幕間 上澄み──明里の話
両親は、明里に関心がなかった。
暴力を振るわれたとか、育児放棄されたわけではない。ただ、関心がなかった。
明里が泣いても笑っても、なにも反応を示さなかった。義務的に食事を与え、義務的に世話をした。
二人は、好きあっての婚姻だったらしいが、明里が生まれる頃には冷え切っていた。両親の間になにがあったのかは、よく分からない。お互い矜持もあったし、周りの目もあったので、いくら家庭の中が空虚だろうと表面中は“家族”を運営し続けていた。そんな中生まれた明里に、両親は無関心だったけれど、周りの目があるときだけは、明里を大げさに褒めた。
「真面目でお手伝いもよくする、いい子なんですよ。いつか、いいお嫁さんになる」と。
それは一人娘を円滑に村の中で嫁入りさせる布石でもあったのだが、幼い明里にそんなことが分かるはずもなく。
いつも無関心な両親がそう思っていてくれるなら、と簡単に真に受けた。
率先してお手伝いもしたし、聞き分けがよく、なにも反抗することのない娘に育った。
「お母さん、
「お父さん、着物がほつれていたから、直しておいたよ」
二人からの返事はなかった。静かな家。朝になれば、洗濯、食事、畑仕事、夜になれば、翌日の支度をして寝るだけ。父も母もこの空虚な“家族”を運営し続けることが、村の中で最もうまく生活できる手段だと知っていた。もっと大人になれば、明里も両親に見切りをつけて、現状を乗り切る術を身に着けたのかもしれないが、明里が諦める前に二人は亡くなった。そんなときばかり、夫婦仲良く流行り病でこの世を去った。
「ねえ、お父さん、お母さん、ねえ、ねえ起きて」
二人からの返事はやっぱり、なくて。
二人が明里に興味を持つことも、
置いてけぼりは、一層堪えた。
従姉妹の家には、居場所がなかった。
明里の家とは打って変わり、にぎやかで健全な家庭。引き取られてすぐの頃、どうしたらいいか分からず、なにか自分の役割はないかと聞いて回ったが、両親を亡くしたばかりの子供がそんなことするものじゃないと窘められた。それでも、年寄りと生まれたばかりの赤子の世話に追われる叔母夫婦に、詰め寄ったら。
「明里ちゃんはいい子だね。それに比べて、うちの子はダメね。
叔母夫婦がそういうたび、
時折、食事やおやつが抜かれていたことがあったが、もとより従姉妹家族の一員ではない明里は不思議にも思っていなかった。それよりも困ったのは。
「少しは子供らしく、遊んでおいで。引き取ったばかりの子をそんなに働かせていたら、叔母さんいろいろ言われちゃうわよ」
叔母は優しかったが、そのときばかりは苦笑した。煩わしそうでも、あった。明里はとぼとぼ家を出て、村一番のクスノキのもとでぼんやりと過ごした。同年代の子たちは駆けっこをして遊んでいたが、蕗の姿が見えたのでやめた。あまり明里をよく思っていないのは何となく感じたので、声をかけなかった。日が傾き、農作業していた村人が帰り支度しだしても、そうして膝を抱えていた。あの家の中で、身の置き場を考えるのがつらかった。明里だけが異物で、明里だけが別物、どうしても、そういうふうにしか思えなくて。
叔母夫婦も従姉妹も悪い人ではない。ただ、育った環境と考え方が違いすぎて、馬が合わないだけだ。
「明里、なにしているんだ」
黄昏時、顔を伏せていたら、声をかけられた。クスノキの影にいた明里を唯一見つけてくれた声。二つ年上の幼馴染、千冬だった。皆もう家路についているのに、ひとりだけ残ってぎりぎりまで畑仕事をしていたらしい。その顔も手も土だらけだった。
「‥‥千冬こそ、なにしてるの」
「俺? 居残り。前に約束してた畑仕事、サボったから
千冬は明るく笑っていた。同年代とはあまり馴染めていない明里と違って、彼は人付き合いのいい性格だったから、さしてその言葉を疑問に思わなかった。
──今思えば、病がちな母の世話に追われながら、つまはじきにされないよう、必死に立ち回っていたのだろうと、分かるのだけれど。当時の明里にはなにも見えず。
ただ、明里も千冬も帰るべき夕暮れ時に、家に帰れない、そういう寂しさを抱いた子供だった。
「……叔母さんに家のお手伝い、しなくていいって言われたの。でも、どうしたらいいか、分からなくて困ってた。なにもしなくても、私、あの家にいていいのかな」
「叔母さんが、いちゃダメなんて言ったのか?」
「言ってない。でも……なんか居づらいの」
明里は俯いた。これでは叔母が悪いみたいだ。馴染めないのは明里のせいなのに。
千冬は明里を馬鹿にするでも、諭すわけでもなく。しばし、考え込んだあと。
「明里、もしよければ、俺の母さんは具合が悪いから、少し手伝ってくれないか。俺も今日は疲れたし、飯とか作ってくれると助かる」
「え、‥‥いいの?」
「いいもなにも、俺が頼んでるんだよ」
「う、うん、手伝う」
目的が明確になり、明里はようやくその場から立ち上がる。帰り道が決まり、
「叔母さんに言っておくね、千冬に頼まれたって。なにかご飯の材料はある?」
「俺は調理がからきしだから、明里は何が作れるんだ?」
「え、と。お米は炊けるよ。お味噌汁も。でもなにか食べたければ、頑張って作るよ」
「ありがとう、助かるよ」
