第42話 面影

 神様のいみなを与えられた赤子は、人間の死からは外れて。

 息絶えるのと同時に、水に解けて消えた。

 赤子がどうなったかは、分からない。


 いみなを譲渡した瞬間に、自分の核も、芯もあやふやになって。


 抱く子もいない“母親”の姿のまま、意味もなく、ぽろぽろと涙をこぼしていた。


 ──どのくらい、そうしていただろう。


「なんとまあ、愚か者がいたものだ。いみなを手放すなんて」


 快活な明るい声は、肩をすくめながら、幻に話しかけた。


「身を削って大事なものを与えてしまっては、それは助けたとは言わないよ。それは共倒れっていうんだよ」


***


 黒髪に顔を埋めた千影は、縋るように明里を掻き抱いた。


「──もっともっと、俺のこと、好きになってくれ、明里」

「千影さま……」


 瞼に、頬に、鼻筋に、口づけの雨。

 熱い唇で輪郭をなぞられて、身体の力が抜けた。

 揺らぐ瞳と交わる。

 神様の右目も、人間の左目も。どちらも同じくらい、愛おしく。

 引き寄せられるように、唇を重ねた。

 

 食いつくすように明里の唇を食む千影に押されて、ぼすん、と布団に身体が沈む。


「──……明里」


 身に伸し掛かる重みに、うっとりと流されかけて──明里は、は、と我に返った。


「ち、ちかげさま、待って、待ってくださ」

「何故? 元気になったら本当の妻になると約束した。そう言ったのはお前だ」

「そ、そうなんですけど、あの……」


 もじもじと頬を染めて、口ごもる。


「……恥じらいだけなら、やめてやれないぞ」

「ち、ちがい、ます、そうじゃな、……ん、……ま、く、くち、塞がないでくださ、」


 もみくちゃにされて、息も絶え絶えになりながら、明里は慌てた。


「わ、わたし、はじめて、なので‥‥」

「……それが? もしかして怖いのか? 大丈夫、ちゃんと優しくする……」


 明里は真っ赤になった。そうじゃない。


「違います! 血が! 今の千影さまの容態だと、少しも血に触れちゃだめだって、み、巫女さまが!!」


 ぴたり、と──さすがに千影の動きが止まった。

 湯気が出そうな明里をまじまじと見つめ、何とも言えない顔で押し黙り。


「──いい、」

「へ?」

「もういい、その血で殺してくれるなら本望だ」


 と、明里をもみくちゃしていた手を再開させた。明里は泡を食って抵抗する。


「え!? だ、だめです! 私が嫌です!」

「そんなこと言ってたら、いつまでたっても夫婦になれない」

「そう、なんですけど、とりあえず、まだ待って。む、村の人にも顔向けできませんから……!」


 あれだけ協力してくれた村人に「いちゃいちゃしていたら悪化させました」とかどの面下げて言えばいいのか。


「お前も俺を好いてくれているのに、待つのはもう無理だ。それに、もし、死んでも後追いしてくれるんだろ?」

「え、いや、さすがにその理由で心中はちょっと‥‥あの、わ、私も、我慢しますからー!」


「もう本っ当ごめん、本当に邪魔する気ないんだけど、入っていいかな? さすがに今始められると困るっていうか、止めたほうがいい感じなの、これ? 明里ちゃん」


 開けっ放しの襖の外で、ふきが赤子を抱えて、口をへの字にさせていた。


「あ、蕗! いいよ、邪魔して! どうぞどうぞ」

「こら、逃げるな明里。おい、蕗! 邪魔するな、お前何度目だと思っている。いい加減にしろ!」

「なんかもうすっごい元気だし、あたしの涙返して欲しいんだけど……」


 蕗はげんなりと、ため息をついた。


***


 その後、茶を出しに来た巫女に「まだ絶対安静です」と釘を刺されて、千影は不貞腐れながら枕に身を横たえた。

 明里は苦笑いしていたが、巫女が去ると、蕗は真剣な顔をして話を切り出した。


「俺を、赤子の名付け親に?」

「はい、助けて頂いたお礼もかねて。本当にありがとうございました」


 赤子を抱えたまま、蕗は深々頭を下げる。


「それは……あんまり気にするな。無事でよかった。本当に」


 千影は、蕗の腕の中ですやすや眠る赤子を見て、安心したように微笑んだ。


「まだまだこれからが大変だろう。余計なことは気にせず、自分と赤子のことだけ考えろ。平太へいたにも礼を言っておいてくれ。いろいろと俺のために苦心してくれたのだろう?」


