第32話 人影

 明里が宗吾そうごの家にたどり着くころには、結構な騒ぎになっていた。


 宗吾そうごの家をぐるりと若者衆が取り囲み、宗吾に掴みかかっている千影にやれ「宗吾はだらしないな」やれ「幻神さまおっかない」だとか遠巻きにヤジを飛ばす。血気盛んな若者たちにとって喧嘩もまた、共通の娯楽だった。梅から事情を聞いたときは信じられなかったが、状況は聞いたままだ。ほとんどやられっぱなしの宗吾であったが、さすがに面子を潰されて、黙っていられなくなったのか。千影の胸ぐらを掴んで叫んだ。


「さ、先に明里を軽んじたのは、そっちだろ!」


 それまで宗吾の反撃にも涼しい顔をしていた千影は、ぴたり、とその一言で動きを止めた。


「贄だからって自分勝手に選んで、身投げまでさせて。無理に祝言まで挙げさせた。全部神様の都合だろ! 今なんて手籠めにしてるじゃねえか。オレのこと言えた義理かよっ!」

「……それは」


 思わぬ逆襲に外野は喜び、非難の声をあげる。「そうだそうだ」と大合唱が始まる。明里は青ざめた。千影は反論しなかった。身投げも強引な祝言も誤解であるのに、いまだに明里を被害者だと思わせようとしていた。


「ち、違います!」


 その場の者が、ぎょっとして明里を見る。地を蹴り、たくさんの視線からかばうように千影の前に立つ。


「私、手籠めになんてされてません! 最初は確かに怖かったけど、千影さまは私のこと理解してくれようとしてくれました。私が川に落ちた時だって千影さまが助けてくれました! 千影さまはすごく誤解されやすいけど、優しい人です! だ、だから。その! わ、私と千影さまは、」


 なんといえばいいのか。とにかく場を治めないと。このままでは若者衆が皆、千影の敵になってしまう。


「…………ご、ご合意の上、です」


 はあ!? と宗吾はわめいた。うぅ、と口ごもる明里を見て、さらに頭に血を上らせた。


「どうせ言わされてるんだろ! 囲われ者が! すっこんでろ!」

「違います。ちゃんと合意の上です、全然無理してないです」


 必死なあまりに明里は涙目になる。苛立った宗吾が「どけ」と明里を押しのけたのを見て、千影は目の色を変えた。


「俺の妻に触れるな! 無礼者が!」


 ばこ、と宗吾が勢いよく吹っ飛んで、地にめり込み気絶した。肩をいからせた千影が宗吾に歩み寄っていくので、明里は慌ててその腕を掴んだ。


「ち、千影さま、もういいです。もう充分です」

「そうは言うが、こいつ、痛い目見ないと分からない輩だぞ!」


 清治も近寄って、千影を押しとどめた。


「はいはい、千影。気持ちは分かるけど、もうやめとけ。若者衆が皆引いてる」


 吹っ飛んだ宗吾を見てさすがに、周りは押し黙った。じろりと千影は取り囲んでいる若者衆を睨みつけ。


「……だったら、なんだというのか。ねやを覗いていたのも、明里を軽んじたのもまさか宗吾そうごうめだけではあるまい? 何故、自分たちは関係ないと思えるのか」


 若者衆は一層静まり返る。晒し者が今は宗吾に移っただけで、つるし上げるネタさえあれば、また明里と千影は標的にされるだろう。その軽薄さに千影は怒っていた。神様の怒りが向けられたその場の者は硬直し、明里が戸惑っていると。ざ、と地を踏む音がした。

 

