3 家族
家族の話をしよう。
僕は三人兄弟の末っ子で、上には、八つ年の離れた兄貴と、ひとつ年上の姉ちゃん。父は厳格そのもので、僕らはよく叱られた。母は優しかったが、僕が中学に上がるころに死んでしまった。以来、姉ちゃんが母親がわりだ。
兄貴は、年の離れた妹弟をとても可愛がってくれた。僕も姉ちゃんも、兄貴によく懐いていたし、三人兄弟はとても仲が良かった。少なくとも、僕にはそう見えた。そして、それは決して、間違いでは、なかった。
ただ、仲が良過ぎたのかも知れない。
……二人がいつからそういう関係だったかは知らない。何となく、そうなんじゃないかと気が付いたのは、母が死んでから一年経ったころだ。……兄貴は、亡くした母の面影を妹に見ている気もしたし、姉ちゃんは、厳しすぎる父から逃れたがっていた。……僕は、いつも蚊帳の外で、それに気づかないふりをしていた。
禁断の恋、だなんて、甘っちょろくて幻想的で優しいもんじゃなかった。
どろどろしていて、とんでもなく不快で、どうしようもなく気持ち悪かった。
そうして、いまになって思うことは。
やっぱり、兄貴は大馬鹿だってことだ。
やっぱり、詐欺だった。
こと表面積に於いては他に類を見ないほどのオデコを所有する小娘が連れてきた、ちょっとした旅館、とやらは、なんのことはない、木造二階建ての、古い民宿だった。
「アレだな。昔の映画で、書生さんとかが下宿してそうな感じだな。うん。実にいいお化け屋敷じゃないか」
たっぷりの皮肉を言ってやると、由美はぷくーっと頬を膨らませて、
「だーかーらー、ちょっとした、って言ったじゃん」
ほざいた。
ちょっとした、の用法が違う。
「まーまー、上がってくださいまし。靴は下駄箱にでも入れておいて」
玄関を開けて中に入り、僕の荷物を持って、「ただいまー。お客さん案内するねー」とすたすたと歩いていく小っこい女子高生。荷物と言っても、小さなバックパックのみだが。
やたら急で狭い階段を上がって、二階へ到着。廊下をはさんで部屋が二つある。左側のそれに案内された僕は、換気の為に窓を開けた由美に文句をたれた。
「泊まるっつっても、着替えも何も持ってきてねーぞ」
「近くにコンビニがあるからさ。そこで買ってくればいいよ。男の一泊セット」
「何でそんなものの存在を知ってるんだよオメーは……」
にやり、と笑う由美。最近の高校生はわからない、と思った。
あ、僕もそのひとりだな。
うん。わからないな、まったく。
部屋の中をぐるりと見渡す――ほど、広くはない。
四畳半、と言ったところか。床はもちろん畳で、使いこなされている感は否めないが、汚くはない。ふすま、そう、ドアでなく、入り口のふすまを開けて正面に窓。左に押入れ。右に小さな木製の机。中央の照明からはご丁寧に紐がぶら下がっている。レイアウトだけならば、どこぞの国民的ネコ型アニメで見たことがないでもない。それくらいすっきりしている。
僕は着ていたジャケットを脱いで、ヘルメットを机の上に置いた。
「いい部屋でしょ」窓枠に腰掛けていた由美が、外の景色を振り返って言う。「あそこに見える山が、あたしたちがさっきまで居た峠」
「ん」
窓の前に立ち、一緒になって外を見る。すぐ下には小川が流れていて、地面は遠い。落ちたら、ただでは済みそうにない。
「けっこう高いでしょ? ここ」
「そうだな」
「気をつけてね。骨が折れるだけで、死にもしないし、チョー痛いから」
「笑顔で怖ぇこと言ってんじゃねぇよ」
「あはは。冗談冗談」
近くには民家が見えて、遠くには緑が生い茂る山々。由美が指差した方角を見ると、なるほど確かに、ある一角だけ山が切り取られ、アスファルト路面がちらりと姿を現していた。
「ここから、見えるのか……」
