8-3 水滴が、赤いタンクの上に


 あくる日の夕方。

 一日の走行を終えて、私服に着替えた由美とふたり、ベンチに座っていた。ぼんやりコースを眺めていると、不意に彼女が呟くように漏らした。

「ここ、無くなっちゃうんだって」

「…………え?」

「サーキット。閉鎖するんだってさ」

「そう……なのか……?」

 突然の話に、困惑する。

 同時に、少し納得だ。それで毎日、取り憑かれたように通っていたのか。

「三十日にね、レースがあるの。関東グランプリの第六戦。それに出場するつもりなんだ」

 関東グランプリ。ミニバイクの大会だ。全七戦あり、毎回、違うサーキットでレースをする。順位でポイントが割り振られ、最終的に最もポイントが高かった選手がチャンピオンとなる。プロレーサーへの登竜門――だったか。

 それの、六試合目が、ここのサーキットで開催され、

「それが、ここで行われる最後のレースになるってこと」

「なるほどね……」

 そりゃ、気合も入るよな。

「あたしも、今年でミニバイク卒業だから、あの子で最後に走っておきたいんだよね」

 と、自分のミニバイクみーちゃんを見やる。

「もう古いのに、ずっと頑張ってくれたから……」

 慈しむように、小さなレーサーマシンを眺める由美。

 色々あったんだろうな、きっと。

 僕が、ここに来ないあいだも、ずっとここで、由美は走ってきたんだから。

「それでさ……」

 と、由美がためらいがちにこちらを見た。

「誠二くんも、一緒に出ない?」

「……………………は?」

「いやほら! 誠二くんだって、昔はよく走ってたじゃん? けっこう速かったし! 今もアドバイス的確だし! 一緒に走りたいなーって……」

「…………バイクがねーよ」

「あたしの使ってないのがあるよ! 予備だけど、大丈夫、整備はしっかりやってるから!」

「………………ツナギは?」

「持ってる、でしょ……?」

「…………………………」

 ある。

 持っている。

 二年前まで、サーキットここで着ていたツナギは、確かに家にある。

 準備は、整えようと思えば出来る。

 だけど、そういうことじゃないんだ。

 そういう問題じゃ、ない。

「………………いや、やめておくよ」

 努めて、明るく。

 僕は言った。

 苛立ちを悟られないように。

「関東グランプリだぜ? プロの登竜門だぜ? 俺みたいに、ぜんぜんレースに出てなかった奴が、いきなりホイホイ出場したら、かえって周りに迷惑かけちゃうだろ」

 きっと、笑えてる。きっと僕は、うまく笑顔で話せてる。

「思い出作りのために素人がでちゃ、まずいって」

 やめてくれ。

 余計なことをしないでくれ。

 変な気を回さないでくれ。変な気遣いを、しないでくれ。

 そうじゃないと……。

「誠二くんは、バイク、上手いよね」

 へらへら笑っているはずの僕に、しかし由美は、まっすぐ視線を返して、言った。

「誠二くんが調整すると、バイクの動き、凄く良くなるんだよ。それってちゃんと、わかってるからだよね? ラインの取り方だって、誠二くんのアドバイスはいつも的確だよ? びっくりするよ。ずっと止まってたタイム、本当に縮まるんだもん」

「…………たまたまだろ。太田さんトコのサスが良かったんだよ」

「馬鹿にしてるの? 未完成で調整段階のサスが、完成品より良いはずないでしょ? わかってるよね?」

「……………………」

「それに、あれ、あのバイク。[R]。真一さんのでしょ? 一週間前に初めて借りたって言ってたよね? それなのに、もう乗りこなしてるよね」

「……そんなの、お前だって」

「あたしはそうだよ。これでもレーサーだもん。毎日ここで走ってるもん。でも誠二くんは違うでしょ? それなのに、あの難しい峠道を、何でもないみたいに走れちゃうのは、なんで?」

 そりゃ、そうだろう。

「あの峠は――よく、走っていたから……」

 僕はあそこで、ずっと走っていたんだ。

 兄貴の後ろを。

「それだけで? 立ち上がりでスロットルの開度を間違えたらタイヤが滑って転ぶような[R]を? 砂も砂利もヒビも割れ目もあるあの峠道を、私を後ろに乗せても余裕で走れちゃうのは――上手いからでしょ?」

