第40話 朝日影

 腕の中で潰えてしまった泣き声をどうにか、また聞きたくて。

 人間はいったいこの生き物になにを与えているのかを、見て回ったことがある。


 産着うぶぎやお乳、玩具、お菓子、祝いの品、言祝ことほぎ。


 様々なものや言葉を与えられていたが、その中でも必ず授けられているものがあった。

 


***


「わたし、千影さまのことが好きです!!」


 こちらを見た千影が、ほんのわずかに微笑んだのを見届けた瞬間に。

 ぐらりと眩暈が起きた。世界が一回転して、明里はその場で意識を失った。


 その後、すぐに明里は巫女に発見されて産屋うぶやに戻り、そのまま寝込んだ。貧血と心労。それと軽い風邪を引いていたようだが、月の障りが明けるころには回復した。みが明け、村中を流れる川で身体を洗い、明里は社の座敷で着替えを済ます。


「お風邪はもう大丈夫でしょうか? 明里までなにかあったら、私はもうどうしたらいいか分かりません」


 巫女が心配して何度も問い詰める。明里は眉を下げた。


「いろいろとごめんなさい、巫女さま。具合は大丈夫です。この前も、千影さまのことで我儘を言ってすみませんでした」

「いいえ、明里の気持ちはごもっともです。私も少し混乱していて判断を急ぎすぎました……こんなことは初めてで」


 千影はいまだに鎮守ちんじゅもりの清流から動けないらしい。忌みが明けるまでは人づてに様子を聞くことしかできず、ずっと気が気ではなかった。


「……現状は、やはりなんとも言えません。明里が会いに行ってすぐ血は止まったのですが、回復もしません。みそぎけがれを落とし続けねばいけないのに、ひどく寒がられて。でも、水から上がって火で温めると穢れがぶり返すのです。困りました」


 明里は痛む胸を押さえた。

 本当はすぐにでも会いに行きたいが、その前にやるべきことがある。


「……お神酒みきも清めの塩も足りないって言ってましたね。そのことなんですが、私から年役としやくの皆さんに直接お願いしたいんです。長老ちょうろうさまにお話を通してもらえませんか? あとにしきにも。お話したいことがあるんです」

 

 「それはかまいませんが」と巫女が心配げに頷くと、同時に「明里、入るぞ」と座敷の襖の外から声がした。


「はあー寒かった。今日は特に冷え込むぞ、そのうち清流が凍りだすんじゃないか」


 清治せいじが手をかじかませながら入ってきた。その鼻の頭も赤らんでいる。


「清治、今日も千影さまのところ、行ってくれたの?」

「うん、そりゃなあ。でも困ったことになったな。千影、ずっと顔色が悪くて心配だよ。ニ、三言会話したらすぐ寝ちまうし」


 明里は表情を暗くした。清治も何度も足を運んでくれているらしいが、やはり状況はかんばしくないらしい。


「本当にどうしよう……私もあとですぐに会いに行ってくる」

「……なあ、その前に一つ聞きたいんだけど。俺は清めとか祓いとかよく分からないんだけどさ、」


 巫女から白湯を出され、ほう、と清治は息をついた。かじかむ手を湯のみで温めながら、首を傾げる。


「血の穢れで傷ついてるのが、千影の神様の部分なら、て水で寒がっているのは、なんじゃないのか?」

 

 明里にも白湯を注いでいた巫女が、ぴたりと手を止めた。

 明里も清治の言葉を反芻して目を瞬かせる。

 ……千影の、人間の部分?


「……幽鬼ゆうきじゃなくて?」

「は? 幽鬼? なんで」


 怪訝な顔をする二人を見て、清治も怪訝な顔をした。


「だって、血を流したんだろ? それはつまり、千影には血が通っているってことなんじゃないのか? そりゃこの気温で水に浸かってたら、しんどいだろ」


 「せめて、お湯とかにしてやれねーの?」と、至極当然のことを言った。


***


「急にお呼び立てして申し訳ありません。さっそくで申し訳ないのですが、皆さんにお願いがあります。どうか千影さまのために、お力を貸して頂きたいのです」


 明里は集まった年役としやくにしきに向かって、頭を下げた。

 社務所の座敷には、富士長老ふじちょうろう牧村長まきそんちょう水縄宮司みずなわぐうじ長者ちょうじゃ枡野ますの、その息子でふきの夫である平太へいた。女役のまとめである錦が円座を組んで座る。

