第36話 暗影

 月の障りのある娘は神社の脇にある仮小屋に隔離されねばならない。


 血はけがれ。産屋うぶやであり、忌屋いみやとも称される出産時や月の障りの女性のみが使用する共同の小屋。

 たった十日弱のこもり。その期間は千影に会うことができない。


 静まり返った室内で、明里は鍋の中のつみれをひとつだけ食べた。野菜は綺麗に切りそろえられていたというのに、丸めた肉は少し不格好でそれが彼らしくもあり、愛おしかった。






「なんだい、なんでそんなにむくれてるんだ。明里」

「むくれてません」


 にしきは千影に事情を聞き、手早く綿や和紙など、諸々の月の障りに必要な準備をして迎えに来てくれた。

 気まずさと恥ずかしさ、残念さでふくれっ面した明里を見て、千影は苦笑した。


「明里、身体を大事にな」

「‥‥はい」


 千影は明里に心配げに声をかけていたが、触れないように努めていた。

 死の不浄である千冬の遺灰に触れられない理由と同じで、血の不浄の身である今の明里にも触れることができないのだろう。

 理屈はできても、やっぱり面白くなくて俯いていたら、千影は明里のそばに寄り、耳元に唇を寄せた。


「‥‥俺だって悔しかった。帰ったら──」


 ──続きをしよう、と囁かれ、明里はぼふんと頬を染めた。 


「では、錦、よろしく頼むぞ。くれぐれも風邪など引かせるなよ」

「なんだか、ものすっごく引き離すの気が引けるんだけど。明里、ごめんね?」

「い、いえ、誰も悪くないですから、すみません、ありがとうございます」


 二人に促されさすがに不機嫌でいられなり、その場をあとにする。

 見送る千影の姿を何度も振り返ってしまった。


「そんな今生の別れでもあるまいし、大げさな。まー好きで好きでどうしようもないときは片時も離れたくなくなるものだけどさー」


 頬を染めて頷く明里を見て、錦は「夫婦仲がいいなら、なによりだよ」と微笑んだ。


「でもちょうどよかった。予定が早まって明日にはふき産屋うぶやに移る予定だから。わたしもお産には立ち会うつもりだけど、明里がいるなら蕗も少し安心するかな」

「錦も来てくれるの?」


 錦は女衆のまとめ役で娘たちの様子にも気を配っていたが、赤子の取り上げまで手助けしているとは知らなかった。


「うん、産婆のばあさんも年だからね。お手伝い?」

「そうなんだ。ありがとう、私にできることがあったら言ってね」


 錦は微笑んだ後、真剣な顔をした。


「親族がそばにいるならちょっとは心強いでしょ。初めてのお産で不安だろうし、ついててやってよ」


 と、明るく明里の肩を叩いた。



****



 明里が産屋に籠って三日ほど経ち、千影は巫女に連れられて社に移っていた。


「俺は家で明里を待つつもりだったんだ。世話なんぞ頼んでいない。家を守らねば明里に合わす顔がなくなる」

「明里の家でしたら、ご近所の方が見てくださっています。どうぞ、お気になさらず、ごゆるりとおくつろぎください」


 座敷の脇息きょうそくに頬杖をつき、千影はため息をついた。


「そういえば、この村の産屋は社のそばにあるのだな。物珍しいことだ」


 血の障りの娘を隔離する仮小屋は、本来なら村境などの村外れに位置するが、稲川村いながわむらでは社の脇に人目につかないように、ぽつん、と建てられていた。


「今の長老さまがお決めになったそうです。社のそばのほうが、産神うぶがみさまのご加護があるから、とか」


 あの長老殿が加護を? と千影が怪訝な顔をしたので、巫女は言いにくそうに言葉を選んだ。


「表向きです。そういう理由なら、村中に産屋うぶや──忌屋いみやを置いてもよい方便になりますから。本当は、母親や赤子になにかあった際にすぐに駆け付けられるから、が理由だと宮司が申しておりました。うまく神様をお使いになられる方だと。この村の長老さまは変わっていらして」

「ああなるほど、長老殿は神仏よりも村の者を大事にしているのだろう。なんとなくだが、分かるよ」


 千影は特に気分を害した様子もなく納得した。巫女は目をすっと細めた。


「ところで、幻神さま、またなにか神性が落ちるような真似はいたしませんでしたか?」


 ぎくり、と千影が肩を揺らす。千影は思わず口元を衣で隠した。肉を口にしたこと、巫女は知らないはずだが、巫女は眉をひそめていた。


「怒るな、致し方なかったんだ。結果的にはよかった。明里が俺のことを好きになってくれたんだ。それなら全部チャラだろう?」


 そう言って千影は思い出したように、頬を染めた。


「ああ、本当に夢のようだ。明里が俺を求めてくれるなんて。あんまりにも可愛くてうっかり手を出しかけた。なんだあれは。新手の神殺しかと思ったぞ」


 巫女は押し黙る。蕗のように辟易するわけでも、錦のように微笑ましく見守るわけでもなく。ただ、恋に酔う神様を黙って見ていた。


「帰ってきたら、もう絶対に離さんぞ。すぐに妻にして天界に──と思っていたが少し惜しいな。せっかく、村にも馴染んだところだ。期限の年明けにはまだあるし、明里と一緒にもう少し村にとどまるのも、」


