まぼろしの恋

ちづ

1章 神様の上面を破壊する

第1話 蜃気楼



 千冬ちふゆが亡くなった。


 雨の降りしきる六月の頃だった。その年の雨量は例年よりも少なかったというのに、突如降り続いた雨は止む気配を見せず、七日七晩村を侵食した。


 都よりはるか遠く、その日その日の暮らしをどうにか賄ってきた小さな村には致命的な雨量だった。村の生命線とも言える川が溢れ返るのは時間の問題で、彼は村の数少ない男衆と橋を補強しに行って、足を滑らせたらしい。


 よくあることだ。小さな村で起きる自然災害のひとつ。それに彼は巻き込まれた。彼を飲み込んだあと、ほどなく雨は上がり、嘘のように晴天になった。


 そのせいだろうか。水位の下った村外れの川の下流で彼は見つかった。

 

 遺体だけでも見つかって運がよかったという者もいれば、あの亡骸を見るくらいなら行方不明のままでよかったという者もいた。心臓は流木で串刺しにされていた。岩肌に削られた身体は、あまりに無惨であのたくましい腕も、大好きだった日に焼けた褐色の肌も見る影もない。彼が流されたという現実味のない報せが今目の前に現れて、頭が真っ白になった。


 ただ、不思議なことに顔だけは擦り傷ひとつない綺麗なままだった。


 そのちくはぐさに目眩を覚える。今にもあの明るい声が聞こえてきそうな表情で、静かに瞳を閉じていた。村の誰かが言った。


──幻神げんしんさまの御慈悲だろうか。あの方は“顔”を大事になさるから。


 それは幼い頃、子守唄変わりに聞かされた十二の神様の内のひと柱。六月の神様の名前。


 でも、村人の言う、慈悲の意味はよく分からなかった。大事にするというのなら、命を大事にしてください。神様だというのなら川に飲まれた彼を助けてください。──なんて、見当違いの八つ当たりを息をしていない彼の胸の上で泣き叫び続けた。


 それがひと月後には祝言をあげるはずの、わたしの幼なじみの最期だった。

‥‥‥‥

‥‥‥‥‥


 ざあざあ。雨粒の音。

 幸いにして、“あの日”のような叩きつける雨音ではない。けれど、明里あかりは不安に包まれた。一年前から、この世でもっとも苦手な音になってしまっていた。特にこの時期の雨は苦手だ。あの冷たくなった身体を思い出してしまう。


 それでも、雨が降るたび泣き伏していたころより今はずっとマシになったのだ。重い身体を起こして明里は息をついた。のろのろと身を起こし、水瓶で顔を洗う。枕元に置きっぱなしの貝に入った紅とおしろい。村の長者からの借り物だ。返してこなければ。


 昨日は従姉妹の祝言だった。その支度に使った化粧道具をぼんやりと眺める。年頃になればこの地域の娘は当たり前のように嫁いでいく。村中でそのまま夫婦になる者もいれば、隣村まで赴く者、はては都に上がる者まで様々だ。


 明里もそうなるはずだった。それなのに、明里だけが取り残された。一年前に相手を亡くした明里を慮って村人も強く嫁入りを勧めなかった。   

       

 中には「まだまだ若いのだから相手はいる」だの「明里には未来がある」だの、あれこれお節介を言う者もいたが、基本的には親切心だ。何も言わず、笑ってごまかした。ただ、死者の口を借りて「千冬さんも明里ちゃんの幸せを望んでいるはずだから」と、言われるのだけは耐えられなかった。死人の考えは誰にも分からない。都合よく生者が歪めないで欲しい。千冬の口以外から千冬の考えなんて聞きたくもなかった。


 白無垢の従姉妹に塗ったおしろいと紅。今はまだ自分が紅をさす姿はとても思い描けそうもない。雨足が強まる前に、ちゃんと返してこなければ。傘はあっただろうか、と家の戸口に立つ。


 そして、信じられないモノを見た。


 雨の中、ゆらゆら、ゆらゆら。


 浮かんでいる人影は雨のせいか、輪郭が歪んでいる。それでも、明里が見間違えるはずもない。柔らかい笑み。優しい眼差し。快活な声。日に焼けた身体。一年前に失くしたすべてがそこにいた。


 ぐらりと、目眩が起きた。

 これは夢だろうか。夢でもいい。 


「──っちふゆ!」


 声に出した途端、気がついたら走りだしていた。夜着に泥が跳ねるのも気にせず、その幻影に近づいた。

 ゆらゆら、ゆらゆら。消えてしまいそう。消えないで。

 今にも霧散しそうな身体を縫い止めたくて勢いよく抱きついた。触れた身体はしっかりとした重量でその地に立っていた。


「ちふゆ、ちふゆ」


 抱きついて、涙を流して、名前を呼ぶ。そうすればそうするほど、その幽鬼はカタチを成していくようだったから、必死に名前を呼び続けた。両手で頬を包む。目が合う。とにかく確認したくて顔を近づけすぎて、思わず唇が触れ合ってしまったが、瑣末なことだ。きちんとした感触が返ってくるのが嬉しかった。

 脳内は依然混乱したまま。ありえない、ありえない、ありえないと頭のどこかで繰り返していた。


「──あかり」


 でも、その声も身体も寸分も違わなかった。

 激しい雨音で聞き取りづらかったけれど、懐かしい彼の声だ。冷静な判断ができない。この手で死に水をとったはずなのに。確かに、煙になった彼を見たはずなのに。


 でも、いる。ここにいる。


 頭はなにかの警告のごとくおかしいと叫んでいたが、身体が追いつかなかった。彼から離れたくなかった。この夢を少しでも長く見ていたかった。だから、明里は気がつかなかった。しとどに明里を濡らす雨の中で、彼が一滴も濡れていなかったことに。


 血だらけだった腕を確かめて、えぐれたはずの胸に頭を埋めて、最後に、綺麗なままだった顔をもう一度見上げた。 

 生前となにも変わらない明るい表情で、その幻は微笑んだ。


「──ああ、カタチをエた。コエをエた。名前をエた。オレは俺を手に入れた。お前がくれた俺になった」


 急に全身が強張った。熱い涙が急速に冷えていく。背中に悪寒が走る。


 身体の輪郭がぼやけていたのは雨のせいじゃない。本当に歪んでいたのだ。声が聞き取りづらかったのは雨音にまぎれていたからじゃない。声帯から発されていなかったからだ。今更気づいても遅い。それらが今すべて調整された。 

 今、目の前でなにかが生まれ、形作られた。


「さあ、明里。迎えにきた。俺と一緒になろう。俺と添い遂げよう。俺と、一緒に──カミの国に来てくれ」


 それは千冬の口から紡がれた、千冬ではないなにかのおぞましい愛の言葉だった。

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