 平太は錦が声をかけたらぜひ自分も行きたいと駆け付けてくれたらしい。


「もう事情はご存じかと思いますが、千影さまのご様子がかんばしくありません。手を尽くして頂いているのは重々承知の上ですが、さらなるご協力をなにとぞ、なにとぞお願いしたいのです」


 千影の代わりに詫びと礼を言う。伴侶である、明里の役目でもある。

 年役たちもむしろ協力的に動いてくれてはいたが、村長は迷うように声をかけた。


「村の赤子をお救い頂いたのだ。無論、手は貸したいところだが、どうするのだ明里。これ以上はこちらも考えあぐねているところだぞ」

「それなのですが、できれば湯殿ゆどのを新しく作って頂きたいのです。常にお湯が沸かせる場所を。今の環境では冷え込みが激しくて、千影さまのお身体によくありません」


 季節はもう十一月末。下手すれば雪が降りだす時期でもある。

 湯殿ゆどのは沐浴や入浴するために小屋。湯槽があれば沸かしたお湯を貯めておくこともできる。

 年役たちは怪訝な顔をしたが、宮司だけは「ああ、」と声を上げた。


「なるほど、湯垢離ゆごり……お湯による禊ですね。確かにそれならば幻神さまもいくらか楽でしょうが。でもこの村に温泉はありませんし……」


 清治と巫女とで話し合った案を伝えると、宮司が顎に手を当てて悩み。


「だから、湯殿なのだろう。簡易的なものなら、作れなくはないが木材も人手もいるな」


 村長も同意してくれた。明里は長者に向き直った。


「そのための工面を長者さまに。できれば、お神酒とお塩もできるだけ、ご用意して頂きたいのです」


 長者は一瞬、む、と顔をしかめたが、平太がすぐに明里の言葉を了承した。


「分かりました、明里さん。湯殿でしたら、必要なものは山から切り崩せましょう。当面のお清めに使う酒、塩の心配もなさらないでください。なんとしてでも、僕がかき集めてまいります。社に僕の家から供物として捧げれば、宮司さんも好きに使えるはずです」

「おい、平太」


 長者は慌てたが、平太は口を挟む隙も与えなかった。


「幻神さまは他でもない僕の子を助けてくださったんです。これくらいは当然です。父さんにとっても孫でしょう? できることはします」


 それに、と平太は言った。


「……このまま幻神さまに万が一の事があれば、我が子は神様を殺して生まれ出た忌み子になる。そういうふうに見られてしまう。我が家は豪農ごうのうと言えど一代の成り上がり。足元をすくいたい者がそれを見逃すはずはない。父さんも商いをしているなら分かるはずだ」

 

 平太は一瞬、二代目である顔を覗かせたが、すぐに父親の表情に戻り。


ふきだって、明里さんに合わせる顔がなくなる。僕は我が子にも妻にも、そんな肩身の狭い思いさせるのは御免だ」


 そうして平太は深々と、額が床につくほど頭を下げた。


「本当にありがとうございました。どうお礼を言えばいいのか分かりません。困ったことがあればなんでもおっしゃってください」

「……平太さん、ありがとうございます。どうかそのお言葉は千影さまに。工面のこと、お願いいたします」


 これで、湯殿については問題はないだろう。やり取りすべてを聞き入っている長老が何も言わないのなら。肯定だと受け取っていいはずだ。明里は、錦のほうに姿勢を正した。


 最後に、まだ懸念があるとするならば。やはり村の中にある。


「──もうひとつ、特に錦に。お願いがあります」


 明里は一度息を大きく吸い込んだ。それを口にするのは勇気が入った。明里だってあの産屋うぶやで確かに嘆きの声を上げたひとりであったし、ふきやその場の女たちの気持ちも痛いほど理解できる。できるからこそ、先に宣言しておかねばならない。


「今回、千影さまは蕗の赤子を助けてくださいましたが……もう、次はないものと思ってください」


 明里はきっぱりと言い切った。


「蕗の子を助けたのも、私が許したからです。今後、もし同じように……赤子を助けて欲しいと言われても、お答えできないと思います」

 

