9 兄貴

 兄貴の話をしよう。

 一ヶ月前のあの日、メールで兄貴を呼び出したあの日。夜のうちに家を出た僕は、適当な健康ランドで仮眠を取り、日が昇らぬうちに、峠へと赴いた。

 時刻は三時。約束まで、あと二時間ある。

 僕は、誰も居ないはずの頂上へと向かった。

 しかし。

 兄貴は、すでにそこで待っていた。

 駐車場の、兄貴とは離れた位置にバイクを止め、ゆっくりと近寄る。

 そうして気がついた。[R]の傍らに居る人影が、ひとつで無いことに。

 そこには、家で寝ているはずの姉ちゃんがいた。

 ジャケットを着て、地べたに体育座りをして、傍らにヘルメットを置いて、兄貴と一緒にいるのに、やけに、寂しそうに、姉ちゃんがいた。

「どうして……?」

 呟くことしか出来ない。

 何でこんな所に姉ちゃんがいるんだ。これじゃあ、何も……。

「俺が連れてきた」

 バカ兄貴がそんなことをほざく。

 何言ってんだ。姉ちゃんのことで話があるって言っただろう。それなのに、本人を連れてくる奴がどこにいる。

 ただでさえ渦巻いていた暗い感情が、怒りという色に変わり、僕に兄貴を睨ませる。

 しかし、それを見透かしたように、

「違うの」

 姉ちゃんが遮った。

「私が、一人で走りに行くっていう兄貴に着いてきたの」

「姉ちゃん……」

「ごめんね、誠二。ありがと。でも、お姉ちゃんは大丈夫」

 姉ちゃんは、にっこり笑った。

「ちゃんと自分で、言えるから」

 自分勝手な憤りで、約束を破ろうとした僕を責めることも無く、泣きはらした目を細めて、にっこりと。

「……でも……!」

「大丈夫。だから、ちょっと待ってて」

 そう言って、姉ちゃんは兄貴に向き直る。

「兄貴、ちょっと、来てくれる?」

 兄貴は、ほんの少しだけ逡巡した素振りを見せ、僕を伺う。

「いいのか?」

 目を逸らすことで、肯定を表した。

「……わかった」

 いつもの、馬鹿みたいにヘラヘラした兄貴ではなかった。けれども、いつも通りでもあった。姉ちゃんのことになると、こいつはいつだって目の色を変える。本気になる。だからこそ、許せないのだ。そんなに大切なら、どうしてもっと、大事にしてやらないんだ……!

 姉ちゃんと兄貴は、駐車場の端へ歩いていき、座った。そこは眼下の街が見渡せる展望スペースになっている。

 日中であれば、遊覧船が渡る巨大な湖と、そのほとりにある温泉街、その先には富士山が望めるはずだ。

 しかし今は、ただの暗闇。湖も街も山々も、ただの影。

 ぽっかりと開いた、黒い穴しか見えないあの場所で、あの二人は、いったい何を話すというのだろう。

 そして兄貴は、姉ちゃんは、いったいどんな決断を下すのだろう。

 時折上がる、姉ちゃんの笑い声。

 まだ、話は核心に至ってないらしい。

 眼下の街並みは暗くても、見上げれば、星々は明るく輝いている。

 いまこの瞬間は、姉ちゃんは幸せなのかもしれない。そう考えれば、それは救いのあることだった。

 二人の背中を見ながら、僕はまた蚊帳の外だな、とふと思った。

 

