第2話 水禍
村は大騒ぎになった。
一年前に亡くなった青年が還ってきたと、狭い村の中はすぐに沸き立った。奇跡だと喜ぶ者、祟りだと恐れる者、
十二柱の神様。贄。伴侶。──六月の
月が本来の位置に戻る頃、その生まれ月の若者が神の贄に選ばれる。
地上に顕現した神と土地の贄は一夜過ごしたのち、贄は天界に迎えられ、神の伴侶となる。
この國に生まれれば、必ず耳にする習わしだ。滅多にないことではあるが、青天の霹靂というほどでもない。数十年に一度の儀式のようなもの。地域の差はあれど贄に選ばれるのは基本的に名誉とされる。少なくともこの村ではそうだ。選ばれた村には贄を捧げる代わりに恩恵が与えられるからだ。
例えば、戦を司る八月の
「──といっても俺は地味なもので、できることといえば、水を豊かにすることくらいか。この娘が生きている間は水難にあうことはないだろう」
「地味だなんてそのようなこと。この村には十分すぎるご加護であります」
日照りや水害に悩まされないなら、ありあまる恩恵である。水は生命の源なのだから。
畏まって頭をさげる村長に、幻はからからと笑った。千冬そっくりの人を喰ったような笑いだった。
「そういって、加護に胡座をかいて、加護がなくなった途端に立ち行かなくなった村もあったぞ。せいぜい気をつけることだな。それでは恵みなのか祟りなのか分からん。あまり、俺の名を落としてくれるなよ」
懐っこい笑みで、事も無げに言う。とても神霊とは思えない。宮司はひとつ咳払いをした。宮司から見ても、その立ち振舞いは一年前に亡くなった青年にしか見えなかった。
「お話を聞く限り、本当に
「そうだ。今回の贄であるこの娘が、俺をこう見た」
幻が視線を向けた。明里はびくりと肩を揺らして、巫女の背に隠れる。
「俺は他の神と少々カタチの取り方が異なっていてな。水や幻惑を使う代わりに、本来の自分を持たないのだ。だから今この男の姿を介して話している。許せよ」
千冬の声で、千冬の身体で、理解できない言葉が出てくる。無造作に投げ出した手足や、村の年役相手に気どらない態度で接する仕草までそのままだというのに、千冬ではない。頭が混乱した。
つまりは、贄を伴侶に選ぶ年に、この村の水無月生まれの明里が選ばれ、明里が望んだ千冬の姿で幻神は現れた。ただ、それだけのこと。
その簡単な理屈がいくら説明を受けても受け入れられなかった。右腕は岩肌で削がれていた。厚い胸板は流木でえぐれていた。その身体がなにひとつ欠けることなく元通りなのが今は恐ろしくてたまらなかった。
「この娘が婿を失くしていたのは、ちょうどよかった。望む姿が明白でないと、俺の幻惑は揺らいでしまうのだが、この娘の心は水鏡によく映る。形を為しやすかったぞ」
すっとその場の空気が冷えた。宮司や巫女が思わず顔をしかめる。幻神に悪気も悪意も感じない。ただ、無垢なあまりに鋭利な言葉は思いやりというものが決定的欠如している。
「‥‥ちょうど、よかった?」
それまで俯いていた明里が唐突に呟いた。振り上げられた手を巫女が制止する間もなく、ぱんっと乾いた音が響いた。
「‥‥な、んてこと。ちょうどよかった、なんて、なんでそんなこと言えるの!」
千冬は村のために水害に巻き込まれ、あんなに無惨な身体になったのに、どうしてまだこんな侮辱を受けなければならないのか。ぼろぼろと涙が止まらなかった。
「明里!」
宮司が明里を諌める。頬を叩かれた幻はきょとんと、叱られた子供のような顔をした。
「なにを怒る。明里」
目が合う。千冬そっくりのなにかと明里は目が合ってしまった。
「お前が、望んだんじゃないか。大事にするなら命を大事にせよと、」
「‥‥‥な、」
「恵みの雨も水害も、豊かな水の特性だ。それは仕方がない。だが、この男の胸を突き刺した流木は俺を祀る祠に使われたものだ。お前の嘆きはもっともだった。故に俺は今ここにいる。お前を贄に選んだのもそのためだ」
ぐわんと頭が揺らぐ。つまり、こうして千冬の姿を模した千冬ではないおぞましい生き物を生み出したのは、おまえのせいだ。そう言っているのか。
倒れかけたその身体を千冬の幻が掴んだ。生前と変わらない力強く、優しい手で。触らないで、と発した声は涙声で霞んでしまった。
「申し訳ございません。この娘は一年前にその姿の青年と祝言をあげるはずでした。混乱するのも、無理はないかと」
村長が取りなすように幻の機嫌をとる。明里以外、なにも目に映っていないように、幻は自身の贄を凝視した。
「知っている。だから、髪の毛一筋違わぬように、注意深く模倣した。なのに、まだ、なにか足りないのか」
昏倒した明里の身体を支え、血の気の失せた頬をなぞる。最初に出会ったときの熱い涙とはまるで違い、冷え切った涙を不思議そうに拭う。
「もっと、時が経てば俺はさらにこの男に馴染むだろう。そうしたら、この娘も喜ぶはずだ。亡くした相手が返ってきたのだから、なにも問題はないだろう」
「‥‥‥それは、」
その場の人間は皆沈黙した。なにか、致命的なかけ間違いをしている。しかしその場の誰も正すことはできなかった。
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