第31話 日陰
「それで、カミサ‥‥千影、あと一軒、獣除けしてほしい家があるんだけど、いい?」
「かまわないが、畑ではなく民家をか?」
「それが軒先に干してた柿を食いに獣が出ちまったらしくて。……
清治は窺うように、千影を見た。
千影はただ、ああ、とだけ言って頷いた。
「どーも。どーも。幻神さま。獣が家を荒らしやがって本当に参ってました。いやあ本当に助かった」
宗吾の民家は裏山近くにあり、家の周りには猪や鹿の足跡が確かにしっかりと残されていた。清治と共に千影が出向くと、宗吾は一瞬怯えた様子を見せた。明里に名指しされたのが効いていたのか、しばらく様子を窺っていたが、千影が目くらましをかけたのを見届けて、へらへらとおべっかを使ってくる。
「礼はいい。一か所でも目くらましが破られれば、村全体に及んでしまう。けれど、家の外の残飯は片づけておけよ。これでは、荒らされて当然だろう」
はあ、すみません、と狐目をさらに細くさせて、宗吾はだらしなく笑う。そんな宗吾の家の中から、もう一人、猫目の気の強そうな娘が出てくる。
「……なんだ、心配してたけど、幻神さま、わりと話が分かるじゃないの。せっかくならウチも見てくれないかしら?」
宗吾と仲のいい、同じ手合の若い娘である
「皆、農作業中だというのに、また昼間から飲んでるのかお前ら」
「人聞き悪いこと言うなよ清治、ちょっと喉が渇いただけじゃねえか。なあ
宗吾と梅は、にやにやして、小ばかにしたように清治を笑う。
「清治は真面目だからねえ。幻神さまはどうです? お礼にご馳走しますよ。なんなら、夜にでも。あたしは一人住まいで寂しいので、いつでも来てくださいな」
男好きな梅は、気安く千影の衣を引く。面白がっているのか、ご機嫌とりなのかは分からないが、千影はあっさりと衣を振り払った。
「有り難いが、これが終わったら明里を迎えに行かねばならない」
明里の名前を聞き、二人は一瞬静まり返った。
「明里………明里が、どうかしたんで?」
探るように宗吾が問いかける。明里から告げ口されていないか、気になっていたのだろう。千影は平然と答えた。
「今朝、怒らせて、従姉妹の家に逃げられてしまった。朝から飯抜きにされている」
ええ? と梅は笑った。
「……かわいそ、神様をほっとくなんて。なんで、そんな怒らせたんです?」
「たいした話ではない。俺が今朝、少し調子に乗って、怒らせただけだ」
思いのほか簡単に口を割る千影に、二人はだんだん踏み込んでくる。清治は止めるべきか迷ったが、千影は特に気分を害してもいなさそうだった。
「……それって、村のもんが閨を覗いていたことと、関係あります?」
「いいや? 俺は閨を覗かれていたことについては、興味もない」
その一言で宗吾と梅は大業に息をついた。
「なぁんだ、じゃあやっぱり明里のはったりかあ。覗いていた奴を幻神さまに言いつけてやるなんて、虎の威を借るような真似しやがって」
「神様に見初められたからって調子に乗ってたんだよ。やたら目が怖かったけど、やっぱりただの見間違いだったんだねえ。ああよかった」
千影はそこで初めて、ぴくりと眉を動かした。
「目?」
「いや、なんかこの前、お二人が喧嘩したときあったじゃないですか。その時、明里を怒らせちまって、なんか蛇みてえな目に見えたんですよ、それが恐ろしくて恐ろしくてたまらんかったんです」
安堵のあまり、宗吾は口を滑らした。
あ、と清治は息を呑み、千影はふうん、と頷いた。
「‥‥まあ、俺と夫婦になったのだから、そういうこともあろう。夫婦の結び、
一瞬だけ、獲物を狙うように鎌首をもたげた神様を見て、清治と宗吾、梅はぞわ、と悪寒を走らせたが、千影はゆったりと微笑んだ。
「なに、気にすることはない。実害はない。今朝の仲違いは、閨を覗かれていたとは別の事情だ。それに俺の神気が移ろうと、明里の性根は普通の人間。ごく平凡な大人しい娘だ。あの娘、ちっとも恐ろしくはないだろ?」
笑みを浮かべ、同意を求める千影に、宗吾は押されつつも頷いた。
「は、はあ」
「明里は臆病な質だから、なにもできやしない」
「‥‥まあ、確かに」
明里はもともと若者衆の中では、人付き合いが得意なほうではなく、下に見られることも多かった。
昔は、傍から見れば、千冬について回るしか能のない娘。
今は、事情を知らないものから見れば、神様に手籠めにされて、言いなりになっている娘。
そんな明里が少しばかり粋がったところで、簡単に印象は変わらない。
なので、うっかり、宗吾と梅は声を潜めて笑ってしまった。それを見て、千影は一層笑みを深くした。
「──だから、俺が代わりに明里の邪魔になる者は、消してやると言っているのに、それすら願ってくれないんだ」
へ、と宗吾と梅は間抜けな声を出した。
「俺はあの娘に入れ込んでしまったから、明里を怒らす者、悲しませる者は容赦できそうにないんだよ」