「──幻神さま、若者衆の無礼はわたしがお詫びいたします。あんたたち、畑仕事をさぼって、なに見物してるんだい」


 遅れてやってきた背の高い、そばかすだらけの娘が、輪の中に割って入った。女衆のまとめ役、にしきだった。


「……なんだ、お前は」

「おや? 明里に名指しされた二人が幻神さまのお怒りを買ってるっていうんで、わたしも命乞いに自ら出てきてみたのですが。話が違うんですかね?」


 その場の女たちは一気ににしきのほうに流れ、その背に隠れた。錦は呆れたため息をついたあと、千影と明里に頭を下げた。


「……若者衆が面白半分にお二人を扱ったこと、お詫びいたします。──けれど、ひとつだけ。幻神さま、宗吾の言ったことも一理あるんですよ」

 

 千影は怪訝な顔をしたが、錦は明里をじっと見つめた。

 

「明里、合意の上って、それは本当? わたしも、宗吾や梅たちと一緒に閨は確認したけど、無理強いじゃなかった? あんた大人しいから信じられないんだよ。ふきも言ってたけど、いくら好きだからって力づくはよくないよ」


 錦も、明里に名指しされた三人の内の一人であった。女衆の頭役なのに、宗吾や梅ともよく吊るんで、夜這いを覗き見するなんて悪趣味だと思っていたが、錦は他の二人と違い、神様に臆することはなかった。むしろ。


「夜這いだって、たいていはそれとなく知らせておくものだよ。無理強いなら女衆が絶対許さないし。だめだよ。いくら村のためだっていっても、そういう、規律を破るのは、神様だってダメ。ううん、神様だから余計ダメ。村が公然と手籠めを容認しだしたら終わりなんだから。神様がそれを認めてしまったら、誰も何も言えなくなる。この村ではそれが普通になってしまう」


 腕を組み、見定めるように、錦は千影を見た。


「調子に乗った宗吾たちも、村のもんも、悪いけど、幻神さまが手籠めを否定しなかった。明里を公然と手籠めにされてもいいような軽い存在だと示してしまったのは、あなたです」

「……」


 千影は黙る。怒気が失せ、虚を突かれたように、目を瞬かせた。


「明里は本当に大丈夫なの? ほんっとうに合意の上なの?」


 錦は真剣に明里に詰め寄った。狭い村の中の規律を守るために。血気盛んな若者の恋がおかしな方向に行かないように。だから、明里も真剣に答えねばならなくなった。


「……うん。大丈夫。ちゃんと、説明してなくて、ごめんなさい」


 明里は深呼吸して、千影の腕にしがみついた。


「私たちはちゃんと夫婦です。千影さまが馬鹿にされたら私は怒るし。……千影さまも。だから私のために宗吾を怒ってくれたんだと思います。千影さまは私の大事な旦那様だから、ちゃんと認めてほしいです」

「───え、」

「そっか、ならよかった」


 錦は優しく微笑み、その場は、しん、と静まり返り。


 若者衆の女がひとり、呟いた。


「…………明里、幻神さま、顔真っ赤になってるけど」


 明里はぎょっとした。


「え、今照れるんですか!? そこは堂々としていてくださいよ!」

「お前が急にそんなこと言うからだろ! 今朝は逃げたくせに」

「それは、千影さまがいきなりぐいぐい来るから!」

「仕方ないだろ、可愛かったのだから」

 ひぇっ、と明里は飛び上がった。

「な、なんてこというんですか! そんなこと言うの千影さましかいませんよ!」

「当たり前だ。早々いてたまるか。恋敵は千冬だけで充分だ」

「そ、そうじゃなくて!」


 真っ赤になって痴話喧嘩しだす二人を見て、若者衆は言葉を無くし、錦は苦笑し、清治はため息をついた。宗吾の家の影から様子を窺っていた梅は、


「──……あ、あほらし」


 と、あきれ果てた。


***



 そのまま、錦のとりなしで千影と宗吾の乱闘騒ぎはなし崩しに終わり。清治には「よかったな、今日で誤解も解けたと思うぞ。手籠めなんて心配するのが馬鹿らしくなるくらいの痴話喧嘩だった」と褒めてるのか貶しているのか、よく分からないことを言われた。明里は川辺に放置しっぱなしだった洗濯物を取りに戻る。