 「余計なことじゃないです」と、蕗も、そして、明里も眉をひそめると、千影は苦笑した。

 

「俺が助かったのは、その子の生命力に引きずられたからでもある。その子はきっと、元気に育つよ。それに──おかげで俺もひとつ、思い出したことがある」


 千影は目を細めた。遠く、懐かしむように座敷の天井を見つめる。


「俺の最初の贄は、赤子だった。産まれてすぐの。その子と同じくらいの──」


 明里と蕗は目を瞬かせたが、千影は古い記憶を手繰り寄せながら、昔話を始めた。


「今よりずっと遠い昔。まだ、神の世も人の世も、境界があやふやな頃。神もあやかしもそこら中に湧き出していて、俺もその内の一人だった。俺は凪いだ小川で、とても澄んだ水だったから、人間たちが水面みなもに顔を映しに来ていた」


 古来から姿を映す鏡は神秘的な呪具や、祭具として扱われていた。川の水面みなもも、自然の映し鏡である。


「清らかな水はそれだけで神水しんすい霊水れいすいと呼ばれる。水がけがれてしまっては人間は身体を病むからな。神性なものとして大事にされるんだ。徐々に川自体が神聖視されるようになったとき、突然、赤子が俺の中に落ちてきた。その泣き声が、あんまりに喧しくて、それで目を覚ましてしまった」


 千影の声はどこか遠くから響くような、不思議な声色をしていた。


「何故、落ちてきたのかは分からない。事故だったのか。口減らしだったのか。それとも、やはり雨乞いの贄だったのか。なんにせよ、そのままでは溺死する。死なれてしまっては、水が穢されると──俺はそう思った。赤子を抱きかかえるには人間の腕がいる。だから俺は赤子の『望む姿を身に映して』、母親になった」


 そうして、千影は目を伏せ、自嘲するように笑った。


「けれど、所詮マガイモノ。見た目は“母親”でも、そのときの俺は同じ赤子のようなもの。なにもできず、何も与えられず、──結果、三日と持たず。赤子はこの世を去った」


 そんな、と明里は痛ましそうに声を上げたが、千影は静かに続けた。


「あんなにも強い産声を上げていたものが、ゆっくりと息絶えていくのを。人が死ぬところを初めて見た。それがなんだが、──とてもつらくて、悲しくて、気づいたら涙を流していた。俺の涙は雨になって、その地を潤わした。皮肉にも、そのせいでさらに俺の水神としての信仰は広がった」


 ああ、そのときに、名前も一緒に失くしてしまったと、ぽつりと千影は呟いた。


「そこに目を付けた当時の巫女が『幻神げんしん』と名付けて、俺を十二柱に据えた。実体なまえがないのに、赤子の“母親”の姿のまま揺蕩っていた俺はまさに、まぼろし。神名はすぐに馴染んだよ。『誰かを恋しいと願う声に惹かれて、贄の望む姿になる』。それが俺の在り方として固定された。時が下り、儀式がきちんとした定め事になっていった頃には、贄は赤子ではなくて、伴侶にと、様変わりしたけれど」


 昔語りを終え、千影は目を開いた。もう一度、千影は蕗の抱える赤子を見る。


「だから──その子を助けたのは、俺自身の悔いでもあったんだよ。その子が助かって俺も救われたんだ」


 千影は笑った。眩しく、無垢な笑顔で。


「気に病むことはない。俺の事情で助けただけだ。そもそも、長老殿が村中に産屋うぶやを置いていなければ、間に合っていない。産婆やにしきがいなければ、この世に産まれ落ちることすら難しい。当たり前に在るものは、決して当たり前ではない。だから、名前はちゃんと蕗がつけてやれ。確かに俺が助けてしまったけれど、その子には、もう神の加護はないのだから」


