2 村上由美
中学に上がる頃、母親が死んだ。
泣いている僕のそばに、ずっと居てくれた子がいた。
あの時一度、僕はその子に救われていたんだと思う。
突然だが、バイクの専門用語に、「ニーグリップ」というものがある。
これは、シートの前にあるタンクを、ニー、つまり膝で押さえることで、バイクの動きを制御するという、ライディングの基本動作の基礎の基礎だ。これが出来ないと、バイクを思い通り操ることが出来ず、また基本中の基本であるがゆえに、つい忘れがちになる。野球に例えるならば、キャッチボールのとき、ボールは必ず胸の前で捕る、といった感じだろうか。
ニーグリップは、もちろんプロのバイクレーサーでも行っている。
コーナーを曲がるときに、バイクにぶら下がる様な姿勢を、ハングオンスタイルという。その際、ぶら下がっていない側の足で、身体を支えている。これにはもちろんタンクに膝を引っ掛ける動作も入っているから、ニーグリップしていることになる。
で。
僕はよく知らないのだが、女性の衣服に、「ニーソックス」というものがあって、何でも、つま先から太ももまで覆う靴下のことを指すらしい。そして一部の男子に物凄く支持されているらしい。いや、僕はよく知らないのだが。
以上を踏まえて。
少し、いやかなり困った事態が、峠の頂上にある駐車場で休憩していた僕の前で起きている。
「きゃっほー!」
女の子の、楽しそうな、声。
バイクの調子がおかしくなったとか、ガス欠だとか、そういう類の――いや、そういうレベルの問題ではない。
「ほらー! 見てみてー!」
むしろバイクの調子は良いみたいだった。
「ぶれーきんぐ・たーぁん!」
すざー。
実は、先刻から、女子高生が目の前を行ったり来たり、走り回っている。
僕のバイクで、走り回っている。
ノーヘルで、走り回っている。
制服姿で、走り回っている。
ニーソックスで、ニーグリップしている。
いや、僕はよく知らないですよ?
「ウィリー! いぇーい!」
「ちょっと待て」
そろそろ止めておいた。
身長が一五○センチ弱しかない、中学生にも間違われるような制服姿の少女が、大型バイクの前輪を浮かしたり、後輪を滑らしてドリフトしたりしているこの光景は、はっきり言って異常だ。それが、借りているとは言え、自分のバイクでやられたら、尚のこと。
「何やってんだお前は」
「ジャック・ナイフと言って、ブレーキを掛けたときに全体重を前に乗せて後輪を上げるという離れ技だけど?」
解説してくれた。
後輪を上げながら、顔だけこちらを向いて。
すごいな!
「いやそうじゃなくて! とりあえず下ろせって!」
「ほいよっと」
ふわりと、重いはずの後輪を、軽々とゆっくりと下ろす。並大抵の技術ではなかった。
「そんな格好でヘルメットも被らないで危ないだろうが。それも他人様のバイクで」
すると彼女は、あはは、とあっけらかんに笑った。猫みたいにくりくりした目を細くして、さも楽しそうに笑った。少しだけ茶色がかったショートカットが風に揺れて、おでこの広大さがあらわになる。
「だーいじょうぶだよー。相変わらずだなぁ。誠二くんはー」
そしてそのままの笑顔で、そんなに心配してるとハゲるよー、と続けた。
お前に言われたくねぇよ。
「いやー、久しぶりだねぇ、誠二くん。二年ぶりって感じ? いぇい?」
駐車場脇のベンチに座って缶コーヒーを飲みながら、少女がそんなことを言う。
「いぇい?」
「いぇーい」
片手を上げる由美。釣られて僕も上げると、ぱーん、とハイタッチされる。なんだろう、この無駄っぷり。ちょっと着いていけないテンション。
「元気だして行こうぜぃ?」
にかっと笑う。そういう顔は悪くない。
兄貴がむかし、ミニバイクをやっていた時期がある。そのときに通っていたサーキットで、最も速かったのが、この村上由美、僕のふたつ年下で、現在十六歳だ。
「寂しいよー。近頃まったく走りに来ないんだもんなー」
当時、兄貴は十八歳、由美は八歳だった。ちなみに僕はそのころ十歳。中・大型クラスと違って、ミニバイクは子供の方が速かったりする場合がある。バイクという乗り物の性質上、成長の度合いによる身体能力の差がほとんど出ないからだ。体重が軽いのも、スピードが出やすいという大きなメリットである。
「由美はまだ、あのサーキットで走ってんのか?」
三歳からポケバイに乗っていたという由美は、それはもう手が付けられないくらい速かった。同い年の子も他に何人かいたが、ずば抜けていたのをよく覚えている。
「そだよー。お休みの日は、ほとんど通ってるんだぜー」
よく兄貴に連れて行ってもらった僕は、そこで由美と知り合った。というより、兄貴が勝手に由美をライバル視して、さらには宣戦布告までした。いま思うと、本当にバカな兄貴だった。十八歳が八歳を相手にムキになるなよ。その上……いや、これは言うまい。
ともかく、僕はそこで由美や、ほかのバイク友達を作った。兄貴は僕に中古の革ツナギを買ってくれて、たまに走らせてくれたりもした。僕もバイクに夢中になった。
「すげーなー」
「だろー?」得意げに、由美が笑う。「来年からは、ロードに上がるんだぜ」
ロード?
