く。今日は貴重な塩まであったので味付けできた。焼いている間に酒を杯に注いで“千冬”に手渡す。
「ありがとう。たまには、明里も飲んだらどうだ?」
「え、いや私は‥‥」
有無を言わせず、“千冬”も明里に酒を注ぎ返した。杯を持ったまま途方に暮れる。反応を窺っても、にっこりと微笑まれるばかりで、明里はため息をつき、一口だけ口をつける。酒が好きな質ではなかったがそれでも、村の限られた者しか口にできない品だと理解できた。
「なんだか、祝いの品みたいですね」
「何言ってるんだ。紛うことなき祝いの品だろ。明日は祝言のようなものだ。村からしたらこれほどの祝福もなかなかないぞ」
祝い。祝言。祝福。
言葉がすべて上滑りしていく。確かに祝い事には違いない。明里だけを置いてけぼりにした、この村のための祝い事。
「‥‥あなたは、私というよりこの村と祝言をあげるようなものですね」
“千冬”は笑った。
「そうだよ。神とは土地に根付くもの。だから俺はお前を含めた、この土地すべてに恩寵を与える──お前を含めた、すべてを幸せにする」
その言葉は嘘偽りないもので、尊いものに違いない。けれど、明里は薄暗い気持ちになる。
一年前を思い出す。一年前も明里は祝言を待っていた。この顔の、この声の彼と。ずっと夫婦になるのを待ち焦がれていた。村人も、親戚の従姉妹も、ささやかながら、祝福してくれた。表面上は何も変わらないはずなのに、決定的になにかが違う。千冬のマガイモノに輿入れする強烈な違和感。それだけが明里の心に影を落として、拭いきれない。千冬に対する冒涜のような気がして、どうしても心苦しい。
(いっそ、全然別の違う姿のヒトであったら──‥‥)
とりとめのない考えが答えを出す前に、ふっつりと、胸元に違和感が走った。
「どうかしたのか? 明里」
「いえ、ちょっと」
明里は襟元を押さえて、幻神に背を向ける。
(また組み紐が切れてる‥‥)
首から繋いだはずの麻袋の紐がまたちぎれていた。新しい組み紐を編み直したほうがいいかもしれない。最近は考えることに疲れて、なにかを見過ごしがちになる。懐にしまい直すと、少し気持ちが持ち直した。
ぱちぱちと火の粉が跳ねて明里は向き直る。心ここにあらずだったせいか、とっくに鮎が焼けている。ゆらゆら揺れる囲炉裏の焚き火。──火。燭台。そうだ。
「あの、幻神さま、昨日の嵐って‥‥」
「災厄ではないぞ。ちゃんと忠告したじゃないか。雨に怯えていたようだから、教えてやったのに聞いてなかったのか?」
こちらの考えなどお見通しなのか、興味もない、とばかりにあっさりと答える。
「お前も村の者も、どうしても俺を祟り神にしたいらしいな」
「‥‥すみません」
からからと笑って、幻神はぐいっと神酒をあおる。明里がまだ一杯も飲み干していないのに、いつの間にか瓶子は空になっていた。まるで
(──‥‥でも、だったらあの夢はなんだったんだろう)
千冬の夢を見た。優しく抱かれる夢。でも夢でないなら、思い当たるのはこの神様しかいない。腕を抱く手は温かく心地が良かった。まるで、本当の人肌のようなぬくもりで、闇夜に呑まれそうな明里をずっと慰め続けていた。
「幻神さま‥‥本当に、昨夜‥‥」
「うん?」
目があって、明里は口ごもる。あのとき明里は完全に理性をなくして、恋しい気持ちを吐き出した。けれど、もし千冬の幻に泣きついていたのだとしたら、考えたくもない所業だ。幻神は何も言わず明里の言葉を待っていた。明里は目をそらした。事実を確かめて何になるのか。仮に神様だったとしたら、本物の千冬を裏切ったことになる。だったら、夢の中の千冬だったと信じていたい。
「‥‥なんでもありません。夕餉もお待ちしております」
明里は手をついて頭を下げた。幻神は目を丸くして、本気で驚いたようだった。
「殊勝な態度だな。覚悟は決まったのか」
「いえ、自分の立場を思い知っただけなので」
いくら受け入れがたくとも、神様にすら見捨てられたら村もおしまいだ。あの嵐が災厄でなくとも、思い知るのは充分だった。明里にできることはもはや、黙って気持ちを飲み込むだけ。それでも千冬のためにできることは、まだある。
(私にできるのは、千冬が守った村を私も守ることだけだ)
頭を下げた明里は、幻神が無感情な瞳で見つめていることに気が付かなかった。
一晩で通り過ぎていった嵐に、村人は片付けに追われていた。古い納屋や枯れ木は多少崩れて散乱したが、作物にも稲穂にもたいした被害はなく、ほどなく村人は棚機の祭事の準備に戻っていった。安寧と恩恵が約束される神と村の娘の婚姻。年役たちは喜び、村娘たちは着飾り、男たちは早くも祝杯をあげた。
──ただ、ひとつ。なにかあったとするならば。あの晩落ちた雷で村一番の大木が、真っ二つに割れた。あのクスノキは村が集落になる前からある、この土地の神木だった。人々の憩いの場であり、村の守りとして大事にされていた大木だった。普段なら大騒ぎするはずの出来事にも、村人は一様に祭事に浮かれていて誰一人、目に止めるものはいなかった。まるで、最初からそこに神木などなかったかのように、誰も異変に気が付かなかった。
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