 蕗は目を開いたまま、唇を噛んだ。赤子を抱きしめたあと、すう、と大きく息を吸い込み。


「ああ、もうぐだぐだと煩いな! 本当にお人好し! 善意くらい、素直に受け取ってよ。あたしも平太さんも、気に病んでとか、神様の加護が欲しいとかじゃなくて、」


 蕗は赤子を千影に向かってぐっと差し出した。丸くつややかで、血を分けた自分の子を。


「幻神さまじゃなくて、神様じゃなくて、ただ、助けてくれたあなたに──ち、千影ちかげさんにつけてほしいって、言ってるの!」


 蕗の大きな声に驚き、赤子がむずがってオギャアと泣く。「ああ、ごめんごめん」と慌てて蕗があやす。大きく目を見開いた千影はしばらく、母親と子の姿を、黙って眺めていた。ゆっくり起き上がり、千影は赤子に向かって手を伸ばした。綺麗なままの右手も、傷跡の残る左手も、大きく広げた。


「その子を、こちらに──」


 蕗は瞠目したあと、赤子を躊躇いなく預けた。千影は危なげなく、頭と首をしっかり支え、包み込むように抱きしめた。

 赤ん坊を抱いたことのある、そういう人の抱き方だった。


「……人間の名づけ方は、やっぱりよく分からないけれど。でも……そうだな。『千』の字は俺がもらってしまったから。千冬のもう半分はお前がもらってくれ。俺一人が抱えるには大きな存在だから」


 千影は一度息を吸い込み、迷いなく言葉を紡いだ。


「──ひいらぎ。冬の魔除けの樹木の名だ。お前の母親のように地にしっかり根付くように。せめて、名前だけでも加護がありますように」


 千影は赤子に言祝ことほぎを与える。『ひいらぎ』に、優しい微笑みを落とす。その泣き声を聞くのですら、愛おしそうにしていた。


「ああ、やっと、ちゃんとなにかを与えることが、できた気がする」





「……なんだかいろいろ納得です。千影さまが川に落ちた私を必死に助けてくれた理由も。死の不浄が嫌いな理由も。すごく優しい理由も」


 蕗が帰り、明里の作った粥を美味しそうに平らげていた千影は、明里の言葉に首を傾げた。

 『神様』が穢れである血や死が苦手という理由だけでなく、きっと千影自身が、苦手なのだ。人の死というものが。


「千影さまは、最初の贄も、これまでの贄の人も、皆大事にしてきたんですね。その中で、きっと千影さまは自分を育てていたんだなあって」


 確かに『千影』を見つけたのは明里だけれど、千影を形作っていたものは、決して明里だけではなくて。


「……清治せいじが千影さまには人間と同じように、血が通ってるんじゃないかって言ってたけど、その通りですね。きっと、ずっと前から千影さまには血が通っていたんですね」


 千影は一層不思議そうに難しい顔をした。


「俺には血なんて通ってなかったはずだぞ。ひいらぎに触って、生きる血を分けてもらっただけで」

「え、だって」


 明里は千影を真っ直ぐに見た。

 血を流す姿を目の当たりにする以前にも、明里には思い当たる節はある。


「千影さま、好きです」


 唐突な告白に、千影は目を丸くさせた。


「私、千影さまが大好き。正直で嘘つけなくてすぐ拗ねて、すごく優しいところが好き」

「……なんだ、急に。嬉しいけど」


 じわわ、と千影は赤くなる。

 「好きになってくれ」と自分で言ったくせに、いざ告白されると赤面する千影を、明里はまじまじと見つめ、


「そうやって、自分はすごいこと言うくせに、私から好きって言われると照れちゃうのも好き」

「本当になんだ。からかっているのか?」


 茹で蛸のように真っ赤になった千影を見て、明里は笑った。

 ほら、やっぱり、血が通っている。

 でなければ、そんなに真っ赤になったりしないのだ。

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