1 兄貴のバイク

 兄貴のバイクは、一人乗りだ。

 後ろの席タンデムシートはあるものの、足を載せる踏み場ステップがない。

 取り外したのは一ヶ月前だが、兄貴はいまだに戻そうとはしない。もう誰も乗せないつもりなのだろうか。

 兄貴によって[R]と名付けられたこのバイク。青と白のコントラストが綺麗な、しかしひとたびエンジンに火をともせば、恐るべきパワーを発揮する大型のスーパースポーツ。パワーが余りすぎて、直線を走っている時でさえ、スロットルを乱暴に開ければタイヤが滑って転ぶ。

 世界一速いバイクとレーサーを決める世界選手権で戦ったバイクの模造市販品、という意味から、一昔前はレーサーレプリカとも呼ばれていた。今となっては遠い過去の、輝かしい時代の話だ。もちろん、僕は生まれていない。

 不意に[R]を見たくなってガレージに降りてきたのだけど、どうやらそれは間違いだったようだ。不思議なもので、バイクという機械の塊をぼんやりと眺めていると、やがてそいつが全身全霊で何かを訴えているような気がする。

 たいていの場合、整備をしろ、だったり。オイルを交換しろ、チェーンの張りを直せ、ぴかぴかに磨き上げろ、だったりするのだが。[R]は違った。こいつはただただ純粋に――。


 走らせろ。


 と訴えた。

 酷なことを言う。

 もちろん、こんなものは気のせいで、僕の勝手な思い込みで、僕の内に秘めた願望を[R]のせいにして叶えようとしているだけなんだろう。

 けれど思う。

 走りたい、という思いは、きっと、オートバイの本能なのだ。

 僕たちバイク乗りライダーが、そうであるように。

 僕は持ってきていたエンジンキーを差して回し、セルスイッチを押して、エンジンを蘇らせてやる。

 兄貴の奴がしばらく乗っていなかったから、若干かかりにくかったものの、やがて腹に直接響くような、低く、重い、うねり声のような咆哮を上げて、[R]は再び生き返った。

 ギアをニュートラルに入れたまま、アクセルを限界まで煽ってやる。

 すると奴は、喜んでいるような、怒っているような、哀しんでいるような、楽しんでいるような、そんな、機械とは思えぬ複雑な感情を乗せて、雄たけびを上げたのだった。


 部屋からヘルメットとグローブ、バックパックを持った僕は、姉ちゃんに声をかけ、兄貴に断りを入れ、二人の返答も待たず、ライディングジャケットを羽織って、[R]に跨った。

 大きい。そして、重い。百八〇センチの身長を誇る僕だが、圧倒される。相手は一五〇キロ近い鉄の塊なのだ。

――兄貴はいつも、こんなのに乗っていたのか。

 [R]に気持ちで負けないように、僕はスロットルを軽く開ける。応じるようにエンジンが唸る。うん、そうとも。今は僕がお前の乗り手だ。

 どこへ行きたい、と尋ねた。

 あの峠、と答えた気がした。

 全く、酷なことを言う。

 スタンドを蹴って、ギアを落とす。大型バイク特有の、ガコンという大仰な音を立てて、ローに入った。クラッチは少し遠め。大してスロットルを開けなくとも、[R]のパワーがあればアイドリングだけで発進できる。

 エンジンの駆動が、クラッチ板を通じてギア、チェーン、タイヤ、そして路面に伝わっていく。その過程で落ちた回転数が、響く排気音を静かにさせる。

 するすると。

 現実から逃げ出すように――夢から覚めるように――控えめに、しかし大胆に、僕と[R]はガレージから走り出していった。


 ひとけの無い街に、大型バイクの、低い排気音だけが響いている。

 夏夜の冷たさが残った空気を、僕と[R]が切り裂いて走っていく。夜明け前に出て正解だった。ジャケットのメッシュ部分から、太陽に熱せられる前の風が抜けていくのが心地よい。

 基本的にバイクという乗り物は、夏は暑く、冬は寒い。

 もう八月も半ば過ぎだというのに、猛暑は続いている。これが真昼だったならば、とんでもない灼熱地獄に襲われていたことだろう。

 熱と光が太陽から容赦なく降り注がれ、アスファルトに照り返される。渋滞に巻き込まれれば逃げ場もなく、前後左右から自動車の排熱に晒される。フルフェイスヘルメット、グローブ、ジャケット。そして忘れてはならない、股の下から絶えず高熱を発し続ける一リッターの大型エンジン。

 考えただけで地獄だ。佇んでいるだけで苦行だ。クルマという、鉄の箱に守られて冷房に使っている者には、あの苦しみはわかるまい。

 僕のような高校生はすでに夏休みに入っているが、都心の労働者にはそんなものは無いのだろう。昼間の道路はいつだって混み合っている。だからこそ、遠出をするなら早朝と、相場が決まっていた。

 首都高から東名へ入る。高速道路を使って、一気に都内を脱出する。親父のETCカードを拝借してきたから、交通費には困らない。

 二時間ほど走ったところで、一般道へ降り、観光客の多い温泉街を抜けた。

 少し遠くに眼をやれば、雄大なる自然、折り重なるように聳え立つ、美しい山々。

 そうして僕は、再び、この地にやってきた。

 深く、心に焼きついた思い出の、峠。

 走りを楽しむ、ありとあらゆるライダーたちに愛され、そして受け入れてきた、この峠。

 自分が、もう一度ここへ来ることになるとは――それもこんなにも早くに――本当に、夢にも思わなかった。

 ――僕は。

 僕は、本当に――これでいいのだろうか。

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