5 峠
峠の話をしよう。
兄貴と二人で、よくここの峠に来ていた。
いくらバカで、由美には負けっぱなしとは言っても、ミニバイクで鍛えただけはあって、さすがに兄貴は速かった。乗っているバイクが、大型と中型という差もあったかもしれない。けれどそれ以上に、そんなものが言い訳にしかならないほどどうしようもないくらい、腕の差が歴然と存在していた。
そんな兄貴でも、唯一苦手なコーナーがあった。そこだけは、どうしても上手くいかないんだと言う。
「なんかな、リズムっつーか、そういうのが合わないんだよ。そりゃ、お前よりは速く走れるよ? でも、俺の中でしっくり来ないっつーか、なんつーか」
要領を得ないくせに、やけに頭に来る物言いだったが、僕にとっては大事なヒントだった。
このバカ兄貴を抜き去るには、そのコーナーしかないと思った。
「起きろぉ!」
すぱぁん! と勢いよくふすまが開く。
満面の笑みで、由美が部屋の入り口に立っていた。
「……うるせぇ」
「あれ、なんだ起きてやがったか。つまんねーの」
朝から生意気な小娘だった。
というかその桶一杯の氷をどうするつもりだったかを問いたいところだが、あえて黙っておく。
すでに着替えていた僕は、窓を開けて、ぼんやりと外を眺めていた。
昨夜、帰宅した僕らは、この部屋で少しだけ思い出話をして、すぐに寝た。もちろん、別々の部屋で。
「おーし、じゃあ朝ごはん食べて、行こうか!」
「どこにだよ」
見ると、桶を持っている手には、ヘルメットがぶら下がっている。
なんだか嫌な予感がしてきた。
「決まってんじゃん!」
お決まりの台詞をはいて、オデコの広い少女は笑う。
「サーキットだよ!」
音がする。
まるで猫が叫び狂っているような、甲高い音が。
オイルの臭いと、響き渡る
そうして、実感する。
戻って来たのだ、僕は。――サーキットへ。
バイクを走らせること数十分。宿からサーキットまでは、意外と近かった。
途中、由美が交差点の右左折で戸惑ったり、観光バスに突っ込みかけたり、道を間違えなければ、もっと早く着いただろう。バイク歴は長くとも、免許歴は二日なのであった。
サーキットに着いた僕たちは、バイクに乗ったまま入り口ゲートを抜け、施設内へ入る。
そのまま少し進むと、左手にコース、右手に事務所や食堂がある広場に出た。
コースはタイヤバリアに囲まれていて、全長は比較的短い。主にミニバイクやカートに使用する小さなサーキットなので、当然といえば当然だった。
走るためには、事務所で受付を済ませなければいけないのだが、今日はそのつもりでないので、広場の適当な場所にバイクを停めることにする。
広場が駐車場であり、整備場でもある。ここにテントを張ったり、トランポと呼ばれる、バイクや整備用具を載せた車を駐車して、サーキット内の拠点にするのだ。
夏休みということもあってか、混み合っている。僕たちは何とか隙間を見つけて、ねじ込むようにバイクを停めた。
「ひゃー」バイクに跨ったままヘルメットを取り、由美が言う。「熱っちぃ。熱っちぃ。今日も混んでるねー」
同じようにヘルメットを脱ぎ、コース上を疾走しているミニバイクの群れを眺める。ニ、三台が重なり合うように走り、少しでも前に出ようと接戦を繰り広げている姿が――コース上のあちこちで見られた。
接戦。
本当に、肉弾戦だ。
バイク同士がぶつかるのはしょっちゅうで、たまに肘で相手の身体を押しているのもいる。
コーナーのたびに、右へ左へぱたぱたと倒れ、そして猫の盛り時の声のような排気音を上げて、加速していくミニバイクたち。中・大型クラスにはない独特の迫力があった。
僕たちはバイクを降りて、移動することにした。ここは暑すぎる。
むんむんとした熱気の中、避暑地を求めて歩いていると、通りがかったテントの中にいた男が、由美を呼び止めた。知り合いらしく、一言二言、挨拶を交わして、別れた。
その後も、色んな所から声をかけられる由美。やはりここでは、有名人のようだ。
