10 嘘
サーキットから帰ってきた僕たちは、いつも通りの豪勢な夕食を済ませ、日帰り温泉に入り、そして僕の自室で、兄貴の話をしていた。
「頭と胸を強く打ったとかで、意識は一度も戻らなかった。もう、ほとんど即死状態だったよ……」
「うん……」
あぐらをかいて座っている僕の前で、静かに、体育座りをした由美は聴いていてくれた。兄貴が死んだこと、それはもう耳に入っていたらしいのだが、僕が死なせたとまでは知らなかったそうだ。
……。
そう。
間違いなく。僕が。
「その後は――」
僕は続けた。
「葬式やって、警察の取り調べを受けた。事故ってことで片付いた」
駄目だ。
思い出すと、駄目だ。
どうしても、涙が止まらない。
「俺が、俺があの時……」
止まらない。止まらない。
押し殺していた感情が、堰を切ったように溢れ出る。
「ちゃんと走っていたら、あんなことにはならなかったのに。俺が後ろを走っていれば、俺が姉ちゃんを乗せていれば、兄貴は避けられたのに。俺が、姉ちゃんとの約束を破らなければ……!」
余計なことを、しなければ。
兄貴に、姉ちゃんの体のことを話そうとしなければ。
兄貴は死なずに、済んだのに。
兄貴が死ぬことは、無かったのに。
床が、僕の頭に降って来た――違う。僕が、床に頭を叩きつけていた。自分でも気がつかないうちに。それでも、止まらなかった。
「どうして俺は、どうして俺は、まだ、生きて――」
「誠二くん!」
と、覆いかぶさるように、由美に抱かれた。
「もういい、もういいよ」
ささやく由美。泣いている。泣いてくれている。
あの日のように。
母さんが死んだ、あの日のように。
僕は、由美の下で、床に頭をつけて、泣いた。盛大に、むせび泣いた。
小さな手が、僕の背中を優しく包む。
「……ごめん、兄貴。ごめん……姉ちゃん……ごめん……」
許されないのは、わかっている。
兄貴を死なせたこと、二人の子供を死なせたこと、それを許してほしいわけじゃない。
ただ、いま、由美に甘えてしまっていること。誰かを頼ってしまっていること。
……好きな人に抱きしめられていること。
そういう、生きている実感を感じてしまっていることを、どうか許して欲しい。
いまだけ、本当に、いまこのときだけだから……。
もう、僕は二度と。
幸せを得ようとは、思わないから――。
ありがとう、由美――。
お前のおかげで、ようやく、迷いが吹っ切れた。
もう、幸せは十分だ――。
翌日、八月二五日。
僕は家に帰ることにした。
さすがに、いつまでも家を開けていることは出来ない。
親父の疲労も、そろそろ限界だろう。
僕はバックパックを背負って、宿の門扉を振り返る。
おじいさんと、おばあさんと、それに由美が居た。僕を見送ってくれるらしい。
「いままで、本当にどうもありがとうございました」
僕は、深々と頭を下げて礼を述べた。
おばあさんは、やはりにっこりと笑って、またいつでもおいでなさい、と言ってくれて、その隣でおじいさんも、コクリと頷いてくれた。
由美だけが、泣きそうな顔をしていた。
そんな彼女に、僕は微笑んで、「ありがとう、な」と頭をくしゃくしゃと撫でてやる。
すると由美は、目いっぱいに涙を溜めて、僕を見上げた。
「また、いつでも帰ってきてね。待ってるからね」
ぎゅ、と僕の手を握る、小さな手。兄貴と同じ、バイクを、愛する手。
「ああ」その手を握り返して、約束した。「また、きっと帰ってくるよ」
待ってるからね、ともう一度繰り返す、由美。
そうして僕は。
夏の、二週間あまりを過ごした思い出の宿を、後にした。
ごめんな、由美。
僕は、嘘をついた。
もう、帰ってくることは、無いんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます