第48話 仄明かり①
「千影さまを、人間に……?」
戸惑う明里に、“巫女”は頷いた。
「まぼろしという神秘が
「私が……幻神さまを殺す……?」
明里は身を震わせ、歪んでいく千影を見た。
「明里、あなたの神殺しの力は元から備わっていたものではない。そうできたから、そうなったお力。ただの
“巫女”は蒼色の瞳で、明里を見据えた。
「──結び直しです。あなたは幾度も、千切れそうな幻神さまを引き留め、結び直してくださった。神殺しよりもずっと意味のある力。どうか幻神さまを殺して、千影さまを結び直してください」
明里が千影にしてきたこと。
“千冬”の写し身を壊した後、『千影』の名前を与えた。
「……力なんて、そんなすごいこと、していません……私はもう二度と、とりこぼしたくなかっただけで……千冬のときのように、大事なことを見逃したくなかっただけです。後悔したくなかったから」
明里は俯き自らの無力を責めたが、“巫女”は微笑んだ。
「それがとても大切なのです。よく見て、よく考えて──声をかけ続けた。結局はそれだけ。異能も神力も関係がない。あなたのそのお気持ちが、ずっと幻神さまをこの地に引き留め続けている」
“巫女”はすっと右手を伸ばして、千影の額に指を当てた。
火が落ちたように千影の意識が途切れる。
「目眩ましです。幻神さまはあなたを傷つけた事実に動揺して、自らを保つのが難しくなっています。これで多少は落ち着かれるかと……気休め程度ですが」
千影はぐったりと清治に身を預ける。
“巫女”は千影を見つめる多くの顔を見回し、
「……『千影』という名は
清治が千影に声をかける。錦が不安そうに様子を窺う。蕗が抱えた柊は、千影に向かって手を伸ばして、その小さな指で千影の手を握っていた。
「……でも、それも夜が来るまで。闇夜が来て、千影さまのお身体が暗闇に呑まれれば、輪郭なんて分からなくなってしまう。そうなれば、彼は自分のカタチを見失ってしまう」
雪雲は空を覆い、時刻は夕暮れ。冬の長い夜は、もうすぐそこまできている。
「夜が来る前にどうか、神殺しを。あなたの言葉、あなたの身体で──契りを交わしてください。再び目が覚めた時、まぼろしであるか、千影さまであるか。神様に戻るのか、人間になるのか。私はあなたの声ならきっと、千影さまに届くと信じています」
「……あなたにとっては酷なことかもしれませんが」と“巫女”は目を伏せた。かろうじて千影の輪郭を保ってはいるが、
「千影さまっ……! 大丈夫だって、私が助けてあげられるってっ……よかった、よかった……!」
けれども、明里は迷いなく両手で千影の顔を包みこんだ。
「おうちに帰りましょう、約束を果たしましょう。神様じゃなくていいから、千冬じゃなくていいから、ずっと私の、そばにいてください」
影の塊を抱きしめて、嬉しそうに涙をこぼす明里を見つめ、“巫女”はもう何も言わなかった。
***
村人に送ってもらい、明里は千影を連れて家に帰った。
雪は止む気配を見せず、しんしんと降り積もっている。
禍いの神が訪れた喧騒も、年の瀬のにぎわいもどこか遠くに感じるような、静かな夕暮れだった。
明里は囲炉裏に火をつけ、
薄暗い室内がほんのりと暖かな色に染まる。
いつもと変わらない二人きりの家。
「千影さま。私の声、聞こえていますか?」
返事はなかった。
瞳を閉じ青ざめた顔。今にも溶けてしまいそうな朧げな輪郭。
寝所に横たわった千影に明里は唇を合わせた。ゆっくりと、優しく。熱を移すように。
「千影さま、ねえ、起きて、千影さま」
名前を呼ぶと、千影の輪郭が形を取り戻すので、何度も何度も口に出す。
瞼に、頬に、鼻筋に、口づけの雨を落とす。その造形をひとつひとつ確かめる。
「……あんなに約束したのに、寝たままなんてひどい、です」
なにひとつ取りこぼさないように。唇で、手で、肌でたどっていく。
その目が好き。明里を視界に捉えると優しく細められる眼差しが。
その手が好き。女性的で誰かを痛めることに慣れていない手が。
黒髪は出会った頃より伸びていて、耳には
装飾品は魔除けとも言われているけれど、もっと単純な理由もある。
自分を魅せるためのもの、自分を彩るためのもの。
自分自身に気づいてほしいという、言葉にならない千影の願い。
「ねえ、起きて、起きてください。あなたのこと、ちゃんと見ていますから」
衣の上からではもどかしくて水干の緒を解き、襟元をくつろげた。
