3章 神様を地に落とす
第19話 灯火
寺の裏手。
村はずれの空き地。
土が盛り上がっているだけで、塚とも墓とも呼べない寂しい場所。ここは千冬が眠る地とも言えるし、そうとも言い難い場所だった。
明里はその場でしゃがみこんで、摘んできた桔梗の花を供えた。千冬の好きな花が思いつかなくて、ずいぶん迷ってしまった。こんなときまで思い知る。千冬は明里の好きな花、食べ物、言葉をあんなに知っていてくれたのに、自分はなにひとつ千冬の好きなものが思いつかない。
どれほど、自分が彼を見ていなかったのか。どれほど、彼が望みを言わなかったのか。
(……ごめんなさい、千冬。苦しかった、よね)
問いかけた言葉に無論優しい返答はなく、ただ木々が風にざわめくばかりだった。
村には個々の墓という概念はない。亡くなれば、同じ埋葬地に埋められるか、季節が夏でなければ風葬されることすらあった。千冬はここで野焼きされたあと、そのまま埋められた。手間のかかる火葬だったのは、水害のあと水浸しになった村内に、不浄のひとつ──病が流行るのを恐れてのことだった。
その乾いた土に触れる。
(少しは、向き合えるかと思ったけど)
やっぱりだめだった。胸は苦しくなるばかりだ。打ち壊された千冬のあばら家の跡地に行っても、墓とも呼べない土の塊を見ても、彼の形跡はどこにもなく、現実味が沸かない。
あの遺灰以外、千冬を感じるものはどこにもない。
遺灰は、いまだに巫女に預けたままになっている。
村長や長者の手に渡っていてはもう処分されているに違いない。神様を怒らせた不浄の塊。そうでなくても、明里が千冬の遺灰を未練がましく持ち続けることだって、いいわけがなく。
「このまま、手放したほうが、いいんだよね」
口に出したそばから抵抗感がある。そんな簡単に、忘れられるわけでも、忘れていいわけでもない。あれだけが確かな証拠として千冬のカタチとして残っている。
明里は膝に顔をうずめて、息を吐いた。
なにもかも、彼のものが手元に残らないのは、自業自得なのか。
「私、なんにも見てなかったから、罰があたったのかな」
それも違うか。神様はむしろ、明里の事情に巻き込まれた側なのだ。
だったら、せめて、後始末くらいはつけなくちゃ。
千冬からしたら、なんの意味もなく、今更な話だったとしても。同じ轍を踏まないように。
「とにかく、目をそらすのはもうやめるから」
さしあたっての問題はもちろん、これからどうするか、だ。
明里は顔をあげて、立ち上がった。風が吹き抜ける。その風に真夏の湿り気はなかった。
季節は秋に近づきつつあった。
***
蛇のように長い島國の、なんの変哲もない川沿いにある集落の一つ。海から通じる稲川に沿って八つの村落が点在している。稲川村はそのうち最も川に近い場所に村を構えていたので、そのまま名付けられた。
名産は川の幸、稲作、そして水。
珍しいものと言ったら時折、海岸から川へ流れてくる
だから、祀るのは当然水神。稲川村にある
それこそが幻神の結びつく土地であり、贄の儀式のたび顕現する範囲であった。
社の高台から村を見渡す。
久々に村中まで戻ってみれば、村人は秋の稲刈りの準備に追われているようだ。どことなく、災厄に怯えているのか動きはぎこちない。
眼球に映りこんだ人間をとらえた途端、土地と、そこに住まう人々の“名前”が押し寄せてきた。
マキ村長、ミズナワ宮司、フジ長老。ついでに幅を利かせている長者のマスノ。
だいたい村の決定権を持つ年役はこの面子で、あとは働き手の中年の男たち、その妻たち。今、田畑で畑仕事をしているのは若者衆のようだった。
若者衆はせいじが中心となり、あかり、そうご、ふき、にしき、うめ──…いや、こんなこと覚える必要はない。名前はあれば、それだけでいい。
注意するとしたら、名前を持たない人間だけだ。