そうして微笑まれて、明里は心の底から安堵した。千冬はいつも優しい。いつも温かい。大好きな幼馴染。明里は次第に千冬の家に通い出したが、周りは何も言わなかった。むしろ、勧めてすらいた。あの家は大変だから皆で様子を見ていたが、明里が付きっきりで面倒を見るなら助かる、と。明里はようやく、居場所が見つかったとすら思った。
しばらくは平穏に暮らしていた。明里が千冬の母を面倒を見だしたおかげで、千冬も畑作業に従事できるようになっていたし、千冬の母も感謝を述べていた。千冬の家は従姉妹家族のようなにぎやかさはなかったが、明里の実家のような静けさもない。居心地のいい場所だった。
──それが徐々におかしくなっていったのは、千冬も明里も年ごろと称されるような時期にさしかかってからだ。
ある日、村長に呼び出された。その後ろには二人を吟味するように窺う長老もいた。
「二人とも仲が良いみたいだし、病気の千冬の母親も、独り身の明里も大変だから。まあ明里でいいよな? 千冬?」
奥歯に物がはさまったようなものいいで村長は祝言を匂わせた。明里は深く考えなかったが、千冬はそのとき
千冬の将来はそれで決定された。母親と明里の面倒を見る。その役割に生きろと。もし、周りがなにも言わなければ、二人の間にはいずれ愛情が芽生えたかもしれないけれど、その瞬間に明里は千冬の重荷になり、
連鎖するように、千冬の母の病状も癇癪もひどくなり、次第に明里だけでは抑えられない日も増えた。千冬はますますあちこちに顔色を窺い、母親の世話、明里の依存、村仕事に翻弄されるようになった。それでも、千冬は疲れた顔一つ見せなかった。休んでいれば母親の癇癪もひどくなるし、明里が心配するからだ。
「千冬、村長がお裾分けにお餅くれたよ。食べるでしょ?」
「俺はいいから、母さんと明里で分けたらいいよ」
「え、でも。せっかくだし、千冬も好きでしょう?」
千冬は微笑んだ。いつも通りのあらゆる感情を吞み込んだ笑顔だった。
「俺のことは気にしなくて大丈夫だから──なにもいらないから、明里が好きなものを食べたらいいよ」
そのときの千冬の言葉は妙に寒々しく響いて。ずっと頭の中で消えない染みのように残り続けた。
今ならば分かるのに。明里はあの日、夕暮れの中、千冬に見つけてもらえたけれど、千冬はいったい誰に見つけてもらえたのか。明里には彼の寂しさを理解できたはずなのに、ずっと見逃し続けていた。初めて自分を受け入れてもらえる存在ができて、きっと甘えていたのだ。
そんな、だから。
「明里! 千冬が…っ川で足を滑らせて……」
恋も実ることはない。
後悔して後悔して、目をそらし続けて、自分の気持ちに蓋をして。
──それでも、ようやく気がつくことができたのは、偶然やってきたあの神様のおかげだ。
散々手間をかけて、迷惑をかけて、やっと千冬への気持ちと向き合うことができた。幻神が来なければ、明里はいつまでも目をそらし続けたまま、千冬の気持ちをないがしろにし続けていた。
本当に、感謝している。
神様は明里のせいで、存在が消えかかるほどの深手すら負っていたから。それでもまだ、明里の願いを叶えようとしてくれていたから。
だったら、誠意を持って、神様を愛そう。恋を、しよう。神様が儀式のためだけに明里を贄に選んだとしても。巻き込んだのは明里だ。相手が義務や義理であっても、明里が誠心誠意を尽くさなくていい理由にはならない。
──だから。
「明里、俺はお前が、好きだ」
その告白は明里にとって、青天の霹靂といってよかった。
「へ!? 好きって、私を?」
「……そんなに驚くことだろうか。短い時間の中で、お前が俺を知ってくれたように、俺だってお前のことを少しは知れた。だいたい、俺に恋をしたいと言ってくれたのはお前だ。俺がお前を好きになることだってあるだろ」
「い、いえまあ、そうなのですが……!」
全然想定してませんでした、とは言えない雰囲気で明里は涙目になる。千影は熱のこもった瞳で明里を見据えた。
「初めて俺自身を見つけてくれたのも、初めて名前を呼んでくれたのも、明里、お前だけだ。お前だけが俺を探し出してくれた。写し身ではない、俺自身を。数百年間、そんなこと一度だってなかった」
え? そんな大層なことしただろうか? と明里は目をぱちくりする。明里の手を握ったまま、ぐっと千影は身を乗り出した。
「ひたむきなところも、まっすぐなところも好きだ。俺を純粋と言ってくれたが、お前こそ真水のように澄んでいる」
「ちょ、っちょっと、待ってくださ」
あんまりにも熱心に──熱烈に愛の言葉を伝える千影に明里は飛び上がった。
「いつか本当の俺の妻に、伴侶になってほしい。儀式とかそういうの、もうどうでもいい」
「どうでもいいんですか!?」
明里が驚愕すると、頬を染めて、千影は咳払いした。
「すまん、勢いがつきすぎて口が滑った。どうでもよくはない、が。好きな娘を妻に迎えたいというのは、儀式だとかそんなの関係ないだろ」
「ひぅ……」
明里には分かる。千影の瞳は心が動かないときは徹底して無感情になる。それが今は鮮やかに色づいて揺らめいていた。分かるだけに、明里は汗が止まらなくなってしまった。
「だから、俺に、ではなく──俺と、恋をしてくれ。明里」
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