「幻神さま」


 熱に浮かれた声を冷えた声が制した。


「明里の同意が得られたのなら本当に良かった。明里のみが明けたらすぐに娶って、天界にお帰りください。身に穢れがたまりすぎています」

 

 巫女はぴしゃりと、言い放つ。


「何度、定め事を破りましたか? 禁止されていることを何度も破っては縛りの意味がなくなる。カタチを持たないあなた様が一個人になること、神様が個人名を得ること。これだけでも充分神性は落ちる──『神様』から遠のいていく」

 

 千影はすっと表情を消し、目線を下げた。


「それだけならまだしも。あなた様はしなくていい定め事まで破り続けました。人殺しの鬼が人助けばかりしていたら、それは鬼と言えますか? 御仏みほとけが殺戮を繰り返したら、それは仏と言えますか? 規律を破るとはそういうことです。”存在の定義”が揺らいでしまいます。神でも人間でもあやかしでもない、そんな存在に堕ちてしまいます」


 巫女は凛と前を向き、千影に真剣に言葉をかけ続けた。恋するあまり──地に落ちたばかりに、『神様』のことわりから外れかかっている千影を憂いて。

 

「『神様は穢れてはいけない』のです。だから、あなた様は血にも死にもまみれてはいけない。穢れてはいけない。どんなに村に受け入れられようと、あなた様は神様。その一線だけは引くべきです。当初はあれほど千冬の遺灰を──死の不浄を、嫌がっておいででしたのに、あなた様は近頃、血にも死にも抵抗をなくしておられる。気がかりです」


 千影は立ち上がり、縁側の障子戸を開けた。枯れたイチョウの林の奥、産屋の方向を見つめた。


「‥‥それは、まあ。理解できてしまったからな。千冬の遺灰は俺にとって確かに厄介な代物だが、穢らわしい不浄の塊ではなく、明里の想い人の遺品だと、今なら分かる。明里があんなに大切にしているものが、穢れだとは思えなくなってきて──俺だって、もし今明里を亡くしたら、きっと形見だろうが遺体だろうが縋ってしまいそうだよ」


 縁起でもない言葉に巫女は顔を顰めた。それに、と千影は視線を細める。


「血も死も人間であるなら、誰だって当たり前に内包しているものだろう」

「あなたは人間ではありません、幻神さま」


 はっきりと釘を刺され、千影は苦笑した。


「……分かっている。明里と一夜過ごしたらすぐに天界に行く。明里の思い描く住まいはきっとこの村だろうな。面倒で、厄介で複雑などこにでもある共同体。けれど、いくら明里がこの村を夢見ようと清治せいじも、にしきも、ふきも、巫女──お前も。全部マガイモノだ。それが少し、つまらなく感じただけだ」


 本当に寂しそうに千影が肩を落とすものだから、巫女はそこで初めて言葉に詰まってしまった。


「……ともかく、せめて社にいらっしゃる間は、少しでも清浄に保ってください。お食事も、神饌所しんせんじょの新鮮なものをお出しいたしますから」


 腕組みした千影は途端にしかめっ面した。


神饌しんせんなあ、味気ないんだよなあ」

「はい?」

「明里の食事は色んな味がするんだぞ。たくさん食べたんだ。同じ塩味でも全然神饌の供物とは違う。どうしてあんなに変わるのか。俺も真似してみたのだが、うまくできなかったな」


 つみれ汁を作ったのだが、味付けが全然分からないんだ、とわけのわからないことを言われ、巫女は戸惑う。


「俺が気に入った食べ物もどうしてか分かるらしい。俺ですら気づいてないのに、すごいよな。理由を聞こうと思っていたのに障りになってしまい残念だ」


 うーんと千影は思い悩んでいるようだった。


「俺も明里の好きなものがもっと知りたい。肉が好きなことには驚いたが、身のある食べ物のほうがいいのだろうか? 魚は正解だったらしいから、次は何を──」


 唐突に千影が黙った。「幻神さま?」と巫女が怪訝な顔をする。


 千影の目は瞳孔が広がり、瞬き一つせず、産屋のほうに身を乗り出した。


「明里の悲鳴がする」


 ジャの目に変状した瞳は、金色に光ることはなく、蒼色のまま、林の先を凝視していた。


「……? なんだ、うまく声が聞こえない、」

「幻神さま、いかがされました?」

「……ふき? 産まれたのか、いや……しかし、」


 巫女の問いかけに答えず、注意深くなにかの気配を追っていた。そして、唐突に目を見開き、


「──赤子の産声が、聞こえない」


 弾かれたように千影は駆け出した。

 枯れ葉が舞い、一瞬にして、林の中に姿を消してしまう。

 唖然としていた巫女は瞬時に我に返り、慌てて声を荒げた。


 千影の向かう先、その場所に気がついて。


「お待ちください! いけません、幻神さま! 産屋うぶやに──忌屋いみやに、近づいてはいけません!」

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