17 ボクを勝たせろ
――僕が死ねば良かったの?
呼吸がうまく出来なかった。
吸っているのか、吐いているのかわからない。開けたバイザーからは、汗がぽたりぽたりと、
「――はっ……はっ……はっ……」
胸に手を当てて、息を整えようとする。動悸が激しい。決勝直前の緊張で高ぶった鼓動が、突然の出来事に、不規則なリズムを刻み出す。
「――かっ…………はっ…………はぁ…………」
舌がしびれる。喉がかわく。涙が出てくる。
何なんだ……何なんだよ……!
一体どうして、なんで姉ちゃんが……!
と、昨夜のメールを思い出す。
――親父、か。
連れて来たのか。だけど、どうして……!?
「――誠二くん、誠二くん! どうしたんだい?」
太田さんが叫んでいる。呼ばれていることに、気がつかなかった。
「――いえ、すいません。行ってきます」
「大丈夫かい? 様子が普通じゃないよ」
「大丈夫です」
「体調が悪いなら――」
「行きますっ!」
叫んで、発進させた。心配そうに声をかけてくれる太田さんを振り切って。
――すいません。
参加ライダーの列、その一番後ろに並ぶ。
こんなところで、ここまできて。
立ち止まるわけにはいかない。終わらせるわけにはいかない。
僕はまだ、何も得てはいないんだ。
由美のそばにいる資格を――得るんだ。
順々に、コースへ入っていく。路面の具合を確認しつつ、予選で決められた通りに並ぶよう、ゆっくりと一周して、スタート地点へ戻ってくる。
親父が何を考えて姉ちゃんを連れ出したのかわからないけれど、姉ちゃんが何を思って僕を見ているのかわからないけれど。
今の僕は、レーサーなのだ。
由美の代わりの、レーサーなのだ。
ならば、前だけを向け。
スタート地点に戻ってくる。一列に三人が並ぶので、五番手の僕は、二列目の真ん中だ。予選トップタイムの宗太は、倒すべきレーサーは、僕の左斜め前にいる。
その先には、
レーシンググローブに収まった右手で、スロットルを。左手で、クラッチを握る。力は込めない。優しくそっと包み込む。指先でクラッチレバーをなぞるようにして――由美の指を思い出した。由美も同じように、このレバーに指をかけていたんだ。
――ああ。
と、心の中で、頷く。一緒に行こう。
スロットルを、煽る。鋭く回転数が上がり、よく整備されたレーサーマシンならではの、短くも小気味よい排気音が、それに応えた。
そうとも。今は僕がお前の乗り手だ。
力を貸してくれ。
前にいる宗太が、肩ごしに振り返る。後ろのライダーの配置を確認したのだろうか。すると、
――よう、誠二。
兄貴の声が、した。そんな気がした。
熱と、緊張と、動揺で、頭がどうにかなってしまったのだろうか。
僕はあの頃に――五年前、みんながいたあの頃に、戻って来た錯覚に囚われた。
兄貴が、由美が、僕が、コースで走り。姉ちゃんがパドックでそれを眺めている。
だったら、と思う。
それはそれで良いのかも知れない。あの日から出来なかった勝負を、僕はもう一度することができる。今度こそ、兄貴を抜き去ればいい。
スロットルを全開まで捻り、クラッチを、当てるか当てないかの位置で固定する。頭の中は意外なほどクリアだった。あのランプが色を変えれば、この左手の指の力を、ほんの少しだけ緩めればいい。ただそれだけの機械になったように、なんの感情もなく、僕の体は動いていた。
そして。
シグナルが――緑になった。
――GO。
その瞬間には、もう、
――ぱあああああああああああああああん…………!