その言葉が、僕の思考を回想から現実へと引き戻す。
「ロードって、ロードレースか? じゃあもう、ほとんどプロみたいなもんじゃないか。スポンサーが付いて走るんだろ?」
「そうなんだよー。ま、プロって言っても、それだけじゃ生活できないんだけどね。でもまぁ、応援してる人たちもいるし。あたしが女ってのもあるんだけど」
「女だから?」
「珍しいでしょ?」
「なるほど」
女子高生バイクレーサー。確かに、日本じゃ珍しい。どこの会社かわからないが、広告塔としてのレーサーなら、由美はぴったりだろう。
それにしても、普通の一般家庭なら、愛娘がバイクに乗ろうとする時点で、一もニも無く止めるだろう。プロとなれば尚更だ。しかし、由美の場合は、親も親だ。蛙の子は蛙、と言ったところか。
「まぁそういうわけで、村上由美は世界目指して突っ走っているのでありますよ!」
「世界かー。眩しいなぁ。ま、頑張れよ」
「おう!」
と、腰に手を当てて、胸を張る由美。
志はとても立派なのだが、その胸はまるで洗濯板のようだ。などとは口が裂けても言えない。
「平らだなぁ」
「ヤマハの伝説的ライダーがどうかした?」
平忠彦じゃねぇよ。
「それはそうと、だ。お前ん家って、この辺りだっけ? 何でこんなとこに居んの?」
「嫌だなぁ。忘れたのかよー。つっても、いまはおじいちゃんとこに泊まってんだけどねー」
この春に高校生になって、ようやく免許が取れたので、中古でバイクを買ったんだそうだ。今日がその納車日だったらしい。
「せっかく地元に、こんな有名な峠があるんだから、これは攻めなきゃ損でしょ!」
「バイクの納車日に制服姿で峠を攻めに来る女子高生なんて、日本でお前ただひとりだよ」
「そうそう見てよー。かっこいいでしょー、この子ー」
聞いちゃいなかった。
由美が嬉しそうにタンクを撫でているこの赤いバイク。排ガス規制で現在は生産されていない、一昔前の中型2ストロークバイクだった。当時は、峠はこのバイク一台で染まったほど、一時代を築いたらしい。
「ぷろろん、って言うの」
「なにが?」
「この子。さっき名付けたばっかりなんだよ。えへへー」
うわぁ…………。
バイクに名前付けてる……。
自分の兄貴を棚に上げて、ちょっと引いてる僕。
「なんでそんな四次元怪獣みたいな名前なんだ?」
「四次元怪獣って……。違うよ、プロアームだから、ぷろろん。かわいいでしょ?」
「……………………おぅ」
……プロアームだから、ぷろろん…………。
後輪タイヤと車体を繋げている部分をスイングアームと言うのだが、このバイクのそれはやや特徴的だ。左側にしか固定具が付いていないのだ。右側が完全に開けていて、タイヤが丸見えなのである。プロアームと名付けられたそれは、耐久レースで、タイヤ交換を素早く行うための設計らしいが……。
そこかよ。
「ちょっと古いからってバカにしたら、だめなんだよ。同じ排気量だったら、いまのバイクより速いんだから」
バカにしてるのはバイクじゃなくて、お前のネーミングセンスだ。
「――速いのは知ってるよ。俺も同じやつに乗ってる」
「え? じゃあ、あのでっかいのは?」
「兄貴の」
ぽつりと言った。
「ふーん……」
僕の答えを聞いて、何やら黙り込む由美。何か思うところがあるのだろうか。
しかしこういう仕草を見ると、たった二年ぶりとはいえ、こいつも成長したんだな、と感じてしまう。
すると由美は、やおら手をパンと叩いた。閃いた! と顔が語っている。
「そうだ、誠二くん、今日はウチに泊まっていかない?」
ぶっ。
思わず噴き出した。
何だこの展開は。
「久しぶりに会った、成長した幼馴染が、今夜は泊まっていかないかと言う……。なぁ由美、どう考えてもおいしすぎるだろう。新手の詐欺か?」
「その考え方はやっぱり兄弟だね。変態さんだなぁ。心配しなくても、男子的にオイシイことなんてないし、壷も買わせないよ」
じゃあ何だ、布団か、美顔機か。
「実はウチのおじいちゃんち、ちょっとした旅館でね。幸いにも部屋が余っているそうなのだよ」
「それは結構なことだな」
それでね、と由美は、満面の笑みをたたえて、両手を胸の前できゅっと握り、
「お客さんを連れてきたら、おこづかいをもらえるの」
などと、のたまった。
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