8-2 消えてしまいたい
夕刻、宿へ帰ってきた。
あのあとも由美は、ほとんど休む間もなく走り続けた。
とても「パーツの具合を見るための慣らし運転」とは思えないペースで周回をしていると思ったら、ピットインして、太田さんにパーツの感触を伝え、セッティングを少し変えて、またコースイン。しばらく走ったら、またピットインして……をずっと一人で繰り返していた。なにか、焦っているようにも見えたが……。
由美の乗る
「名前も付いてるんだよ」
「ほほう、どんなだ?」
「みーちゃん」
「……………………「mini」のみーちゃん?」
「ご名答っ!」
安直だった。
それはさておき、由美は本当に速かった。最新型のレーサーマシンに囲まれているにもかかわらず、周りのバイクがまるで止まっているかのごとく、すいすいと無駄なく追い抜いていく。
速い速いとは思っていたが、まさかここまでだとは想像もつかなかった。僕が来なかった二年ものあいだ、こいつは本当に努力し続けたんだな、と………………尊敬する。少しだけ。
そうして。
思い切り走って満足したのか、宿に帰るころには、すっかり機嫌が良くなっていた。
「誠二くーん」
ふすまの向こうで、由美が呼んでいる。「開けてもいーい?」
ごろりと寝転がっていた僕は、体を起こし、応える。
「ああ、どうぞ」
すすすす、とふすまが開くと、朝とは天と地ほどの差があるような晴れ晴れとした顔で、Tシャツに短パン・ニーソ姿の由美が立っていた。相変わらずの絶対領域が眩しい。
「ボクねー、明日も行くことになっちゃったー」
「なっちゃったー、ってわりには嬉しそうだなぁオイ」
……ん、ボク?
「一人称が直ってねーぞ。浮かれすぎだこのバカ」
親切心で優しく訂正を入れてあげると、しかし由美はふっふーんと四つんばいになって迫ってくる。顔が近い。あと、なんだその、胸元が……丸見えで……。
「誠二くんは、『あたし』より『ボク』の方が好きなんでしょー?」
と馬鹿けたことを言う。
馬鹿な。
何でわかったんだ。
「はっ」
とりあえず、鼻で笑っておいた。
「お前のような小娘が使う一人称になど、興味は無いわっ」
すると、体をくねくねさせながら、上目遣いで、恥ずかしそうに由美が言う。
「で、でも……。ボクはお兄ちゃんがスキって言うなら、ず、ずぅっとこのままでも、いいんだよ……?」
「おにぃっ! くぅ! 犯罪だっ!」
「何がだよ」
突っ込まれてしまった。
結局、僕はそれから毎日、サーキットに連れて行かれる羽目になった。
サスペンションがまだ完全じゃない、とかいう理由だったが、もちろん太田さんにだってショップの仕事がある。毎日サーキットへ行けるわけじゃない。僕らは車の運転免許は持っていないから、
コース内を疾駆する、由美の、買ったばかりの
排気量は違っても、エンジン形式はミニバイクと同じ2ストロークだから、やっぱり、ぱぁーんにゃおぉーんと鳴き喚く。
ここのサーキットは、走行枠が、三つに割り振られている。ミニバイク、中・大型バイク、カートの三種類だ。各クラスに割り当てられた時間は二十分で、一時間で一回りする。由美が乗っているのは、中型バイクだ。このクラスで走ったことは無いはずなのに、当然のようにずば抜けて速い。
僕はといえば、由美から渡されたストップウォッチでタイムを計ったり、あそこのコーナーがギクシャクしてる等と素人の意見を言ってみたり、走り終わって汗だくになった由美にドリンクやタオルを渡したり、バイクの整備を手伝ったりと、何だか陸上部のマネージャーみたいなことをやらされていた。それを宗太に笑われ、大人らしく口撃し、泣かせ、大人の部分を攻撃され、泣かされたりしていた。
ただ、自分でバイクを走らせることだけは、決してしなかった。
……いったい、何をやってるんだろう、僕は。
ここには、確かにいい思い出がたくさんある。しかしそれは、同時に苦痛を呼び覚ますものであり、常に、僕はこれでいいのか、と迷いを押し付けるものでもある。
それなのに。
辛い場所の、はずなのに。
僕はここを、離れられずにいた。
成り行きで再開した、サーキット通いも、由美との生活も、僕の心にぽっかりと開いた空虚感を、徐々に、しかし確実に、埋めていくかのようだった。
そんなあるとき。
コース上から、聞きなれた排気音が途絶えたと同時に、鉄とアスファルトが摩擦する嫌な転倒音がした。
身が凍るような思いで、その方向に何とか首を向けると、由美が、サーキットのスタッフに手伝われて、のっそりと
