第47話 千の影⑤
「な、なにしてるの、千影さん! 明里ちゃんが死んじゃう、やめてよ!!」
割って入ってきた声の主──
あまりにも場違いなその登場で明里は飛ばしかけていた意識を引き戻された。
「なんだ……? 村の女……? お前、いったい、」
けれども、最初に困惑した声をあげたのは
「だ、誰よ、あんた! この二人になにしたのよ! 千影さんが明里ちゃんに手を出すなんて絶対おかしいんだから!!」
「オレを見て平気なのか? 何故正気で、」
ギクリと初めて蝕神は表情から余裕を無くした。蕗を──蕗が、抱えている生き物を見て、瞳孔が開く。
「──赤子かっ! 面倒な!」
突如として蝕神は怒り狂い、蕗に向かって骨がむき出しになった左腕を向けた。蕗が驚き立ちすくむ。ぶわりと
カッと蕗の赤子が、目を見開き──泣き声を上げた。
オギャア、オギャア、オギャア。
周囲に注げる警告音。魔除けの
瘴気は瞬く間に霧散した。
「……ッ! やめろ、煩い、黙らせろ! 忌々しいその赤子を!」
蝕神が耳を押さえてうずくまる。
左半身が焼けただれて肉片どころか骨まで、じゅ、と蒸発して煙を吹いた。
どんなに身体を削っても顔色一つ変えなかった蝕神がただの赤子の泣き声に苦しみもがき、明里は呆気にとられた。『柊』という魔除けの名前の影響だけではなく、赤子の泣き声はそれ自体が邪気払いともされている。
なんてことはない。蝕神は忌むべき象徴。死の塊。それゆえに。
正反対の生の象徴。生の塊。──とても小さく無力な存在。赤子に弱い。そういう神様だった。
柊の泣き声は千影の体内に入り込んだ蝕神の
「……あ、」
千影の瞳に光が戻り、手が緩んだ。
「……あかり?」
「ちか、げ、さ」
締め上げられていた手から解放され、明里は激しく咳き込んだ。千影は自身の手に残る感触と明里の首に赤く残った痕を見て、激しく動揺していた。真っ青になって呆然とする千影に声をかけたいのに。酸欠を起こし、目の前が白黒に点滅する。降り積もる雪の中、うずくまっていると、誰かが身体を支えてくれた。心配そうにのぞき込む
「黙るのはあなた様のほうじゃ、蝕神さまよ」
確かな声が聞こえた。しわがれてはいたが、意志のある牽制。
「礼儀知らずのよそ者が。よくもうちの若いもんに手を出してくれおったな」
ギッと負けずに蝕神は長老を睨みつけ返した。
「ほざけ、老いぼれ、引っ込んでろ! とっとと赤子を黙らせろ! オレは十二柱だぞ、そのオレに手を出して無事で済むと思っているのか!?」
「勝手に入り込んでおいてよく言うわい。祟りの押し売りは御免じゃよ。明里も千影殿もうちの村の者じゃ。手出しはさせぬ」
なんだと、と怒り狂った蝕神が掴みかかろうとしたが、長老のそばに控えていた清治が弓を引いた。ばすん、と迷いなく蝕神の右腕に矢を射る。異能のない右半身はそれだけでたじろいだ。
「千影は俺の大事な友達でもあるんでね。勝手に祟らないでもらおうか」
明里は苦しみとは別に涙がこぼれた。錦の支えてくれる手が温かい。清治の言葉が頼もしい。土地が千影のものであるということは、場の支配は明里のほうが強いということは、こういうこと。助けに来る人がいるということ。味方がいるということ。
「おのれ、ただの人間の分際でこのような不敬な真似、祟ってやるっ……呪ってやる!」
蝕神の右半身も
「──そこまでです、蝕神さま。
ゆっくりと村人の間を割り、“巫女”が歩み出た。
「この赤子は──柊は、『私』と同じ。産まれながらに
蕗が抱きかかえている赤子を、“巫女”が優しく撫でると柊は泣き止み、すう、と寝入る。蝕神が身を立て直す前に、“巫女”の両目が蒼色に光り、蝕神を釘付けにする。千影とそっくりの瞳をしていた。
「……お前、幻神が大昔に助けたという、死にぞこないの赤子か」
「その通り。私は幻神さまから神の
巫女とは神に仕えるだけではなく
「幻神のために恩返しに出てきたってわけ? 律儀だねえ」
「よくお分かりで。先日は不意打ちを食らいましたが、私の大事な親にここまでされては黙っておれません」
「そうかい、そうかい。で、オレを浄化しようっての? 十二柱を消したらこの村だってただでは済まないぜ」
「ええ、この村を
“巫女”はじっと、蝕神を見据え、指を差した。
「私はずっと幻神さまと一体化しておりました。だから、あなた様の諱を存じておりますよ。十ニ柱をまとめるために