「上手くなんか、ないよ」

 そう、上手くなんかない。「いつも、兄貴に負けてたし――」

「真一さんの話はしてない」

 ぴしゃり、と由美が言った。怒るように。叱るように。

「いまは、誠二くんの話をしてるの」

「――俺は」

「どうしてそんなに、嫌がるの?」

「…………なにを?」

「ここで走ること」

 思わず、目をそらす。

「っ……それは………………」

 それは、思い出してしまうからだ。

 兄貴と、姉ちゃんと、ここにいたあの頃を。

 今でさえ、ただでさえ苦しいのに、ここで走ろうものなら、より克明に思い出してしまいそうだから。

 だから――。

「勘弁、してくれ……」

 そう呟くしか、なかった。

「頼む、もうやめてくれ……」

 由美がこちらを見ている気がする。でも、僕は振り向けない。とても、目を合わせられない。

「誠二くん……あのね――」

 と、彼女が何か言いかけたとき、後ろからサーキットスタッフの声がした。由美を呼んでいる。

「あ……」

 由美がそちらを振り返り、もう一度僕を見て、そして、後ろ髪を引かれるように、ベンチから立ち上がった。「誠二くん」

「…………ごめん」

 顔も上げずに謝ると、由美は、言葉を飲み込んだように、うん、とだけ言って、歩いて行った。

――あと、何回だ。

 あと何回、こんなことを繰り返せば良いのだ。由美の気持ちはよくわかる。僕を元気づけようとしてくれている。バイクが上手い、というのは方便でも、レースに出る、という目標を持つことで、一時的に他のことを忘れさせようと、してくれている。それはありがたい。ありがたいのだけど――。

 違うんだ。

 元気がないとか、そういうことじゃないんだ。

 ただもう、放っておいて欲しい――。

 そして、『放っておいて欲しいにも関わらず、僕はまだここにいる』。その事実を思い知らされて――嫌になる。僕が僕であることに嫌になる。

 僕は僕のことが――大嫌いだ。

「おい」

 夕陽が、落ちた影を伸ばしている。人影も例外ではなく、幼い声に似合わない、長く伸びた影が、僕の斜め前にあった。

 顔を上げると、宗太がいた。いつもの、小馬鹿にするような態度じゃない。怒っているようだった。

「辛気臭ぇ顔だな」

――顔?

「死んだほうがマシだ、みたいに思ってんじゃねぇよ」

「――なんだと?」

「由美の前で、そんな顔してんじゃねぇよ……!」

 なんだ、由美の前で……? 太田さんも似たようなことを言っていなかったか……?

「どういう意味だよ……」

「だから――」

「――宗太」

 宗太が口を開くのを、戻ってきた由美が遮った。

「なにやってるの?」

「――こんなこと、言うつもりは無かったけどよ」

 少年が、僕を睨みつけながら、由美に答える。

「こいつ見てると、イライラするから言うわ、やっぱり」

「――宗太!」

 すると宗太は――気のせいだろうか、少しだけ顔を赤くして――由美を指差した。

「今度のレース、俺が勝ったら嫁に来い!」

 ……………………………………。

 は?

「……え? そっち?」

 呆けたのは、由美も同じだったようだ。目を丸くしている。

「そっちもなにも、由美のことをこんなバカに話すつもりはねぇよ」

 だれがバカだ。

 と、そんな突っ込みをする余裕もない。

 こいつ、いま、なんて言った?

――『俺が勝ったら嫁に来い』と、そう言ったのか?

 それじゃあまるで――それはまるで――。

 兄貴の――。

「――いいよ」

 由美が頷いた。了承した。了解した。受け取った。

 求婚を。

 そしてさらに、

「あたしに勝てたらケッコンしたげるし、それがダメでも誠二くんに勝てたら、ちゅーしたげる」

 などと、のたまった。

――巻き込まれた。

「はぁ? コイツに?」

「いや、ちょっと待て、俺は……」

「誠二くん、頑張ってね」

 ニコリ、と笑う由美。

「…………くそが……!」

 それを見て、嫉妬心から僕に悪態をつく宗太。完全にターゲットが変わっている。

 そして僕も、やらない、とは言えない雰囲気になっている。

 全く――女というのは、本当に恐ろしいな。こんな状況を作り出してしまうなんて。それも、自分へ好意を向けるいたいけな少年の心を弄んでまで。

 けれど、もう。………………うんざりなんだよ。

「やるわけないだろ」

「……誠二くん」

「あぁん!?」

「俺はやらない」

 もう一度、はっきりと言った。

「俺がコイツに勝てるわけないだろ」

 正直に、そう思う。[R]を上手く走らせることが出来る? それがなんだ。転ばないようにゆっくり走ればいいだけだろう? 仮に百歩譲ってバイクの『運転』が上手かったとしよう。しかし、それと『レース』は別なのだ。事故を起こさないよう注意して走るのと、何が何でも前に出るよう走るのとでは、わけが違うのだ。

