4 姉ちゃん

 姉ちゃんの話をしよう。

 十四歳で母親役をやることになった彼女。

 中学に行きつつ、家事全般をこなし、僕ら家族の世話を焼いてくれた、姉。

 黒髪は長く、メガネをかけて、いつも背筋を伸ばして、凛としていて、優等生で、厳しくて、でも優しくもあって――そんな、姉。 

 姉が好きだった。

 人間として、家族として、母として。

 だから、余計に気持ちが悪くなった。見ているだけで、気持ちが悪くなった。

 姉ちゃんが妊娠したと、知ったときには。


 小さな食堂に呼ばれた僕を待っていたのは、思いのほか豪勢な夕食と、由美と、この「ちょっとした旅館」の経営者である由美の祖父母だった。今日の客はどうやら僕だけらしい。由美の家族と同じテーブルで食事を頂いた僕は、何だか本当に、ただ友達の家に遊びに来ただけの様な錯覚にとらわれた。

「ノッポのお兄さんは、由美の彼氏かい?」

「いえただのともだちです」

 と、おばあさんの質問に、なぜか俯いたまま黙る小娘をきっかり無視して即答する僕。それ以外の回答などあるまいて。

 食事を終えて、おじいさんとおばあさんに丁重にご挨拶し、そそくさと風呂場へ向かった。入り口の引き戸を開けると、そこは予想通りの家庭風呂で、むしろ僕の実家の風呂の方が広いんじゃないかと思えるくらい、貧弱だった。湯船の中は当然のごとく無色透明。どう見てもただのお湯だ。おかしい。僕はいま全国でも有名な温泉街に居るはずなのだが。

 現実を考えないように頭を振ると、「ねぇ」と後ろから控えめな声がした。振り返ると、由美が手荷物を持ってそこに立っていた。

「一応ね、お客さんには、近くの温泉に案内することになってるんだけど」

 なるほど。それはわかった。だから頼むから、赤面するのをやめてくれ。こっちまで恥ずかしくなる。


 徒歩五分程度の場所にある、日帰り温泉――もちろん別料金――で湯に漬かった僕たちは、自販機で買った缶コーヒーを飲みながら、とぼとぼと、夜の温泉街の坂道を降りていた。ときたま、観光客と思しき人々とすれ違う。

「誠二くんは、あそこの峠、よく来るの?」

 履いているゴムぞうりをぺたぺたと言わせて、由美が尋ねてきた。風呂上りだというのに、ニーソックスを履いている。何故だ。短パン×ニーソの絶対領域の恐ろしさを僕に教えるつもりだろうか。いや、知らないけどね?

「ちょっと前までは、な。兄貴と二人でよく来たよ。どうしても勝てなかったけどな」

 そう、どうしても、勝てなかった。

 ようやく勝てそうになったときには……。

「しばらくサーキットに来ないと思ったら、こっちに来てたのか」

 ふぅん、とやや不満そうにうなずく由美。首にかけたタオルで、短髪をしゃかしゃか拭いて、右手に持った缶コーヒーをぐいっとやる。

 虫の鳴く静かな声と、草と温泉の匂い。その中に、シャンプーとコーヒーの香りも混じってくる。山の近くだからだろうか、暑苦しさは感じない。むしろ適度に涼しくて、心地よい。空には、都会では見られないような満天の星々が瞬いている。

 完璧だった。

 これ以上ないくらい、陳腐な形容詞がこれ以上ないくらい当てはまるほど完璧な、夏の夜だった。

 僕はまだ、季節を感じることが出来る。

 けれど僕は、――本当に、これでいいのだろうか。

 間違っている気がする。

 間違っている気がして、ならない。

 幸せだと、思うたびに。

「最後に会ったのは、二年前だよね。サーキットで」僕の思考を停止させるように、由美が言う。「真一さんと一緒に来たんだっけ?」

「そう、だっけか」真一とは、兄貴の名だ。「あれ以来、行ってなかったか……」

「本当に面白いひとだったねぇ、真一さん」

 くくく、と思い出し笑いをする由美。

 僕は、素直に言っていいぞ、と許可を出してやる。

「あ、そう。うん。本当に、あれ以上見たこと無いくらい、バカでバカで大バカなひとだった」

 素直すぎだった。

 しかし、まぁ、そう言われても仕方あるまい。

 兄貴は、サーキットで、とにかく由美をライバル視していた。ことあるごとに、由美を追い掛け回していた。また由美もそれを面白がって、よく兄貴の相手をしてくれた。

 あれは確か、兄貴と姉ちゃんと僕と由美の四人で談笑していたときだ。

 サーキットの休憩所で食事をしながら、ラインがどうだの、セッティングがどうだのと、兄貴と由美が熱く語り合っていたと思ったら、突然、兄貴が立ち上がったのだ。椅子が倒れて、兄貴は高笑いをした後、このセッティングならばもうお前には負けんぞ小娘、と言い、びしっと由美を指差して更にこう叫んだ。

「俺が勝ったら嫁に来い!」

『黙れ変態』

 三重奏だった。

 僕と姉ちゃんと由美とで、綺麗に奏でていた。

 ……いや、本当にバカだな。あの兄貴。結局、負けっぱなしだったし。

「まぁ、変態は血筋だよね」

 さらっと失礼なことを言う由美さん。

「でも、いいひとだよね……」

 フォローになってねぇよ、と突っ込もうとしたが、やめておいた。確かにフォローにはなっていないが、

「間違っては、いないな……」

 バカだけど、いい、兄貴なんだ。

 僕にとっても。

 由美にとっても。

 きっと、姉ちゃんにとっても。

 ぎゅ、と由美が手を握ってきた。小さい手だった。少し驚いたが、僕は特に何の反応もせず、ただ黙っていた。握り返したりもせずに、ただ黙って、そうさせていた。

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