16 グランプリ

 関東グランプリ、当日。

 山から降りてくる風に、『関東グランプリ』の青いノボリが誇らしげにはためく。

 燦々と照りつける太陽の下、駐車場兼パドックは参加者たちのバンで一杯になり、焼き鳥やクレープ屋といった出店も並んでいる。

 まさに――お祭り騒ぎであった。

 由美がいたら、さぞ喜んだろうに……と思ってしまう。

 コース上では、ビギナー・ミドル・エキスパート・エキシビジョンの順番で練習走行が行われる。一巡した所で、次は同じ順番で予選走行。タイムアタックである。この結果で、決勝レースのスタートポジションが決定する。

 練習・予選走行とも終えた僕は、程々の結果……エキシビジョンクラス参加十五台中、五番手のポジションに着いた。トップは大方の予想通り、宗太だ。

 そして、タイムスケジュールは、決勝レースへ移行する。

 ビギナー・ミドルクラスが終了し、いよいよ関東グランプリ『プロ登竜門』と呼ばれる本命クラス。

 エキスパートクラスの決勝レースが始まった。

 だが――荒れていた。

 一七台が出走し、序盤で八台が絡むように転倒。

 だんご状態の混戦を抜け出して、ギリギリでトップを奪ったのは――宗太だった。

 今シーズン初、表彰台の真ん中に立った宗太。表彰式では嬉しそうにしていたが、しかしパドックに戻ったとたんに倒れた。なんでも高熱を押しての出場だったらしい。

 エキスパートクラスの決勝レース終了から、エキシビジョンクラスの決勝レース開始まで、三〇分の猶予が取られている。

 様子を見に宗太の車まで行くと、中のシートをフラットにして、やつは眠っていた。額にタオルを乗せている。親と一緒に来ているはずだが、姿は見えなかった。

――やめておくか。

 起こすのも悪いと思って立ち去ろうとすると、タオルを取った宗太が僕に気が付いた。

「――おい」

 声をかけられる。

「……そこのペカリ、取ってくれ」

 車の横に置かれた簡易テーブルの上にあるペットボトルを指差す。僕は無言でそれを取ると、宗太に手渡した。

「さんきゅ」

 少しだけ驚いた。こいつから礼を言われるのは初めてかもしれない。熱でも……あるのか。

「――ぷは。ぬるい」

 スポーツドリンクを一気に飲み干して、口を拭う宗太。熱のせいか、ぼーっとしている。

「――初優勝、か」

「良かったな」

「由美がいねーんじゃ、意味ねーよ」

「………………」

「俺、エキシビジョンも出るからな」

「…………大丈夫なのかよ」

「問題ねー」

「親御さんは何て言ってるんだ?」

「やめろってよ」

「じゃあ……」

「……自分のことは、自分で決めたいんだよ。お前だって、そうだろ?」

 宗太が、僕を見る。

「コーコーセーってのは、何でも自分で決められるんだろ?」

 珍しく、子供らしいことを言う。

「レースは、走り方も、セッティングも、結局自分で決めなきゃいけねーんだ。まぁ、監督やらメカニックやらがいる所もあるけどよ…………。走るのは、自分だから」

「そうだな」

「なぁ、誠二。お前なんで、また走るようになったんだ?」

「……ん?」

「すげー嫌がってたじゃん。走るの。俺もさ、ずっとサーキット走ってると、嫌になるときあるからさ。タイムは伸びねぇ、バイクは走らねぇ、みたいな……。ああいう感じ?」

 宗太が言うそれは、努力の最中にくる、停滞期の壁のことだろう。以前と同じトレーニングをしているのに、急に成果が上がらなくなる。精神的にも肉体的にも辛くなる。そういう時期の話をしているんだろうが……。

「……いや」

 僕はかぶりをふった。

「そんなカッコイイもんじゃない。俺はただ単に、思い出したくなかっただけだ」

「……何を?」

「……………………」

 口を開いて、声を出そうとしたが、出なかった。ぱくぱく、と口だけが動いてしまった。

「………………それ、は」

 もう一度口を開けて、息を吸う。

 大丈夫、言える。

「死んだ兄貴と、姉ちゃんのことをだ」

 宗太が――息を飲むのが、わかった。

「五年前まで、俺は、兄貴と、姉ちゃんと三人で、よくここに走りに来ていたんだ」

 由美とも、ここで出会った。

「楽しかったよ――すごくね。本当に楽しかった。兄貴はバカだったけど速かったし、俺はそれに着いていくのが精一杯で、いつか絶対抜いてやるって思ってた」

「……へぇ」

「由美を追いかける兄貴。兄貴を追いかける俺。俺たちをパドックから眺める姉ちゃん――。なんかもう、時間がバカみたいに早く過ぎてさ。土曜の朝早くに来たのに、気が付いたらもう日が暮れてる。今思えば……幸せだったよ」