 錦がまっすぐに明里を見つめ返した。

 一度あの奇跡を見てしまえば、もし同じ状況が起きた場合、望まずにはいられないだろう。産声の上がらぬ絶望。よく分かる、分かるからこそ、線は引かねば。


「私は千影さまの伴侶、妻です。千影さまのことを決める権利は私にもあります。誰かを助けて、千影さまが今回のように傷つくなら、許容できません」


 配偶者は、本人の次に本人に関わる重要な立場の示し。繋がり。


 そう仮初めの夫婦を演じると決めた時に巫女に諭された。

 あの円座のときは、千影が隣にいてくれた。

 今は明里ひとり、姿勢を正していた。


 千影がそばにいなくとも、想いはもう、通じている。


「もし、女衆が千影さまにお縋りするようなことがあれば、私が許さないとそう言っておいて、錦。伴侶の私が許さないって。そう、お願い。蕗の子を助けたのも贔屓だって言われたら私の親族だからって言っていいから。恨みなら私が買うから、お願い、お願いします」

 

 後半はただの懇願になってしまった。千影が受ける矢面は明里だって受けられる。千影にばかり血を流させてなるものか。その一心で。

 錦は「分かった。わたしが必ず、そう伝えるよ」と何の謀りもなく真摯に答えたあと、眉を下げた。


「正直女衆の頭としては、明里がそう言ってくれるのは助かるけどさ。でも、千影さんも明里も赤子を助けてくれただけなのに、なんで助けた側が頭を下げるんだろうね。意味わかんないね」


 均一的で、同質的なこの國は──この村の共同体は、異物に対して強烈なはじき出しを行うのと同様に。特別な恩恵を受けた者にも揶揄が向けられる。ずるい、とか、不公平だとか、そういう目が向けられる。


「……気遣ってくれてありがとう錦。でも私、結構自分本位なお願いをしてるんだよ。どんな恨みを買ってでも千影さまを失くしたくないの。千影さま、乞われたらまた助けてしまいそうで。少しでもそういう可能性を無くしたいだけなの」


 明里は俯いて膝の上に置いた手をぎゅ、と握った。その手は震えていた。


「傷つく姿も見たくない。自分のことも、ちゃんと大事にしてほしい」

「明里……」

「──……それに次は、分からないから」


 「次?」と錦が明里を慰めようとした瞬間、ぎくりと強張った。

 無数の蛇の影が、壁に映る。明里の背後に数百匹。ぞろり、ぞろり、とこちら窺っていた。


「……私、千冬を亡くしたら、神様を呼び寄せたんだ。もし次に、千影さまを亡くしたら。次は『なにを』呼ぶか分からないの」


 ざわり、と明里の髪が風に吹かれていないのに、ざわめいた。低い声。空気まで振動させているように響く。音もたてず恋しい、恋しいと叫ぶ声。


 一度、人ならざるモノと縁を繋いでしまった人間というモノは──


「自分でも、本当に分からないの。次は鬼か、魔性か、寂しさのあまり、この村に『なにを』呼び込むのか分からなくて、怖いの」


 暗い表情をたたえた明里は、本気だった。千影をかばう健気さよりも、ほの暗い執着心に錦は声をかけられず。誰もかれも言葉に詰まっていると。


「あい、分かった! 分かったからその怒気を治めてくれ明里。もとより儂は神仏に──千影殿に頼る気はない。村の者に何かあった場合、助けるのも村の者じゃ、だから落ち着け明里」


 長老が急に膝を叩いて声をあげた。明里はふ、と我に返ったように、肩の力を抜いた。


「だから、千影殿のことは助ける。困ったことがあれば手を貸すと約束したじゃろ。人手がいるなら、声をかけよう。文句も言わせん。それにな、神仏にお縋りする前に、まず、お産のときにそういう危険を少しでも無くすことのほうが、よっぽど解決になる。危険は無くなりはしないだろうが、無闇に奇跡に縋るよりよっぽど現実的じゃろうて」


 「ひとまず産屋に必要なものがあるなら言うがよい。金なら長者が出してくれるじゃろ」と長老はさらりとのたまい、長者はぱくぱくと何か言い返そうとしたが、誰も味方がいないのを知って押し黙った。