そんなものがいればの話だが。
怒涛に流れ込む情報量に、
(余計なものが、見えすぎる)
否。見えなくなったのか。
鮮明すぎる視界は、むしろ本質を見えづらくさせた。本来、幻神の目は贄と贄の望む姿のみ感知できればよく、それ以外の人間は大した違いはなかった。それがこの器を得てから、一変してしまった。
土地の成り立ち、着物の色、家屋の造り、人々の名前。それらが細かに“認識”できるようになってしまったのだ。
(‥‥これでは、水鏡も使えないな)
幻神の水鏡とは、相手の心の内を反射する術。自分と相手の目を合わせるだけで、贄の望む姿を垣間見ることができた。集中すれば過去の記憶すら覗き見れたし、真似することもできた。
それなのに今や瞳の中に、こんなに植物、動物、人間たちが無造作に写りこんでしまえば、見透かすのは不可能だ。相手の内を覗くなら余計なものは一切入ってはいけない。今までの幻神の目なら、造作もないことであったが。
「……──」
目を閉じると、今度は様々な雑音が無秩序に入り込んでくる。神気と相性のいい自然界の音だけではなく、獣の声、家畜の鳴き声、村人の些細な会話が割り込むようになった。取捨選択がうまくできない。遠くで生まれた嵐の音などもう感知できるかどうか。──これがおそらく、人間の目であり、人間の耳。
神様が必要としている知見なんて、清浄か不浄か、生きているか死んでいるか、土地のものかそうでないか、贄か贄でないかくらいしかなかった。簡潔だからこそ、より遠く、より深く見えたり聞こえたりする。
明里はもちろん、神様の目も神様の耳も想像なんてできないから、幻神のカタチを人間の枠に当てはめた。上面だけを取り繕った写し身とのあまりの違いに、神様は目を回した。
名前を得て、三日。
他人の姿を通さず見る世界はあまりに直接的で、あまりに鮮烈だった。
自分の目で見るということは、自分の耳で聞くということは、こんなにも難儀なことなのか。
頬を撫ぜる風も、草花の匂いすらも、痛いほどの刺激に感じた。身軽だった身体は鉛のように重く、未だに馴染まなかった。
「──
その名前を呼ばれるたび、またひとつ、身体の重みを増した。雑音の中でも、変わらずよく響く声。贄だからか、他に理由があるかは分からない。鮮明な世界に酔って、座り込んでいる千影を見つけて、明里が駆け寄ってきた。
「清流で待っていてくださいって、言ったのに。あの、お身体はもう大丈夫ですか?」
「多少目も耳もやかましいが、ひとまずは」
明里はよかった、と胸を撫で下ろした。その姿形をつぶさに観察する。
伏せ目がちで、俯いてばかりの娘は最近やっと顔をあげるようになった。豊かな黒髪は波打つように風に揺られる。十七、十八のはずだが年のころより幼く、小柄。丸い黒目は大きく、目を合わせると自身が鏡のように映りこんだ。薄色の小袖と裳を身に着けた。どこにでもいる村娘。
「‥‥な、なにか?」
あまりにじっと見つめすぎて明里は戸惑う。それでも、目を背けられることはなかった。
「……いや、そんな顔をしていたのだな、と」
え? と明里がますます困惑する。なんでもない、と言い捨てて。
「それで、どうする。目立った混乱はないようだが、俺が姿を現したら、村人は逃げ惑いそうだぞ」
「……とりあえず、社に。清治と巫女さまも待っています」
明里は手を差し伸ばした。
「行きましょう、
慣れない名前を呼ばれて、心臓が脈打つ。柔らかな手に引かれて、千影は立ち上がった。その姿を目で追う。その声に耳を澄ます。温度も感触も前よりずっと、伝わってくる。
乱雑な世界の中でも、この娘のカタチをもっとよく感じることができるなら、悪くないとすら思った。
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