 それから二人は、ずいぶん話していた。

 すでに、夜が明けてきていた。

 朝日を浴びながら、姉ちゃんが立ち上がると、背伸びををした。兄貴の方に向き直り、話しかける。兄貴も立ち上がった。

 そうして二人は、手を繋いだ。

 ぎゅっと、手を繋いだ。

 聞いたわけでもないけれど。

 そんな機会は二度と訪れないけれど。

 僕は、何となく、二人の出した答えがわかった気がした。

 初めて、二人を許せる気がした。

 そして。

 それで終わりだった。


 二人が僕の所に戻ってきて、姉ちゃんが先ほどと変わらない笑顔で言う。

「帰ろっか」

 僕は何も聞けなかった。

 秘密を抱えてから、どれくらいの日々を、この人は一人で過ごしてきたのだろう。悩んできたのだろう。

 そして今日、弟の口からそれが漏れそうになるや、ついに自分で決着を着けることを決めた。

 多分、あれは、相談ではなく、告白。

 一方的に、告げたのだ。

 そうすることによって、終わらそうとした。

 しかし、そうはならなかった、と思う。

 兄貴が。

 兄貴が、終わらせなかったんだと、思う。姉ちゃんの決意に見合う決定を、下したんだと思う。

 だから二人は、手を繋いだんだ。

 だから姉ちゃんは、笑っていられるんだ。

 だから、何も聞かなかった。

 僕が先頭を走って、兄貴は姉ちゃんを[R]の後ろに乗せて、峠を下っていく。

 古いアスファルトの路面は、ところどころ、ひび割れている。山側の道には溝があり、うっかり近寄りすぎるとタイヤが挟まってしまうのではないかと、不安になる。一方、谷側の道はガードレールが無い箇所もあり、土と落ち葉の柔らかい地面が剥き出しになっていて、こちらもタイヤを滑らせそうで怖い。

 とは言うものの、走り慣れた道だ。早朝で、車両も少ない。何の問題も無かった。

 いつだったか、兄貴と勝負するために目を付けていたコーナー。僕が得意とし、兄貴が唯一、走りのリズムが崩れるというコーナーに差し掛かった。

 そこはブラインドコーナー、つまり、カーブの出口が、山壁に遮られて見えない場所だった。見通しが悪い。曲がってみないと、何があるかわからない。例えばコーナーの先に、落ち葉や枝木なんかが道を塞いでいたりしたら、転びはしないまでも、なかなかのスリルを味わうことになる。

 峠には、そういったブラインドコーナーが、それこそ、山ほどある。だから、走る際には必ず危険予測を行う必要になる。

 しかし――。

 走り慣れた道だった。

 早朝で、車両が少なかった。

 得意なコーナーだった。

 油断していた。

 危険予測を、怠った。

 落し物なら、まだ良かった。

 ブラインドコーナーの先からは。

「…………なっ!」


 二台の車が壁となって迫ってきた。


 恐らく――後続車両が追い越そうとしたのだろう。片側一車線の道路を、二台の乗用車が併走して上って来ていた。当然、追い越しをかける車は加速中である。

 ただし、逆走しながら。 

「このっ……!」

 このままでは正面衝突である。僕は反射的に逃げ道を山側に探す。それが、僕の目の前に迫る車のドライバーに伝わったのか、僕らは運よく、お互いの逆方向へ進路を取ることに成功した。

 僕は山側へ。

 車は谷側へ。

 僕は対向車線の車と、逆走してきた車の間をサーカスのごとく擦り抜けた。間一髪。助かった。しかし。

 僕のすぐ後ろを走っていたバイクは、僕とは逆方向へ逃げ道を取っていた。

 谷側へ。

 つまり、逆走車と、同じ方向へ。

 それに気がついたのは、鈍い衝突音が背後から聞こえたのと、同時だった。

 姉ちゃんを後ろに乗せた兄貴の[R]は、逆走車と正面衝突し、ボンネットを直撃し、フロントガラスを叩き割り、車の上空をくるくると回り、反対側へ落下した。巴投げのように、車の前から後ろへ飛んでいった。

 僕が、油断し、危険予測を怠り、そして山側へ逃げたことで、結果的に逆走車を谷側へ誘導した、そのせいで。

「あああああっ!」

 僕はわけのわからない絶叫を上げて、すぐにバイクを止めて駆け寄った。声を出さなければ精神がどうにかなってしまいそうだった。それくらい、絶望的な予感が胸を支配していた。

「姉ちゃんっ! 兄貴っ!」

 谷側の、土が露出した柔らかい地面の上に、姉ちゃんは横たわっていた。すでに体を起こそうとしている。良かった。意識はあるらしい。

 [R]が、停車している逆走車の後ろで、からからと後輪を回していた。前輪が曲がり、カウルが酷く擦れていた。

 そして、そして――。

 逆走車のボンネットに。

 兄貴の体が仰向けに乗っていて。

 腕が、だらり、と垂れて。

 ゆっくりと、地面に落ちた。

「兄貴!」

 僕の、兄貴が倒れていた。

 駆け寄って、声を掛けたが、ぴくりとも、動かなかった。

 サイレンと、姉ちゃんの泣き声だけが、やけに耳に残っていた。

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