「…………それいいな、なんか」

 宗太が心地よく相槌を打ってくる。くそ、やめろっての。そんな風にされたら――止まらなくなるだろ。

「そこのカレー屋で休憩中にさ、兄貴が由美と話してると思ったら、急に立ち上がって言うんだぜ。『俺が勝ったら嫁に来い』ってよ……。十八の男が、八歳の女の子に向かってよ、捕まるっての……。でも俺は――本当は、俺は――悔しかったんだよな、ずるいって思った。それは、俺の台詞だって思ったのに、兄貴は……兄貴は……言いやがって…………」

「………………おい」

 宗太が、ガキのくせに心配そうに僕を見る。違う、ちょっと目にゴミが入っただけだ。

「…………うるせ、見るな」

 こいつには、全部話してもいい、とそう思えた。けれど、それは僕だけの気持ちだ。僕が抱いた勝手な気持ちだ。宗太の気持ちを無視した、僕の想いだ。

 僕達の話は、決して気持ちの良いもんじゃない。この子のような真っ直ぐなやつに、聞かせられる話じゃない。

「……二人はもう、いないんだ。だから、それを思い出したくなかったんだよ」

 ようやくそれだけを言えた。

「………………あー」

 すると宗太は、バツの悪そうな顔で僕を見て、

「その、ごめん」

 と謝った。

「聞くつもりじゃなかったし……いや、聞いたか。あー、違う、そうじゃねぇ。なんつーか、その……」

「………………」

「この間、なんか色々言っちまって……」

「……………………?」

 なんか色々?

「だからほら、アレだよ……。恥ずかしくねーのか、とか」

「ああ……」

 宗太との賭けを断った時か。

 僕は苦笑して、首を振った。

「お前の言うとおりだよ。恥ずかしいぜ、まったく」

「まぁそうなんだけどよ」

 …………生意気な所は相変わらずだった。

「でもまー、何となくわかったぜ。お前も、ウドの大木ってわけじゃなかったんだな」

 次それ言ったらビンタな。

「俺もここには嫌な思い出たくさんあるからな。S字で吹っ飛んだとか……」

「そういうことじゃ無いんだけどな……」

「無くなるのは、その…………………………もったいねーよな……」

 寂しい、って言えないのか、素直じゃないガキめ。

「ま、俺様のダブルウィンで最後を飾れるんだから、ここも本望だろ」

 ……ダブルウィンだと?

「そりゃ、エキシビジョンレースも、お前が勝つって意味か?」

「あたりめーだろ。俺は未来の世界チャンプだぜ?」

 相変わらずの俺様な態度か……。まぁ、とりあえず聞くことはひとつだ。

「俺より速ぇの?」

「……………………」

 宗太は僕を見て、にやりと笑う。

「あたりめーだろ」

「……………………」

「……………………」

「………………ふふ」

「………………はは」

 僕が思わず笑ってしまうと、宗太も釣られて声を上げた。

 熱で倒れたと聞いて様子を見に来たが――心配はないらしい。

 十三歳の少年レーサーは、どこまでも生意気で、前向きな奴だった。

――まるで、兄貴のように。


 戻ると、太田さんがミニバイクminiの最終チェックを行ってくれていた。

「おお、おかえり。宗太くんの様子、どうだった?」

「ピンピンしてましたよ」

「はっはっは。そうかいそうかい。こりゃ――楽じゃないね」

 笑ったあとで、顔を引き締める太田さん。僕も頷く。

「どうだい、勝てそうかい?」

「――俺は」

 正直言って、宗太との勝負自体は、あまり気にする必要がない。そもそも、僕自身の目的である「コースに出る」はもう達成されているし、由美の代わりの広告塔と言うのも、予選五番手からスタートできる時点で、問題なくこなせていると言っていいだろう。

――「由美のちゅー」を賭けているのも……うやむやだしな……。

 では、レースの結果はもうどうでも良いのか。古い言葉通り、まさしく『参加することに意義があった』わけだが……。

 もちろん、そんなわけはないのだ。

「俺は、あいつに勝ちます。宗太にだけは、絶対に勝ちます」

「――そうかい」

 満足そうに頷く、太田さん。時計を見て、

「おっと、五分前だよ。準備はいいかい?」

 やれることは、やった。

 できることを、やった。

 あとはただ、走るだけだ。

 いや――ミニバイクminiに乗るならば、こう言わなくてはならない。

 あとは、勝つだけだ。

「――はい」

 太田さんが、ミニバイクminiのエンジンをかけてくれる。

 僕はヘルメットをかぶり、グローブを付け、跨った。

 エキシビジョンクラスに参加する他のライダー達も、続々とマシンに跨って、コースへと向かう。僕もそれを追って――。

「………………っ!?」

 有り得ないはずのものが、目に入った。

 思わず振り返る。

 そんな馬鹿な。どうして、どうしてだ。いるはずがないのに。こんな所に、来ているはずがないのに。

 あの人はもう二度と、ここには来ないはずなのに――!


「――姉ちゃん」


 姉が。

 飯塚春奈が、パドックから、僕を見ていた。

 何の感情もない瞳で、僕と、ミニバイクminiを見ていた。

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