「由美に、こんなガキとキスさせるわけにはいかないよ」

「誠二くん……」

 呆れるように、由美が言う。悪かったな、空気、読まなくて。

「てめぇ、逃げんのかよ!」

 一方で、すっかり由美の術中にハマった宗太が、僕をなじる。

「…………逃げて何が悪いんだよ」

「恥ずかしくねーのかよ!」

「勝てもしない勝負を受けて、迷惑するのは周りなんだよ。約束を破るくらいなら、最初っからしちゃいけねぇんだよ。出来もしない約束なんか、しちゃいけねぇんだよ……!」

 そうだ。

 初めからわかってたのに、あんな約束、守れるはずがないって。

 それなのに、どうして、僕は……姉ちゃんに……。

「そんなの気にしてたら、何もできねーじゃねーか!」

 宗太が、わめく。

 子供らしい気の短さで、バカみたいに真っ直ぐに――まるで、兄貴のように。

 姉ちゃんのことになると、目の色を変えて本気になる兄貴のように。

 真っ直ぐに。

 けれどそれが――だからそれが――虫唾が走るんだよ。

「そうだよ」

 自分でも驚くくらいに、冷たい声が出た。

「だから――何もしない方がいい」

「なっ……てめ……!」

「……お前がそう言えるのは、お前がまだ失敗してないからだよ」

 それは羨ましいことだ。とても尊いことだ。

 僕にはもう、戻れない、昔のことだ。

「――だから」

 宗太はしかし、僕の顔を見てまるで関係のないことを言う。

「由美の前で、そういう顔をするんじゃねぇって言ってるだろ……!」

 …………どんな顔だよ。

「宗太。もういいよ。ありがとね」

 由美がため息をつく。

「宗太とあたしの約束は、ちゃんとしたから。それでいいでしょ?」

「……………………おう」

 釈然としない顔で、しかしそれでも、宗太は頷いた。

 由美は……本気なのだろうか。

「レースまであと一週間! 全力で勝ちに行くからな! 由美もそんな古いバイク、いい加減乗り換えろよ!」

 去り際にそんな台詞を残して、宗太は帰っていった。

「ほっとけっての……」

 呟く由美。

 黙る僕。

 残された二人。

 何となく、気まずい。

 …………。

 これ以上、こいつに気を使わせるのは、よくないな。

「…………悪かったな、由美。その……せっかく気を回してくれたのに」

「……………………」

 無視、である。

 怒ってるか……。そりゃそうだよな……。

 けれど、

「ううん……あたしの方こそ、ごめんね」

 由美が振り返って、謝った。

「誠二くんの気持ち考えないで、余計なことしちゃって」

「いや……」

 否定とも肯定とも取れない、煮え切らない言葉を吐いたきり、つい黙ってしまう。

 迷惑だなんて言えない。けれど、感謝を表すのは、また違う気がする。

「……………………」

「……………………」 

 沈黙――を破ったのは、今度は由美だった。

「誠二くん、あたし……」

 ぽつりと呟く。

「宗太に負けたら、どうしよう……」

 言葉とは裏腹に、迷っている素振りはない。ただ、口にしているだけ、という感じがする。

「どうしようって……本気なのか? さっきの」

「…………本気だったら、どうする?」

「……どうするって……」

「誠二くん、止めてくれる?」

「……………………」

 止める?

 僕が?

 どうして……そんなことができる?