「それにしたって、なにも神様が喧嘩なんてしなくても。千影さまはお怪我とかしていないんですか?」


 宗吾から何発か反撃されていたはずだが、千影はけろりとしていた。


「俺の身体はそんな簡単に傷はつけられない。人間とは違う」

「そうなんですか」

 

 明里は安堵したが、千影は思い悩んでいる様子だった。


「人間ではないから──神だから、余計な苦労をお前にさせてしまったのだろうか」


 え? と明里は首を傾げた。


「もしかして、錦の言ったこと、気にしてます? 錦はああ言ってましたが、やっぱり村の人ほうがずっと悪いですよ」

「……だが、晒し者にされたのだって、結局はお前が“神の伴侶”だから、物珍しく思われたせいだろう?」


 それは、と明里は戸惑う。それは確かにそうなのだ。もっと言えば、“神様の贄”になったときから、明里は村人の様々な思惑の視線に晒されてきた。疑念も、興味も嘲笑の渦も、ずっとその時から続いている。


「……何も考えていなかった。俺の言動が、周りにどう影響を与えるのか。お前にどんな目が向けられるのか。俺のせいで、お前が苦しんでいたのだとしたら、とてもつらい」


 しょんぼりと肩を下げた千影を見て、明里は困ったように笑った。やっぱり、変なところが無垢で、不器用な人だ。


「……でも、千影さま、私を手籠めにしているって否定しなかったのは、私のこと、守ろうとしてくれてたんですよね」


 棚機たなばたの夜。儀式を台無しにした明里に非難の目がいかないように。明里はあくまで被害者であると。同情を買わせるために。


「やっぱり、千影さまは優しいです。ありがとうございます」


 柔らかく、明里ははにかんだ。千影はじんわりと頬を染めた。


「……やはりもてあそばれている気がする」

「……え?」

「なんでもない。それよりも、家には帰ってきてくれるのだろうな」


 不貞腐れている千影を見て、明里は目を瞬かせ、そのあと「はい」とまた笑った。





「……それで、洗濯物がこんなに遅くなったってわけ」

「ご、ごめんねふき。本当にごめん」

「いーけど、別に。もともとうちのだし、ちゃっかり幻神さまも連れ帰ってきてるし」


 川に放置していた洗濯物を千影と共に洗い直し。従姉妹の家に戻ると昼過ぎになっていた。遊びに外に出ていた蕗の弟二人も戻っていて、蕗の背後から千影を物珍しそうに見る。


「千冬兄ちゃん……? じゃ、ないんだよね」

「ああ、悪いが別人だ」


 思いのほか気楽に千影が返事したので、そうなんだ、と蕗の弟たちは蕗の背後から出て、くるくると千影の周りをまわる。


「ゲンシンサマ? チカゲサマ? どっちなの?」


 十歳と九歳になったばかりの好奇心旺盛な男の子は、普段はおいそれとは近づけない神様に興味津々だった。「幻神さまよ」と蕗が言うと、「変な名前」と笑う。こら、と蕗が弟たちをはたいた。


 千影はふと、膝をつき、二人に目線を合わせた。


「かまわない。──“千影ちかげ”で」


 え、と明里も蕗も声を出した。いみなと違って、『千影』の名前は隠されているわけではなかったが、どことなく、伴侶の明里以外は呼ぶのは憚られていた。蕗も、村人もあえてその名は呼ばなかったのだが。


「いいんですか、千影さま」

「ああ、仰々しくてかなわんからな。幼子には神名なんて、意味も分からんだろう」 


 明里の口調を真似て「ちかげさま?」と蕗の弟たちは面白がる。千影は頬を緩ませた。


「それにせめて、名前から──カタチから、人を真似てみるのも、悪くないかと思ってな」

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