僕は、動けない。立ち尽くす。
「えへへ……」
帰ってきて、『村上くん』から戻った由美が、ばつの悪そうに笑う。バイクを押しているが――歩き方は問題なさそうだ。良かった、大した怪我じゃないらしい。
声が震えるのも構わずに、質問を投げかけた。
「大丈夫か? 怪我は? どこ打った? 気持ち悪いところないか?」
「うん。無傷。綺麗に転んだ」
華麗なスリップダウンだったよー、と笑う由美。
「そうか――」
身体から、力が抜けていく。
そうだよな、と思う。こいつ、あんまり転ばないから心配してなかったけど、ここは、サーキットは、そういう場所なんだよな……。
人がいつ、大怪我を負ってもおかしくない場所。
場合によっては――。
と、由美が僕の顔を覗き込む。
「そこは、スリップダウンに華麗もハヤシもあるかー! って突っ込んでくれないと」
「知らねぇよ」
「心配してくれたの?」
「してねぇよ」
「ふーん」
ふーん、じゃねぇよ。嬉しそうにしやがって。なんか悔しいな。
僕がムッとしていると、
「でも、今日はもう無理だね」
残念そうに言って、由美は赤いバイクを見る。
右側のステップが、折れていた。これでは走れない。
「あぁ、あたしのぷろろん……」
由美がしおしおと悲しんでいる。レース用じゃない、自分の趣味バイクで走る以上、こうなることは覚悟していただろうが……悲しいものは悲しいよな。
「ま、怪我無くて良かったよ」
「毛が無くて良かったよ? 誠二くん、やっぱり気にしてたんだ……」
チラっと僕の頭を見る由美。同情した僕がバカだった。
「お前に言われたくねぇよ、デコ娘」
「てへぺろ☆」
うぜぇ。
「予備は?」
「ステップは持ってきて無いなぁ。ブレーキレバーならあるけど」
無理だ。
「あ、ていうか、困ったな」
今日は太田さん、ショップの日である。
「帰れないな……」
不覚だ。万が一、走れなくなった場合の「足」を考えていなかった。これじゃあライダー失格だ。ついでにマネージャーも。
「大丈夫だよ、誠二くん。家まで帰ればステップの予備はあるよ」
「家に帰るまでが問題なんじゃねぇか」
「それも大丈夫!」
「なんだ? 誰か知り合いに送って貰えるのか?」
有名人だしな。ツテがあるなら、恥を忍んでお願いしてみるか。
「ん!」
しかし由美は、まっすぐ僕を指差すだけであった。
「いや、僕に知り合いはいねーよ? せいぜいあの
「そうじゃなくって! ほら!」
今度は[R]を指差す由美。
「………………いや、あれこそステップが無いんだよ。後ろの」
一ヶ月前に取り外されて以来、付いていない。
しかし由美は、流線型のボディ(主に胸部)を精一杯反らせて、腰に手を当て偉そうに、
「大丈夫!」
と、叫んだ。
「あたし、体重軽いから!」
ものすごく、嫌な予感がした。
帰りの峠道を、[R]が走っていた。
ライダーは僕。
そして本来、乗れないはずのタンデムシートには、ツナギ姿の由美。
嫌な予感、的中であった。
それにしても、お互いかぶっているのがフルフェイスヘルメットだから、微妙にゴツゴツとぶつかって、なんかこう、しっくりしない。自転車の二人乗りのようにはいかなかった。僕の後頭部と、由美の前頭部が、無言の小競り合いを繰り広げた結果、僕は右側に、由美は左側に首を曲げて走るという、奇妙な膠着状態に陥っていた。
「首が痛ぇ……」
「文句言わないの!」
「なんでお前が偉そうなんだよ」
嘆く僕。
「ていうか、家からステップ持ってくれば良いんだから、俺だけでもよかったんじゃないのか……?」
「それじゃつまんないじゃん!」
「面白さが最優先だった!?」
合理性という言葉を覚えろ、プロライダー。
……まぁ、そうは言っても、二人乗り。
日本男児として生を受けたからには、誰しも一度は憧れる、あのスタイルである。
心が踊らないはずがない。
しかし――夢だった。幻想だった。憧れは憧れのままにしておくのが一番だった。
タンデム・ステップを取り外しているから、由美は僕に背負われるようにして引っ付いている。彼女の腕が僕の腰に周り、まるで、ぎゅっと抱きしめられているようだ……と言いたい所なのだが、どちらかと言えば子猿を背負っている親猿の気分だ。あまりにも……その……まな板すぎて。
僕が哀れな心持ちになっていると、後ろの子猿が嬉しそうに口を開いた。
「一度言ってみたかったんだー」
「何を?」
「当ててんのよって」
「えっ」
何を?
