終章 神殺し
第43話 千の影①
「それで、俺はいつ明里を娶れるんだ」
むっすりと不貞腐れて、千影は胡坐の上に頬杖をつく。
巫女ははあ、と息をつき、機嫌の悪い主を見やる。左上半身の傷跡はくっきり刻まれていたが、傷は塞がりすっかり快癒していた。寝込む以前よりむしろ、血の通った身体はしっかりとした肉厚すら感じる。
十二月下旬。
しん、とした空気が肌を締め付ける。
社の座敷で、療養中ずっと身に着けていた夜着を脱ぎ、千影は露草色の水干を身にまとう。
「お前の目から見て、俺の神性はどれほど残っているのか。明里の
その言葉を聞いて、巫女は目を瞬かせた。
「幻神さま、ご自身の神性がどれほどなのかも分からないのですか」
千影は腕組みし、居心地悪そうに視線をそらした。
「分からない──が、十二柱の神々が贄を娶るまでの期間は、お前も知っているだろう? 俺が地に降り立った六月から年が明けるまで。もう年の瀬だぞ。新年を過ぎれば俺はもう天界にも戻れない。時間がない」
「無論、それだけの理由ではないけど、本当に待てないのだけれど」と、千影がむっすりと眉を潜ませる。
「想いあって、ひとつ屋根の下にいて、手を出すなとは拷問なのだが。いっそのこと、明里と離れて社で暮らしたほうが楽かと思ったけれど、それはそれでつらい」
ぶちぶちと色惚けた愚痴を垂れ流す。千影は見舞いに訪れた清治にも同じような愚痴をこぼし呆れさせていたが、巫女は笑わず、揶揄することもしなかった。
「……実のところ、破瓜の血の穢れであなた様が死ぬとかそういうことではないのです。人間である明里と交わる。混ざる。重なる。一線を越える。契るということは、今まででしたら贄側が神様側に近寄るための行為でしたが、血に馴染み人に馴染んだ今のあなた様は、明里側に引きずられるでしょう。明里の血の穢れに触れ、明里と交われば……それが最後の引き金になり、」
言葉を区切り巫女は千影を見た。傷のついた左半身とは違い、綺麗なままの、神様のままの青い右目を。
「右半身の神性は失せて、おそらくは『人間』といっていい存在になる。あなた様がそうなりたいのなら、私に止め立てする権利はありません」
巫女はすっと目を細め。
「ねえ、幻神さま」
不思議な眼差しを向けた。懐かしむような。親しむような。切ないような。
「あなた様はこの地が気に入っているとそうお見受けしました。村人もあなたを受け入れている。それでも、まだ神様として天界に戻りたいですか?」
千影はその不思議な目の色を見つめ返した。
「……さあ、どうだろうな。『幻神』に愛着があるわけではない。なりたくて、なったわけではないからな。いっそのこと目が覚めたときにすべての神性が失われていたほうが楽であったが。それでもまだ、多少なりとも神性が残っているなら、そう簡単にやめるわけにはいかん。こんななりでも、千年は続けてしまったからな」
千影は右目を押さえる。人間の左目とわずかにずれた視界。
「十二柱が欠けるということは、輪が欠けるということ。信仰も支配も、千年続いた地盤を崩すということ。俺が完全に人間になってしまえば、この村は『幻神』を消した
それに、と千影はため息をついた。
「俺は水神としての性質も持ち合わせている。水の信仰というのはつまり、水を神聖視して、水を大事にする、清潔に保つこと。その考えを広めること。何を当たり前なことをと、そう思うかもしれないけれど、その常識が常識のまま伝わっていくことが重要なんだ。水が穢れれば人も地も病んでしまうが、そういう理屈を説くよりも。“神様がそう言うから”、“
だから、俺はお飾りだろうが神でいなければ。例え出自が得体の知れぬ異形であろうと──そう千影は自嘲した。自らの在り方が明らかになり、神秘も魔性も取り攫われた千影の言葉は。神様が語るにはあまりにも現実的な話だった。
「‥‥その考え方自体があまりに人間的です。幻神さま」
千影は苦笑した。
「仕方ないだろう。こうまで人間に寄ってしまっては。でもだからこそ、水の信仰が途絶えて人間が
寂し気に本音を漏らした千影はすぐに、本心を呑み込んだ。
「ちゃんと折り合いはつけるから。ちゃんと神様とやらは続けるから、だからせめて──明里だけは、連れて行くのを許してほしい」
許すだなんて。巫女はそう言いかけて、口をつぐみ。
つぎはぎだらけの、神様を見た。
結局、この神様は──この人は、誰かのために、なにかを演じる。その在り方から逃れることはできないのか。
「もし、あなた様が神様のまま明里を娶れるとしたら、それこそ期限の最終日。大晦日の晩。年明けの朝しかありません。一年が終わり、新たに再生する新年。その境はすべての神々の神気が満ちる。一年でもっとも清浄な日。その夜でしたらあなた様の神気は一時的に戻り、明里を天界に連れてゆけます」
巫女は主の願いを聞いた。それがいいのか悪いのかも、分からなかった。
巫女の話を千影はそのまま明里に伝えた。
明里は呆気なく、承諾する。
「私、あなたに告白したときに覚悟は決めたので、天界でも地上でも、あなたが神様でも人間でも、どっちだってかまいません。千影さまに置いて行かれるほうが怒ります」
と明里が迷いはなく答えるので、千影は逆に気が抜けてしまった。
久しぶりの明里の家での夕食を終え、囲炉裏の火だけを灯して、二人は身を寄せ合っていた。
「天界ってどんなところなんですか? 他の十二柱の神様にも会えたりしますか? 千影さまを神様に選んだっていう