そうして、巫女は──巫女に憑依した神様は明里に向かって、口で名前を
「……お返し、よ」
明里は息を整えた。神殺しの言霊にのせて。腹から声を出す。やられたことを跳ね返す。
「
明里の言霊が諱を縛り、その場にいる蝕神の存在を否定する。拒絶する。弾き飛ばす。身体が解かれ、蝕神の身体が土くれに変貌していく。蝕神は舌打ちし、地に還りながら、最後の呪いを吐いた。
「なあに、務めは果たした。幻神と贄の結びは切れた! ざまあみろ、ばーか!」
どしゃ、と蝕神だった塊は墓土に戻り、その場から消え失せた。
***
禍いの神が去り、降り続ける雪だけが静かに積もる。村人は安堵の顔を浮かべ、明里や蕗に労りの声をかけた。蕗は“巫女”が村人を先導する前に明里の家に様子を窺いに訪れていたらしい。雪が降りだしても、姿を見せない二人に胸騒ぎがして探して回っていたと聞いた。
「虫の知らせというやつですね。子は七つ前まで神様の子とも言いますし、柊は名付け親である幻神さまとも縁を繋いでおりましたから、蕗にも伝わったのでしょう。あと一歩遅ければ明里が手遅れになるところでした。本当に間に合ってよかった」
“巫女”は千冬の遺灰を拾い、雪を払って大事そうに懐にしまった。
明里は“巫女”を見て困惑していた。千影が幻神になる前に助けた赤子の話は無論聞いていたが、それが目の前の“巫女”とは結びつかず。では今まで明里を助けて導いてくれていたのはその赤子の魂だったのか? 幻神が降り立った当初、明里の世話を焼いてくれていた彼女も?
「助けに来るのが遅れて申し訳ありませんでした。
「み、巫女さま? あの、」
「……詳しいお話はあとで。幻神さまとあなたの結びが千切れたままです」
え、と明里が千影のほうに目を向けたときに「千影、」と焦る清治の声がした。明里は重い身体を引きずって千影に近づいた。千影は両手で顔を覆い、謝罪の言葉を繰り返していた。
「ご、ごめん、明里、おれは、おれは……」
「千影さま、私は大丈夫です、大丈夫ですから」
「ごめん、ごめん、ごめん」
明里の声は届いていなかった。
千影の姿はまるで白紙に滲む墨のようにぼやけた。負の感情の黒い靄は消し去っていたのに、身体の輪郭のブレが治まっていない。
「許してくれ、怒らないでくれ、消さないでくれ」
身を震わせ、激しく怯えている。様子がおかしい。明里を見ているはずなのに、別の誰かを見ているかのよう。両手で身体をかばい。涙をこぼして許しを請う。声が何重にも重なって聞こえる。
「消さないで──殴らないで。ごめんなさい、ごめんなさい。旦那様、旦那様」
女の声。若い。まるで貴族の『姫君』のような。
明里はぞっと身に悪寒が走る。雑音が入って、また声色が変わった。
「あ゛あ゛あ゛──全部、許す、許す、許すから、見放さないでくれ、奥、奥」
男の声。野太い。まるで武家の『殿』のような。瞬き一つする間に、姿が様変わりしていく。
「千影さま……っ! しっかりして!」
鋭く叫ぶ。人影は一瞬だけ『千影』になったが、すぐに滲んで分からなくなる。
今までの写し身の数の分だけ。ブレては重なり、千影を覆いつくしていく。
「蝕神さまの本来の目的は幻神さまの神性を戻すこと。神性を戻すということは『千影』を消し去ること。誰でもない誰か、まぼろしに戻すということ。邪気払いで蝕神の穢れは消せても、幻神さまの身に内包された穢れはこの地で馴染んだ積み重なり。それを消すことは『千影』を消すことに他ならない」
“巫女”が痛ましく千影を見つめ、自分の胸を抑えた。
「……諱をお返ししたとて、それは『千影』ではない。今の彼ではなくなる。私にはどうすることもできません」
「そんな、」
明里は涙があふれた。やっと蝕神を退けたのに。「誰かになるのはもう嫌だ」とあんなに悲痛な声をあげていたのに。“巫女”は一度、目を伏せ、そうして明里に告げた。
「だから、明里。どうか、神殺しを」
それは以前にも一度聞いた“巫女”の懇願。幽鬼になるくらいなら神様のまま殺してくれという、“巫女”の願い。けれど、今は意味が違った。
「幻神さまを殺して。殺しきって。千影さまを人間にしてください」
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