驚くほどスムーズにスタートが成功した、そう思ったのは、ホームストレートを越え、第一コーナーを二番手で抜けたあとだった。そのまま続く第二コーナー、目の前でイン側を締めるライダーが宗太であることに、僕はすぐさま気が付いた。
――五番手から二位まで浮上。
身体の大きい僕としては、スタートダッシュは苦手な部類だった。ここまでですでに、出来すぎの展開だ。
だからここからは、奇跡のようなレースをしなければならない。
第三コーナーを抜けると、
いや、違う。
宗太のマシンが不自然に傾き、すぐに修正された。そうだ、あいつ、本調子ではないのだ。高熱の影響が、マシンの挙動にわずかだが現れている。僕が何とか着いていけるのは、それのおかげなのだった。
最終手前の大きな左コーナーを抜けて、ラストの右コーナーを立ち上がれば、スタート地点に帰ってくる。僕と宗太は、ほんのわずかの差を置いて、
見知ったライダーや、ショップの常連さん、サーキットスタッフに、果ては知らない人まで、ピットレーンを埋め尽くすたくさんの
胸いっぱいの高揚を感じつつ、太田さんを探す。果たして、彼の掲げるサインボードが見えた。
――残り9
空気抵抗を極限まで減らすため、タンクに顎を乗せるようにして体を伏せながら、横目でそのサインを確認する。再び前を向き、宗太に一瞬遅れて第一コーナーに飛び込んでいった。
練習・予選と宗太の後ろを走って感じたのは、やはり似ている、ということだった。
肩からではなく、頭からコーナーに飛び込んでいくようなライディングスタイル。切り返しの独特の癖。エンジンの美味しい所をあますことなく使うような、スロットル操作の巧さ。
そのどれもが兄貴にそっくりで――けれど一つだけ、明確に違う点があった。
第七コーナーの、ラインの取り方だ。
スプーンのような形状をしたこのコーナーを、僕や由美は、V字を描くように、コーナーの真ん中付近で直角に曲がる。けれど宗太は、L字を描くように、コーナーの奥で曲がり始める。
曲がるポイントが、真ん中か奥か。それはわずかな差で、どちらかが絶対的に速いと言えるものではない。どちらにもメリット・デメリットがある。
コーナーへの進入速度は宗太の方が速いが、脱出速度は僕達の方が速い。曲がりながら、一瞬だけ、二人のコーナリングスピードの差が顕著に出るポイントがある。
僕は――そこを突いた。
「――!?」
ほぼ二人同時にコーナーへ進入し、出口付近で僕が前へ出ることに成功した。
この三日間で初めて――宗太の前を走ることができた。
だが。
「………………っ!」
脱出速度は僕の方が速かったはずなのに、次のコーナーでブレーキを遅らせた宗太にあっさり横に並ばれて、イン側にバイクをねじ込まれ、なすすべもなく抜き返された。
――こいつっ……!
続くコーナーで同じことをしてやろうと、僕もイン側に
ラインが交差し、すれ違う、その瞬間。
「………………」
宗太がちらりとこちらを見て――笑っていた。
楽しそうに。
――この時、何かが切り替わった気がした。
目の前のバイクがゆっくりと僕を追い越していき――、
「――ははっ!」
僕も思わず、笑い声を上げる。
太田さんの言う通りだ。僕はもっと早く、レースを始めていれば良かった。
こんなに楽しく、『兄貴』と走ることができるなんて、思ってもみなかった。
抜いては抜き返され、抜かれては抜き返し、時には体と体がぶつかりながら、僕と兄貴は、踊るように次々とコーナーをクリアしていった。
――身体が、細胞が、変化しているようだった。
感覚が鋭敏になっていく。減速時にかかる反動や、曲げっぱなしの腰に、肉体的なダメージが蓄積されていく一方、認識がどんどん広がっていく。
八周を終えたところでホームストレートに戻る。サインボードを確認すると、「
壁に、ぶつかっていた。昨日の練習走行でついに破れなかった壁に。
兄貴との走りが拮抗し、ライディングが最適化されればされるほど、走行タイムの理想値に近づいていく。それはいい。
問題はその先だ。この走り方では、このタイムは確かに理想形だが、『それでもまだ勝てない』。これでは勝てないのだ。最適とされた、理想とされた型を壊し、どこかでもう一歩道を外さなければ、兄貴には勝てない。
それこそ――
「……………………っ」
兄貴がアウト側からラインを交差させて、僕を抜いていく。僕も必死に食らいつくが、抜き返すには至らない。
最終コーナーを立ち上がり、ホームストレートへ。
答えが出ないまま、レースはラストラップを迎えようとしていた。
――このままじゃ勝てない。何か、何かっ……!