冬の夜。ぱちぱちと薪が焼ける音だけが響く静かな晩。
「……
千影は渋い顔をしたが、明里は譲らなかった。
「でも、千影さまを助けてくださったならやっぱり恩人です。ご挨拶したいです。それに神様がいるなら、私と同じ伴侶の人間だっているんですよね?」
「それはもちろん。すべての神と贄に会えるわけではないがな。贄の寿命は天界でも変わらないから。前回の十二年前の儀式は、五月の
ちょっかいをかけてくる神もいるんだ、と千影は嫌そうな顔をした。
神様の話は物珍しいので明里は興味深そうに耳を傾けていた。
「
そうなんですか、と明里は頷く。千影は明里の黒髪を愛おしそうに長い指で梳いた。
「明里は天界に行ったら、どんな場所に住みたい。お前の望む住処を俺が形作ろう。貴族が住まうような豪華な屋敷でも、武家のような大きな城でもなんでもいいぞ」
幻術によるマガイモノだけれど、と千影は自嘲したが、明里は気にせず、少し悩み。
「ちょっと憧れますけど、なんだか向いてなさそうです。なんでもいいなら、やっぱりこの村のこの家がいいかな。天界でも、この家があるなら少しほっとします。千影さまのお力はやっぱり贄のためなんですね」
姿形だけはなく、住処まで贄の望むもの描く。優しいまぼろし。
明里は純粋に褒めたのだが、千影は「……そんなにいいものではなかったけれど」と微笑んだだけだった。
「……千影さまは?」
明里は自分を優しく抱きしめる、千影の左手に触れ。
「千影さまはどんなところに住みたいですか?」
「……俺?」
思いもよらぬ提案に千影は目を瞬かせた。
「だって二人で住むのなら、千影さまの希望も聞いたほうがいいんじゃないかと思って」
もじもじと明里は頬を染める。千影は嬉しそうに明里に頬ずりし。
「考えたこともなかったが……そうだな。俺もこの村の、明里の家がいいな。一番馴染む感じがする」
「よかった。じゃあ、決まりですね」
明里はにっこりと微笑み、千影の胸元にすり寄る。
「天界はちょっと怖いけど、千影さまと一緒ならどこだって大丈夫です」
「……明里」
千影は身を震わせたあと、力いっぱい抱きしめる。明里の黒髪に顔を埋め、その頬を手で包み、ゆっくりと唇を重ねた。答えるように明里もその広い背に腕を伸ばす。寸分も隙も無く密着する。想いが通じてから触れ合うことも前よりずっと自然にできる。
そうして、しばらく、くっついたり、離れたり、激しくなったり、緩やかになったり、そんな口づけを繰り返した。一向に口づけの雨が止まないので、明里は息切れし、
「……あの、千影さま、そろそろやめないと」
「……もう少し」
「で、でも、さっき大晦日の晩まではだめって千影さまが、」
千影は声にならない唸り声を上げた。
「……それはそうなんだけど、……ああ、もう本当に拷問のようだ。頭で分かっていても身体がついていかない。今までよくも平気でひとつ寝していたものだ。俺の隣ですやすや寝ていたお前もお前だが、俺も俺だ。何故呑気に寝られていたのか。自分でも理解できない」
子供のままごとか、と本気で漏らすので、明里は笑ってしまった。確かに仮初めの夫婦というよりは二人が行っていたのはおままごとだ。一緒にご飯を食べて、一緒に寝るだけの。夫婦や家族の模擬。けれど、きっと二人には必要な時間だったのだと明里は思う。
「もう絶対、絶対に大晦日の夜、なにがあっても、契りを交わそう。待てと言われても聞かないからな。約束だぞ」
そんなこと言うつもりもないが、明里は千影の胸に再び顔を埋め。
「はい、約束です。私が泣いてもわめいても、やめないでください」
と笑った。
***
村境。川のほとり。底冷えする冬の夜。
小さな祠の前で巫女は一人、立っていた。
観音開きの扉を開ける。その中には古い銅の鏡。そして、明里から預かった千冬の遺灰が隠されていた。
闇夜の中。行灯を掲げると、鏡にぼんやりと巫女の顔が浮かび上がる。その顔に向かって巫女は話しかけた。
「本当に、長らくお身体をお借りして申し訳ありません──巫女さま」
巫女の目が──蒼色に光る。たおやかな巫女の声と別の声が重なった。
それはまるで、幼子のような無垢な声。
「……どうすればいいのか、ずっと決めかねていて。あの方のお役に立ちたいのに。ご恩をお返ししたいのに。なにがあの方にとって最良なのか分からなくて。こんなに長く魂を同居させて頂きました」
巫女は──巫女に
「この『
鏡に映る巫女の目を見据えたあと。「……いいえ、そうじゃありませんね」と
「……本当はきっと親離れしたくないだけです。
冷たい風が吹き抜ける。返答もない独り言をつぶやきながら、“巫女”は苦笑した。
「けれど、それももう終わりです。実は答えは出ているのですが。もう少しだけ、お身体を貸してくださいませ」
と、“巫女”は鏡に向かって一礼し、丁寧に祠の扉を閉めた。
──その瞬間。
ゾワリと鼻をつく腐臭がした。肉の腐った匂い。髪の焼けた匂い。
身体中が、見るのも聞くのも嗅ぐのも拒絶する存在。
「──なんだあ? 幻神の気配を追ってきたのに、幻神じゃねえじゃん。巫女、お前何者だ?」
「……あなたは」
“巫女”は目を見開き、怖気のあまり鳥肌を立たせた。
腐食にまみれた祟り神は、ニタリと切り裂かれたような笑みを浮かべた。
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