「……儂も久々に見誤ったか。力を削ぐのは幻神さまより、おぬしのほうだったかの。明里」


 ほ、ほ、と長老は髭を撫でながら愉快そうに笑い。

 明里はきょとんと、いつものように目をぱちくりさせた。




***



 長老の一声で、湯殿はすぐに建てられ始めた。


 男衆が山から木を切り崩し、材木を運び、簡易的な小屋を作る。

 場所は社の脇の湧き水の近くに決められた。

 火を焚く薪も必要だったが、若者衆を中心に清治や錦のとりはからいで目立った混乱はなく進んだ。「冬越しの忙しい前に」と一部文句も出たが、あのとき同じ産屋にいた女たち全員が全員、千影の肩を持った。積極的に声をかけ、若者衆を先導し、男たちをせっついて回った。同調圧力も悪いことばかりではない。一度協力を決めてしまえば、村人の行動は迅速で的確だった。


「明里、幻神さまに生姜湯作ったの、あったまるよ」

「早く元気になるといいね」

「明里も気落ちしないようにね」


 千影のもとに向かう明里にもたくさん声をかけてくれる。

 有難くて嬉しくて明里は頭を下げ続けた。


 湯殿が完成に近づきつつある日、明里は産屋にもう一度顔を出した。


 蕗の産後のみは明けていなかったが、身内であるなら会うことができる。

 顔を出した明里を見て、蕗は半泣きのような表情を浮かべた。少しやつれてはいたが、その腕にはすやすや眠る赤子がいる。


ふき、身体は大丈夫? 赤ちゃんも元気?」

「うん、特に問題ないよ。火鉢を持ってきてくれてありがとう、寒かったから助かった」


 産屋に必要なものを、と言われて届けた品はさっそく役立っているらしい。


「……ねえ、それで、幻神さまは? 大丈夫?」


 我が子を抱きしめて、蕗は俯く。産湯も済ませ、蕗が編んだ産着を纏った赤子はまんまるで、血色もよく肌つやもよかった。柔和な顔はどことなく蕗に似ている、男の子。


「うん、少しよくなった。お湯にお神酒を混ぜてみたりいろいろしてるよ。湯殿が完成したら、きっとよくなるって巫女さまが言ってた。平太さんがいろいろ工面してくれたおかげだね」


 明里が微笑むと、蕗はうっすらと目に涙を浮かべた。


「よかった。本当にありがとう。あたし、あのとき、無理言って。本当にごめんなさ」

「蕗、もう気にしないで。謝ったらだめ、その子が悪いことしたみたいになる。蕗も赤ちゃんも何も悪くないでしょう?」


 でも幻神さまが、と蕗は目を伏せた。赤子の容態が落ち着いてから千影の様子を聞き、ずっと気に病んでいるようだった。


「私だって本気でその子のこと、助けたかったよ。だから、千影さまにお願いしたんだし、本当に助かってよかったって思う。本当だよ」


 嘘偽りない本心だ。母子が無事でいることが、どれだけ有難いことか。

 でも、と明里は蕗を真っ直ぐ見据えた。目をそらさず、はっきりと伝えた。


「ごめんね蕗。きっと次は、私はなにがあっても、千影さまを優先させちゃうから」


 そして、これもまた本心だった。嘘偽りない、明里の本音。


「だから、蕗も。なにがあってもその子を。蕗が大事に思う人を、優先させてね」

「明里ちゃん……」


 蕗は一度、ほろり、と涙をこぼしたあと、我が子を宝物のように強く抱きしめた。


「うん、ありがとう」


 その涙を見て、無事でよかったと、改めて思った。

 そう、思うことができた自分にほっとした。

 千冬以外はどうでもよくて、碌に覚えていなかった人たちの顔を見ることができて、本当によかった。今は千影のことが一番大切だけれど、それ以外がどうでもいいとも思わない。大切にしたいと思える人はいる。助けてくれる人も、ちゃんといる。


(それが分かったのもやっぱり、千影さまのおかげなのかな)


 蕗は顔を上げて、潤んだ目元をぬぐい、明るい笑顔を見せた。


「あ、そうだ、幻神さまが元気になったらさ、一度会えるかな。直接お礼も言いたいし。頼みたいことがあるの」


 明里が首を傾げると、「あ、無茶なことじゃなくてね!」と慌てて付け足し、蕗は母親の顔をして微笑んだ。


「この子のさ、名づけ親になってほしいんだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る