事務所の横の、傘つきのベンチに座る。日差しが遮られ、山から涼しい風が流れていることに、ようやく気付いた。目の前のストレートを、ぱぁーん、にゃおぉーん、と可愛らしくも荒々しい咆哮を上げながら、小さな戦闘機たちが大気の壁を突き破るように猛進していく。バイクを知らない人間からしてみれば、ここはもしかしたら恐ろしい場所なのかもしれない。
宿を出発するとき、やっぱりやめようか? と由美が聞いてきた。
大丈夫、と返答した。大丈夫。大丈夫。
ただ、兄貴と姉ちゃんのことを思い出すだけだ。きっと、大丈夫。
「はい。お茶とコーラ、どっちがいい?」
いつのまにか飲み物を買ってきていた由美が、そう言ってペットボトルを差し出してくる。僕はお茶を受け取って、キャップを開け、乾いたのどを潤した。
「……懐かしい?」
こちらを覗き込んで尋ねる、由美の顔。
「二年ぶり、だったよね、確か」
僕は喋らない。黙って頷く。
「あたしは、懐かしいなぁ。二年前も、こうして、こうやって、誠二くんとサーキットに居た。それから何度も来てるけど、あの日だけは、記憶の中の、特別な場所にしまってある気がする」
居たのは僕だけじゃない、と思った。兄貴も、姉ちゃんも、みんな居た。懐かしさは感じる。けれど僕には、いまここにあの二人がいない空虚さの方が、勝っていた。
無邪気に懐かしむことの出来る由美が、羨ましい。
そんな風に由美を羨ましがる自分が、酷く醜い。
「あのときも」僕はようやく口を開いた。「俺たちは確か二年ぶりに来て、そんなこと、言ってたよな」
「そーそー。なんだ、覚えてるじゃん」
嬉しそうに笑う由美。
確かに、五年前までは兄貴と一緒によく来ていた。ぱったりとサーキット通いを止めたのは、母が死んだころだった。それは由美も知っている。だから、それ以上、何も言わない。突然来なくなった僕を、責めたりも、しない。
懐かしい。
本当に、この場所の、目に映る全てが、嫌になるくらい、懐かしい。
むしろ――。
苦痛であるくらいに。
そんな僕に、由美が何か言おうとして口を開きかけたとき、
「おやおや? 由美ちゃんかい。なーにやってんのぉ」
と横から野太い声がした。
「あ、太田さん」
おはようございます、と由美が立ち上がって挨拶する。
そちらへ視線を向けると、皮ツナギを着た、でっぷりとした中年の男性が、紙コップを片手に、よう、と彼女に手を上げた。髭をたっぷりと蓄え、キャップ帽を被っている。人の良さそうな顔つきだった。
「今日は見学かい? 珍しいねぇ、走らないなんて」
「あはは。そんなところです。もう時間もないですし。……ショップはお休みでしたっけ」
「臨時休業。こんないい天気だ。走りに来ないとバチが当たりそうでねぇ」
がっはっは、と快活に笑う、太田さん。ショップ……きっとバイク関係の仕事だろう。
「おお、そうだ。君に見てもらいたい物があるんだ。ちょっといいかい?」
「えっと……」と言って由美がこちらを伺う。
いいよ、と僕は言った。「行っといで」
そのとき、由美の後ろで僕を見た太田さんが、友達かい? と由美に尋ねた。
「そうです。……真一さんの弟さんです」
「なるほど。彼の」
なるほど。彼の。太田さんはそう言って頷いた。
カレノ。なんだろう、僕は兄貴の何なのか。兄貴に対して、僕はどういった存在なのだろうか。
「誠治くん。こちらは太田さん。あたしのスポンサー様だよ」
と、紹介してくれる。なるほどね……。
「真一君とはよく一緒に走ったよ。あんなことになってしまって残念だけど、君がここに来ているということは、バイクを嫌いになったわけじゃないようだねぇ。ひとりのバイク屋の店長として、おじさんは嬉しく思うよ」
スラスラと淀みなく、オトナらしい言葉を吐いて、太田さんは僕に握手を求めた。
「……どうも、誠二です」
手を握る。
分厚い、手だ。
バイクを作り、直し、整備して、走らせてきた手だ。
兄貴と同じ、バイクを愛する人間の、手だ。
「良かったら、遊びにおいで」
にっこりと微笑んで、太田さんは自分のトランポに歩いていった。由美もそれについていく。
「……ちょっと行ってくるね」
ためらいがちに、言い残す。
僕は、ふぅ、とひとつため息をついた。
……まったく。
余計な、ことを。
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