思い出の、あの峠。
さくり、と。
またも心に、冷たい杭が突き刺さる。
視界の隅で、由美がこちらを向いて、何故か寂しそうに微笑んでいる、そんな気がした。
……知っている、のだろうか。
僕と、兄貴とのことを……。
いや。
気のせいだ。気にするな。
由美がじっと僕を見ている。僕はじっと山を見ている。山は静かに、僕らを見ている。
僕らは、しばらくのあいだ、ただ黙ってそうしていた。
…………。
「付いてるのか?」やがて口を開いたのは、僕だった。
意味が分からず、きょとん、とする由美。
む、こういう呆気に取られた顔というのも、なかなか可愛い……。なんてことは考えてない。本当だ。うそじゃない。
「夕飯と、明日の朝食だよ。素泊まりってわけじゃないだろ?」
それを聞いた由美の顔が、ぱぁーと明るくなっていく。
「もちろん! おばあちゃんが作るおふくろの味を食べさせてあげるよ!」
ややこしいわ。
「じゃあご飯が出来たら呼びに来るね。お風呂は一階にあるから、八時までに入って。お布団はそこの押入れに入っているから、悪いけど自分で敷いて。門限は十時で、消灯時間は無いけれど、外泊だからってあんまり夜更かしすると先生怒っちゃうぞ~?」
「そのウキウキ感はなんだ」
ちょっと着いていけないテンション。
「あはは、じゃ、またあとでー」
と、由美がふすまを開けて出て行こうとしたとき、由美さん由美さん、と僕は彼女を呼び止めた。
どうしても聞いておきたいことがある。
そう、こればっかりは、どうしても聞いておかねばならない。
あのさ、とひとつ間をおいて。
「いま夏休みだよな。なんで制服なの?」
「登校日だったんだよ」
「その黒くて長い靴下、暑くないの?」
「仕方ないじゃん。規則なんだもん。校長先生に言ってよね」
ふぅん。
変わった趣味のひともいるものだなぁ。
納得。
ニーソックスでニーグリップか。
眼福。
「そんだけ?」
「そんだけ」
変なの、と彼女は呟いて、今度こそ部屋を出て行った。うん、変だな。
ぱたん、と閉まるふすま。
改めて、僕は借りた部屋を見回す。
……本当にお化けが出そうだな。親友に恋人をとられた書生さんとか……。
まぁ、いいかな、一日くらい……。
僕はごろん、と横になって、窓の外の峠を眺める。
「いいよな? 兄貴……」
ひとり、呟く。
「今日、一日くらいは、いいよな……」
誰にでもなく、誰に聞かせるでもなく、ただ、自分自身に対して。
呟いた。
そのつもりだった。
「何がー?」
耳としっぽをネズミに噛まれた猫のようにびっくりして振り返ると、いつから開いていたのか、ふすまの脇から由美が顔をのぞかせていた。
「てめぇ! ノックくらいしやがれ!」
客のプライバシーなんて無かった。どんな旅館だ。
「なんだよー、母親にエロ本バレた中学生みたいにびっくりして」
男より的確な比喩を入れるんじゃねぇ。
「いや、言い忘れたんだけどさー」
と、完全にふすまを開ける由美。いつのまにか、上着をパーカーに着替えている。下はスカートとニーソックスのまま。
うむ、これはこれで。いや、違くて。
「こっちの、隣の部屋、あたしの部屋だから。何か分からないことあったら、聞いてねー」
「……はい、わかりました」
道理で着替えるのが早いわけだ。
「じゃー」と再びふすまを閉める由美。
ふすま。
ふすまと廊下の、向こうには、由美の部屋。
…………。
ふすまを開けて見てみる。
白いドアが、ちょうど閉まるところで、その後、
がちゃり、
と鍵が閉まる音がした。
……そっちには鍵あるのかよ。
自己嫌悪も混じった、色々な意味で、少し、泣きたくなった。
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