いや、ごめん。これだけ密着しているのに、まったく背中に柔らかさを感じないのだが……。
まぁ、口が裂けてもそんなことは言えまい。
さりげなく話題を変えることにしよう。
「SDRって、良いフォルムだよな」
「わかる! 小っちゃくて平べったいスポーツバイク! あの薄さがカッコ可愛いよね!」
通じたけど通じてなかった。
手強い女だ。
「個人的には、XJR1300みたいな、スマートに見えても出る所は出てるってのが好きなんだけどな」
「さっきから何の話をしてるの?」
「バイクだけど?」
「バイクだよね?」
違うけどね。
「……………………誠二くんの変態」
呟く由美さん。
バレてた。
家――じゃない、宿か。
……………………。
ふと、その間違いに気がつき――そんな間違いを犯してしまった自分自身の愚かさに気がつき――黒々とした靄が僕の胸の内に広がっていくのがわかった。楽しければ楽しいほど、あとから湧き出るその靄の暗さは、深さを増す。
光が強いほど、影も濃くなる――なんてことを言うつもりは無いけれど。作用と反作用というものは、何にでもあるものだ。
それが、ひとの心でも。
「…………うぷ」
喉の奥にすっぱい物がせり上がってきて、慌ててトイレに駆け込む。
昼ごはんを、すべて吐き出した。
……あぁ。
和便器と仲良くなりながら、自分を呪う。
………………浮かれやがって、バカが。恥を知れ。
僕は。なにを、馴染んでいるんだろう。
口を洗って、部屋で休み、いつも通りの食事を頂き、いつも通りに風呂に入り。
夜、布団に入って、もう見慣れた天井を眺めながら、考える。
眠れない頭で、考える。
少し前の僕には考えられないことだ。
後ろに、誰かを乗せるなんて。
しかもよりにもよって――兄貴のバイクで。
本当は、カーブを曲がるたびに手が震えていた。汗がずっと止まらなかった。それなのに、どうして、あいつを後ろに乗せたりしたんだ。
由美の勢いに乗せられているのか。
僕が浮かれすぎているのか。
浮かれすぎたあとは――必ずと言っていいほど、揺り返しが来るのに。
後悔と、罪悪感の、揺り返しが。
こんなことをしていて、いいはずがない。
こんなことをするために、来たんじゃない。
なにをやっているんだろう。
本当にもう、消えてしまいたい。
本当にもう――し
……不意に、窓の外から、バイクの排気音が聞こえた。
由美じゃない。遠い、誰とも知れないバイクの音。やや高音で、二つの音がリズムになって、でも控えめで。
――4ストローク。
川のせせらぎは聞こえなくても、虫の鳴き声は耳に届かなくても、それだけは、しっかり認識してしまう。どんなバイクか、見当が付いてしまう。無意識に見当を付けてしまう。
兄貴とやった、くだらない遊びを思い出してしまう。
今夜もきっと、あの夢を見るのだと思いながら……体を丸めて、目を瞑った。
すると、
――かりかりかり。
と、ふすまが鳴った。爪で引っ掻いたような音だった。
「………………誠二くん、起きてる?」
控えめな声が、向こうから聞こえる。
「………………」
「……何かあったら、言ってね」
それだけ言って、それ以上は言わなかった。
ドアの開く音はしない。
廊下を歩く音もしない。
ただ、誰かがふすまに背中を預ける音がした。
………………。
いくら夏とは言え、廊下の床は、座るには、冷たいだろうに。
それでも、動く気配は、なかった。
……………………。
丸めた体が、頭が、少しずつ、重くなっていく。
ふすまを隔てた先に、あの子がいるのが、せめてもの救いだった。あの子が近くにいるという事実だけで、眠れそうだった。
僕はそれだけで幸せだった。
幸せを、感じることができた。
……………………おやすみ。
――その夜、夢は見なかった。
あの日以来、はじめてのことだった。
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