にこにこと笑いながら、千影は宗吾に距離を詰めた。間合いに、入った。
「けれど、明里は晒し者にされようが、大切な千冬の遺品をないがしろにされようが、頑なに誰が邪魔とは、村を潰せとは、俺に言わなかった。それは“人を傷つけたくない”、“殺したくない”という、とても平凡で、尊い良識が明里にはあるからだ。その当たり前の良識を育んだのはこの村、この共同体。どんなに義理や義務であろうと、あの娘を見下そうと、手を差し伸べた人間はいたということだ」
そういう経験がなければ、明里はとっとと神様に頼んで村に復讐していたに違いない。そうしないのは、労わられた過去が、優しくされた経験があるからだ。
「だったら、この村もまだ守る価値はある。千冬が明里を見捨てなかった優しさを、明里の人を傷つけたくないという気持ちを、俺も大事にしたい。だから、明里がその心を失くさない限り、俺はお前たち、村の者に、おいそれとは手を出さない」
神様は、そこで一気に無表情になった。
「……──というのが、神としての矜持ではあるが。ところで、夫として、伴侶として、個人的に気になるな。明里の目が
宗吾と梅は、青ざめて何も言わない。
いい機会か、と清治は口を挟んだ。
「神様がねちっこそうで大変そう、とか。夜の具合がそんなにいいのか、とか、閨でうまくご奉仕できなかったのか、とか? 下世話なこと言ってたよな」
「せ、清治!」
宗吾が慌てた。清治はため息をついた。
「少し調子に乗りすぎだぞ。いい機会だから改めろよ。神様の妻だから、とかじゃなくてさ、普通に失礼だぞ」
清治もまた、じろりと二人を睨んだ。
「……そうやって見下せる相手はとことん馬鹿にしやがって。千冬にも、そうやって負い目につけこんで、やらせる必要のない畑仕事をさせていただろ」
反論を失くして宗吾は神様を見た。千影は優しく微笑んだ。千冬と同じその笑みに宗吾が一瞬、気を抜いた瞬間──千影はぐいっと、胸ぐらを掴み。
「ふざけるなよ」
大きく拳を振りかぶり、ばこ、と思いっきり、宗吾を殴り飛ばした。
ぐえ、と潰れた蛙のような声を出して吹っ飛んだ宗吾を見て、梅はひ、と怯え、さすがの清治もぽかんとした。
「い、いま、手出しはしないって。言ったじゃない!」
梅が金切り声をあげる。千影は肩を回しながら、「そのつもりだったんだがなあ」と呟いた。
「俺も最初は、同じ土地から生まれ出るものは大差ないと思っていたのだが、ずいぶん複雑で、個体差があるらしいと、最近分かった。であるなら、俺が個々を贔屓していい理由にもなる。贄の明里、友の清治、
千影は、目を回している宗吾の襟を再び掴み上げた。
「だが、困ったことに、贔屓する者ができたなら、そうできない者も同時に生まれてしまった」
噛みしめるように、千影は「宗吾、梅」と名前を口に出した。二人は肩を跳ね上げさせた。
「俺の器の元になった千冬を侮り、贄の明里を見下す者たちを俺が許す理由は? そんな連中を贔屓する理由なんてあるか?」
「俺はまだ人の世にも、人の
ひい、と宗吾と梅は悲鳴を上げ、清治はあちゃーと額を抑えた。
「……一応、止めるけど千影。あんまり、やりすぎるなよ。村まで滅ぼさないでくれな」
「無論、手加減している。災厄は起こさない。神力も使っていない。ひと一人分の力に調整している」
なら、まあいいか、と清治は肩をすくめた。それならばまあ、売られた喧嘩を千影が買っただけに過ぎない。煽ったのは清治でもあるし、機嫌の悪い神様にできれば触りたくはないので。
清治は脇で震えている梅に、こっそり声をかけた。
「梅も、これ以上怒りを買いたくないなら、さっさと明里を呼んできたほうが身のためだぞ?」
***
「やっと終わった。結構、時間かかっちゃった」
ふう、と明里は川で洗った洗濯物を絞り、樽に入れる。
従姉妹の家の八人分なので量が多かったが、家事は嫌いではないし、なにも考えず作業に没頭できたのはよかった。集中していたおかげで気持ちも落ち着いた。朝餉も作らず出てきてしまったけれど、千影はなにか食べたのだろうか。洗濯物を干したら、一度様子を見に帰ろうかと、明里は腰をあげると。
「い、いた! 明里、ちょっと来て!」
梅が勢いよく明里の肩に掴みかかってきた。
「な、なに? 梅、私今洗濯物が」
「そんなのどうでもいいから! 幻神さまをどうにかして!」
ぎくり、と明里は肩を震わせる。まさか、村の年役がまた千影に手を出したのだろうか。不安になる明里をよそに、梅は叫んだ。
「あんたの旦那、あんたを馬鹿にしたからって宗吾をボコりまくってるんだよ! あたしも殺されちゃう!」
「…………へ?」
いったいなにがあったら、そうなるのか?
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