スロットルを全開にして、バイクにぺったりと伏せながら、必死に考える。目の前には、兄貴のバイク。その後輪が、手を伸ばせば届くような距離を走っている。
けれど知っている。今のままでは届かない。
スタート地点を通り過ぎる。サインボードを見ようとピットレーンに目を向けたとき――大勢の沸き立つ観客の中、それでもたったひとり、あの人の姿が目に入った。
姉ちゃんが――僕と兄貴を見ていた。けれど、どこか違った。違和感があった。
いつも通りのはずなのに――こぶしをぎゅっと握って、まるで自分が走ってるみたいに緊張して、目を大きく見開いて、僕達に向かって大声で何かを叫んでいる――いつも通り、なのに。
そのはずなのに、どうしてなんだろう、この懐かしさは。この、嬉しさは。
――誠二、頑張れ。
そう言われたように聞こえて、そう思えて、それだけのことなのに――。
どうして僕は、泣いているんだろう。
「兄貴……兄貴、聞いてくれよ」
第三コーナーを抜けて、
待ってくれ。行かないでくれ。
「…………姉ちゃんが」
スプーン形状の第七コーナーを、兄貴がL字で立ち上がっていく。由美のバイクに乗った僕が、それに追いつくべくスロットルを開けていく。
「……………………僕の名前を…………!」
残るコーナーはあとわずか。このままでは兄貴に追いつけない。けれど僕は、もうそんなことどうでも良くなっていた。姉ちゃんが僕の名前を呼んでくれた――その突然の幸福に、目の前の事態は、どうでも良いように思えてしまっていたのだ。兄貴を抜き去る、その目標を、忘れかけていた。
由美のそばにいる資格を得るためのレース。そのことを、忘れかけていた。
だがそれを――アイツは許さなかった。
ブレーキングを開始して、コーナーを最適に曲がるためにギアを落とす。その過程で限界まで回ったエンジンがうねりを上げた。その音が声に聞こえて、僕はもう一度、
――ボクを勝たせろ。
それはレーサーの声だった。『村上由美』の本能でもあった。
そうして――時間が戻ってきた。広がっていた認識が、僕と
閃きがあった。
最終手前の大きな左コーナー。僕を抜かせまいとイン側にマシンを寄せる『宗太』の――その更に内側に、僕は
「………………ばっ!」
やつの叫びが聞こえるようだった。僕は構わず、限界までブレーキを遅らせ――それから更にもう一泊、『ブレーキングをしなかった』。
――曲がりきれない。
最適でない動きの中、脳がそう判断する。けれど、僕はその思考を意図的に無視した。曲がりきれない、オーバースピードだ。このままでは
だからこそ。
閃きに従った。
半身を左に大きく寄せる。今まで通りのハングオンスタイル。そこから、『左足を、路面に靴底がくっつくくらい、大きく出して』ブレーキングを開始する。
身体が大きいということは、その分車重が増え、スピードは出なくなる。だが、その重いパーツを――例え『左足一本』分でも有効に使えば、バイクはより鋭く曲がっていく。
今までに体験したことのないような速度で、
立ち上がりの一瞬、宗太は僕のすぐ横に並んだ。けれど、そこまでだった。間延びした感覚の中で、ゆっくりと、僕と宗太の差は広がっていった。
最終コーナーを立ち上がり――僕と
「……………………あ」
――終わった……らしい。
気がつくと、ホームストレートを惰性で走っていた。
ピットレーンの観客たちが、ものすごい勢いで歓声を上げている。そういえば、さっきからレポーターが大声で実況してるな……。スピーカーを通してサーキット中に流れてる。全然気がつかなかった。
――誰が勝ったんだっけ……?
レースも終わったらしいので、スタート前のように、ゆっくりと一周走って戻る、のだが。
「…………ああ」
懐かしい人に、会った気がした。
とても大切な人に、会った気がした。
そうして、完全に別れた。
もう二度と会えないのだと――はじめて実感できた。
ここで走って、レースを終えて、やっと実感できた。
「…………ああああああ」
一周して戻らなくてはいけないのだけど――走れなかった。止まってしまった。ヘルメットをタンクに着けて、突っ伏したまま、動けなくなってしまった。
――兄貴……!
夢だったのかも知れない。幻だったのかも知れない。でも、確かに兄貴はいたんだ。僕と一緒に、走っていたんだ。
僕はやっと――兄貴を追い越すことが出来たんだ。
……もう、いいだろう。
僕は、二人の命を消して、一人の人間を壊して、大好きな人まで傷つけてしまった。
でも。
……もう、僕は、いいだろう。
生きていても、いいだろう。
僕は、決めたのだ。
由美が死ぬまで、僕はずっとそばにいる。
自分自身で、そう決めたのだ。
だから――僕はまだ、死なない。誰に何と言われようとも、僕は死なない。
僕が死ねば良かっただなんて、思わない。
それでいいよな――兄貴。
そうしてしばらく、僕は泣いていた。一周を終えた宗太が、僕を呼びにもう一度走って来てくれるまで、僕はずっと、その場から動けなかった。
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