「あはは、ごめんね、冗談冗談」

 得意の、満面の笑みで、由美が言う。

 無邪気に。

 あるいは、無邪気を、装って。

「止めねぇよ、とか言われたら、怖いしね」

 切るように言葉を止めて、顔をそらす。

 反論も、返事すら、許さない口調だった。

 いや――許さないと言うより、聞きたくない。怖がっている。

 僕は――。

 止めることも、止めないことも、選択できない。他人の人生に、いや、家族の人生にだって、これ以上、僕みたいな奴が踏み込んじゃいけない。口を出しては、いけない。僕がどうしたいか、じゃない。僕はもう、何もしてはいけない。

 反論も返事も、助言も批判も、する権利はないのだ。

「………………あたし、バカみたいだね」

 やがて、由美はそれだけ呟くと、バイクに向かって歩いていく。

「――由美」

 追いかけて、声をかけると、

「ごめん、先帰るね。太田さんに言っておいて」

 一方的にそう告げて、振り向きもせずに、走り去っていった。

 僕はただぼんやりと、由美の後ろ姿を眺めていた。

 追いかけることもしないで、ただ、赤いバイクのテールランプが小さくなるのを眺めていた。

 

 翌朝、八月二四日。由美は起こしに来なかった。

 食堂に行くと、ひとり朝食をとっていた彼女が、しかし笑顔で、

「おはよー」

 と、何事もなかったかのように手を上げる。

「……おはよ」

 彼女の隣に座り、用意された食事に手を付けた。

 美味しいはずなのに。

 とても美味しいはずなのに。

 味がしないことに――味を感じられないことに気が付いたのは、ほとんど食べ終わってからだった。


 夏休みもあとわずか、にもかかわらず、今日も今日とて僕らはサーキットに来ていた。

 由美とは朝から、あまり話をしていない。

 しかし。

 いつも通りに走りまくり、一日の走行時間を終えた由美が、ヘルメットを外して、僕に言った。

「跨ってみなよ」

 何をいまさら、という感じだった。しかし、よくよく考えてみれば、僕はこのレーサーマシンを整備したことはあっても、跨ったことは一度も無かった。

 無意識のうちに。

 それを、避けていたのかも、知れない。

 何か、歯止めがきかなくなるような気がして、避けていたのかも、知れない。

「どうしたの。さぁ」

 急かす、由美。

 否――無意識なんかじゃない。

 はっきりと避けていた。昨日、レースに出ることを拒否したように。

 それの意趣返し――なのだろうか。由美は僕に、その線を越えさせようとしている。

「……わかったよ」

 甘んじて、受けよう。

 たった一日だけだけど、お前のおかげで、あの夢を見なくて済んだんだ。

 幸せな夢みたいな現実を、送ることができたんだ。

 恐る恐る、僕は跨って、そして――。

 スロットルを、捻った。

 ぱぁぁーん、と。

 バイクが、鳴いた。

 [R]の鳴き声とは違う。

 あの頃の――五年前、兄貴たちと一緒にいたあの頃の、みんながいたあの頃の、兄貴のバイクと同じ排気音で、鳴いた。

 隣には、皮ツナギ姿の由美。あの頃より少しだけ成長した、由美の姿。

 ああ。

 ああ、そうか。

 本当に、懐かしいな、兄貴。

 由美が言っていた、記憶の中の、特別な場所にしまってある、大切な思い出。

 僕は――。

 兄貴、僕は――、本当に大切なものを、僕の手で、壊してしまったんだな。

「……誠二、くん?」

 俯いた僕の顔を、心配そうに覗く由美。

――もう、いいだろう。

 やめてくれ。

 余計なことを、しないでくれ。

 いまだけは、見ないでくれ。

 兄貴。

 兄貴が。

 僕の、せいで。

「ぐうぅっ……」

 ぽたり、ぽたり、と。

 水滴が、赤いタンクの上に落ちる。

 もう、駄目だった。押しあがってきた感情は、抑えることも出来ず、ただ僕の瞳から涙を流させた。

 一ヶ月前のあの日に、とっくに枯れ果てたと思った涙は、しかしとめどなく溢れ出て、留まるところを知らなかった。

「うぅううっ……」

 僕はひたすらに、泣き続けた。

「……ごめんね」

 優しい、声。

 肩を抱かれる。

 暖かい。

 まるで、亡くした母のように。

 兄貴が、そして僕が、生きていた場所を、思い出させてくれた。

 「……帰ろう」

 彼女が呟いたその言葉に。

 ただゆっくりと、頷いた。

 帰ろう。

 お前には、話すから。

 ちゃんと全部、話すから。

 だから、あの部屋に、峠が見えるあの場所に、もう一度だけ、帰ろう――。

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