左頬から、左肩、左腕、左手のひび割れの線をなぞる。
赤子を助けるために負った傷跡。
その傷跡が千冬との決定的な乖離。写し身ではない、千影自身の証だった。
聞きかじりの
「千影さま、答えて」
でも、やっぱりうまく、いかなくて。
「答えて。私のこと、ひとりぼっちにしないで」
どうしていいか、分からなくて。
「あなたが私に会いに来たんじゃないですか、あなたが名付けてくれって言ったんじゃないですか。あなたが、好きだって、言ったんじゃないですか」
ついには明里はぽろぽろ泣きだした。
祟り神に挑むことも、自らが化け物に変わることもなにも怖くないけれど。千影がいなくなることだけは耐えられない。
「伴侶だって言うのなら、私のことを、抱きしめて。そんなに不安に思うのなら、ちゃんとあなたのものにして」
明里は千影の胸に抱き着き、大粒の涙をこぼした。そうしないと、今にも明里の手から零れ落ちてしまいそうだったから。
「神様なんていらない。千冬じゃなくたっていい。千影さま、あなただけが好きなの」
それは神殺しの言霊でもあり、結びの言霊でもあった。
自然と出てきた想いの言葉。
波紋のように空気を震わせ、燭台の灯りを揺らした。
灯りに照らされた千影の人影が、色濃く映る。
うっすらと、千影の瞼が開いた。
「──あ、カり」
雑音だらけの声が、確かに明里の名前を呼んだ。
「手を、」
左手が明里に向かって伸びる。明里はとっさに、その左手を掴んだ。
「もっト、深ク、」
「千影さまっ……」
「もっと、強く、掴んで」
明里が千影の左手を強く握る。千影は明里の手のひらに爪を立てた。かさぶたになりかけていた切り口を抉る。
「……っ」
じくりと傷口が痛み、明里は唇を噛み締めた。
血に濡れたお互いの小指をからめる。
指切りした小指に、赤い血が伝う。赤い糸のように結ばれる。
「……繋いでいて、くれ。これなら、どうにか意識を保っていられる、から」
「千影さま……」
血の穢れで千影は苦しそうにうめいたが、心配する明里を制した。
「……せっかく、お前と契りを交わせるのに、意識を失っているなんて、そんな惜しいことできるか」
千影は額に汗を流しながら苦笑した。左手は指切りしたまま。右手で明里を抱きしめて、その身を起こした。着崩れした衣がずり落ち、肌がぴったりとくっつく。
「ちゃんと、伝わったよ。明里の声も。お前の覚束ない愛撫も」
明里は途端に顔を真っ赤にし、
「は、初めてだって言ったじゃないですか! お、起きてたなら早く言ってください。もう、何回心配させれば気が済むの……」
「ごめん、なかなか身体が動かなくて、それにすごく嬉しかったし、可愛かったから」
湯気の出そうな明里を見て、千影は微笑み。明里の首に残る自らの指の痕を見て、痛ましそうに目を伏せた。
「……ごめん、たくさん無茶させて。苦しかったよな」
明里は揺れる瞳を見つめ返した。
「……はい、でもきっと、千影さまも同じくらい苦しかったですよね」
「……明里」
名前を呼ばれた瞬間、明里の身は床に押し付けられていた。
千影に勢いよく押し倒されて、夜着を剥がれる。
熱を乞う瞳が明里と交わる。
唇に噛みつかれ、口内を貪られて、明里は酩酊する。
中に中に探るように。奥に奥に入り込むように。激しい熱情。
明里は胸が苦しくなって、千影にしがみついた。
布地が邪魔だ。肌の皮すら煩わしい。
もっと直に、もっと深く、
必死にお互いの熱を分け合い、奪い合った。
痛みも、快楽も、愛おしさも、混ぜ合わされて、ひとつになる。
身体を合わせる。肌を重ねる。
「……明里、明里、お前のすべてで、俺を穢してくれ。俺を、決して離さないでくれ」
神様の右目が蒼から黒へ、点滅を繰り返している。
身を裂かれ、内側に入り込まれて、痛みに喘ぎながら、明里は自然と笑みを浮かべていた。
──これで最後。
器を与え、名を与え、恋に落とし、血を通わせ。契りを交わした。
これでもう、この人は明里の元から去ることはない。そういう予感がする。
「千影さまは、私のために来てくれた、私だけの神様。私以外のための誰かになんてならないで」
あとは無我夢中で、いつしか小指の結びは解かれていたが、そのころにはもう、指切りをする必要もない契りが結ばれていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます