8-1 夢のような現実
夢のような現実は、幸せすぎて悪夢を見ているようだ。
吐き気がする。
翌朝。
「おきろぉ!」
すぱぁん! とふすまが開く。
昨晩の出来事など無かったかのように、またも桶一杯の氷と共に、由美が盛大に僕を起こしに来た。
「あ、う……?」
しかしながら僕はいまだ夢心地で、今日はついに桶一杯の意味を知ることとなった。
あろうことか。
「がばがばがばがば」
とまたも擬音を口にしながら、僕の顔めがけて、桶一杯の氷を全てぶちまけた、由美さん。
……痛い冷たい息苦しい。
……やっぱり昨夜のこと、根に持ってるのかもしれない。
「どうだー。冷たくて気持ちいいだろー」
氷の上から声が聞こえる。
「これが顔だったから良かったものの、下半身だったら、おまえ――死ぬぜ?」
などとよくわからない犯行予告を受けた僕は、仕方なく起き上がった。
「ふん」
それを見届け、部屋へ戻ろうとする由美に、僕は声を掛ける。
「……昨日、ごめん、な」
「……何のことだかわからないけど」
立ち止まり、肩越しに振り返って、
「ちゃんと、片付けておけよ」
無造作に置いてある桶を、あごでしゃくった。そこら中に散らばっている氷を、この桶に入れておけ、という意味らしい。
……絶対、何のことだかわかってんじゃねーかよ。
「あ、あのさ」
「はい?」
背中を向けたまま、僕に問いかける由美。心なしか、弱気に見える。
「ひょっとして、あたし、鬱陶しい?」
嫌い? とは、聞かれなかった。けれど、同じ意味に聞こえた。
僕はなぜだか、由美がそんな風に卑屈になる姿を見るのが嫌だった。いや、由美にそんな誤解をされるのが嫌だった。
だからつい、
「そんなわけないだろ!」
と、怒鳴ってしまった。
びくっと、由美の体が震える。小さな肩がすくんで、胸の前で両手を押さえているのだろう。
しまった。驚かせてしまっただろうか。
「じゃあいいけど……」
しかし由美は、そんな様子も見せずに、こほんとひとつ咳払い。
「十分後に迎えに来るから」
「……はーい」
ここは大人しく従っておくことにする。
女は怖い、とぶつぶつ言いながら、僕は氷をひとつづつ拾っていくのであった。
あれでチャラになったのだろうか。
そんな疑問を抱きつつ、僕は由美に連れられて、太田さんが経営するショップへバイクを走らせた。幸い、サーキットへの通り道に、店はあるらしい。由美は大きなバッグをタンデムシートにくくりつけていた。皮ツナギが入っているのだろう。
「お、よく来たねぇ。じゃ、行こうか」
ショップに到着すると、温和な笑顔の太田さんが迎えてくれた。店内から例のパーツ付きミニバイクをトランポへと載せる。さすがに、今日はお店も営業中だった。若い従業員に店番を任せ、太田さんと由美、僕の三人で、サーキットへ向かう。運転はもちろん太田さんだ。
サーキットの入り口ゲートを抜けて、事務所の横にトランポを駐車。車の後ろにテントを張り、後部ハッチを開けて、バイクを降ろす。
見る目も鮮やかなイタリアンレッドのカウルに、スポンサーらしき企業各社のステッカーが貼られている。排気量は原付バイクと同等の50cc。[R]のような大型バイクと比べれば、おもちゃのような小さな車体だが、その内には、時速100キロを突破するほどのパワーが秘められている。
これが、由美専用のミニバイク。純レーサーマシン「NSR―mini」。
兄貴の[R]と違い、「改造すればレースに出せる一般車両」ではない。そもそも、公道での使用が想定されていない、「レースで勝つための専用車両」。
発想の出発点から――違うのだ。
太田さんはせかせかとマシンの整備に取り掛かり、朝からまともに口を利かない由美は、大きなバッグを持ってトイレに向かって歩いていった。着替えるつもりらしい。僕はとりあえず、太田さんの仕事を手伝うことにした。
「何かあったのかい?」
タンクに、携行缶からガソリンを注ぎながら、太田さんがにやにやして、タイヤの空気圧を測っている僕に尋ねる。
「ずいぶんと機嫌が悪そうだなぁ、彼女」
このニュアンスの「彼女」とは、三人称の彼女だろうか、それとも恋人としての彼女だろうか、それならば否定しておかなければ、と一瞬だけ悩んだが、前者として会話することにした。後者を選択すると、「そういう意味じゃなかったんだけど、おやおや、意識があるのかい?」などと言われかねない。
「昨日、ちょっとした行き違いがありましてね」
「おやおや。否定しないね。やっぱり『彼女』だったんだねぇ」
結局、同じことだった。このオヤジはまったく……。
「違いますよ。ただの兄貴のライバルです」
「はは。そうだったねぇ。うん、真一君も速かったなぁ」
おっと、とタンクから携行缶の注ぎ口を抜く太田さん。「けどまぁ」タンクのキャップを閉める。
「どうして彼は、あそこまで由美ちゃんに執着していたのかねぇ」
「由美がここで一番だったからでしょ。馬鹿だったんですよ」
そっけなく、僕は言った。
「本当に、それだけかねぇ。可愛い弟の恋人を、よく見ておきたかった、だったりしてねぇ」
「……茶化さないで下さいよ。空気圧、こんなもんでどうですか」
「うん、オッケー。それにしてもだ、誠二くん」
急に真面目な顔をする、太田さん。
「僕も、君みたいな人は何人か見てきた。大事な人を亡くしてしまった人をね」
とつぜん何を言い出すのだろう、この人は。
「忘れろなんて言えないし、向き合い方もそれぞれだ。でもね、君がそんな顔をしていると、由美ちゃんが可哀想だ」
由美? 由美に、何の関係が?
「辛いのは、君だけじゃない。残された人はみんな、辛いんだ。わかるだろ?」
「そんなことは、わかっています」
そんな台詞は、山ほど聞いてきた。
「それなら良いんだけどね。いいかい? 決して、安易に逃げ出したりしては、いけないよ?」
胸の内を、見透かされているようだった。
僕がずっと抱えている、後悔。こうしていることの、違和感。
でもそれは、逃げでも、甘えでも、無い。
大事な人を亡くした、だって?
何も、何も知らないくせに。
僕が、兄貴と姉ちゃんにしてしまったことの大きさを、知らないくせに。
「はい。心配かけて、すいません」
僕が頭を下げると、太田さんはにっこり笑った。こんなやりとりを、あと何回こなせばいいのだろうか。あと何回、他人を偽ればいいのだろうか。
まったく――放っておいて欲しい。
「さて、と。おやおや、そろそろお姫様の登場みたいだねぇ」
太田さんのわざとらしい言葉に振り返ると、バイクと同じく、赤を基調にレイアウトされた皮ツナギを着た、小さな女子高生レーサーが、貫禄十分にこちらへやってきた。
「それとも、王子様かな」
などと太田さんがうそぶく。
確かに、顔つきからして違っている。目の色が変わった、なんてレベルじゃない。まるでプロボクサーを目の前にしているかのような、威圧感だ。
「ボクの」由美が言った。「ボクのメット、取ってくれないか」
呆気に取られた僕の脇から、はいよ、と太田さんがヘルメットを渡す。
「スイッチが、入ったみたいだねぇ」
思い出した。こいつは皮ツナギを着て、本気モードになると、男には負けられないとか言って、一人称が『ボク』に変わるんだった。どうして『オレ』じゃないかは、未だに謎だが。
「それじゃあ、頼むよ。『村上くん』」
マシンに跨った由美の肩を、ぽんと叩く太田さん。それに応える小さなレーサーは、まるで戦場へ赴く兵士のような潔さで、行って来る、と頷いた。
ぱぁーんにゃおぉーん、と雄たけびを上げて、由美の駆る小型戦闘機は、ゆっくりとコースインしていくのであった。
「おい」
由美を見送り、パーツの整理をしていると、後ろから声をかけられる。かと思えば、足に何かがぶつかった。振り返る。
人……子供だ。小学生くらいの、ツナギを着た男の子だ。僕の右ふとももにぶつかって、反動で倒れたのか、地面に尻餅を着いて、驚いたように見上げている。
いや、びっくりしているのは僕の方も同じだけど。
なんだ、この子?
困惑していると、男の子は睨みつけるようにして、立ち上がった。
「て、てめぇ、なかなかやるじゃねぇか」
「……はぁ?」
なにがだ?
「俺様のしょるだーたっくるを弾き返すなんて……。デカいだけはあるな」
ショルダータックル? いまのが?
わざとぶつかったのか? なんで?
というか、この子はいったい誰なんだ?
「お前、由美の何なんだよ……!?」
怒気を孕んだ声で、逆に尋ねられる。
「なにって……」
「カレシか?」
「違うけど」
「クラスメートか?」
「それも違う」
「じゃあ何なんだよ!」
地団駄を踏んだ。
子供らしい気の短さで癇癪をおこす少年だった。
いや、お前が何なんだよ……。
「あれ、宗太くん。なーにやってんのぉ」
事務所へ行っていた太田さんが帰ってきた。少年を見ると、声をかける。
「調子どうだい?」
「おっちゃん! こいつ誰だよ!」
太田さんの挨拶を無視して、僕を指差す少年。
――こいつ呼ばわりか、うぜぇな。
などとは言わない。
「ああ、彼は誠二くんと言ってね。由美ちゃんの……彼氏?」
「違います」
即答しかあるまい。
それにしても、『カレシ』と『彼氏』か。太田さんと少年で、同じ言葉でも発音が違うのだと、ジェネレーションギャップを感じる。二人のあいだの。
「クラスメートだっけ?」
「それも違います」
「じゃあ何だっけ?」
「あんた一体、なに聞いてたんですか……」
ため息ひとつ。
「幼馴染で、ただの友達ですよ。……
「はん!」
と、少年が胸を張る。
「それなら俺だって同じだぜ! 由美とはここで仲良くなって、今やライバルだ!」
由美由美と連呼しやがって……。
ちょっとだけ、イラっとした。
「太田さん、このガキは何なんです?」
「誰がガキだてめーっ!」
「中宮宗太くん。十三歳の中学一年生で――」
「はぁっ? 中学生!?」
「誰がチビだ!」
「……まだ言ってねぇよ」
「いま言おうとしたんだろ!」
「――レーサーだよ。将来有望な、ね」
太田さんからその言葉が出ると、少年――宗太は誇らしげに顎を上げた。ドヤ顔だ。うぜぇ。
「未来の世界チャンプだぜ?」
そんな俺様な態度でやっていけるほど、レースの世界は甘くないと思うのだが……。まぁ、とりあえず聞くことはひとつだ。
「由美より速ぇの?」
「………………………………………………………………」
黙っちゃった。
あ、ちょっと泣きそうになってる。
腹が立って、つい聞いちゃったけど、悪いことしたな。このくらいの歳の子って、女子に負けるのが凄く嫌だもんな。
と、罪悪感がかすかに湧いて――。
「うるせーんだよ雑用!」
その一言で吹き飛んだ。
「サーキットに来て走らねービビリなんかに言われたくねーんだよ!」
「……泣くなよ」
「泣いてねーし! ぜんぜん泣いてねーし!」
「目が真っ赤だぜ、二番手。いいよなぁ、ずっと由美のお尻が見られてよー」
「……………………うぅっ!」
「知ってるか小僧。レースじゃあ『優勝』の二文字は、トップを取った奴にしか与えられないんだぜ? いくら表彰台に上がっても、二位は優勝じゃあないんだぜ?」
「…………………………うううるせーんだよヴァーカ!!」
「んおぅっ!?」
俯いて泣くのを堪えていた宗太が絶叫したかと思えば顔を上げ、腰の入ったパンチを一発僕にお見舞いして走り去った。身長差のせいか、はたまた狙い通りなのか、彼の放った正拳突きは僕の股間を直撃する。
「うをぉ…………」
悶絶。
むごい、余りにもむごすぎる。
同じ男として、やるべきことじゃない……。
「自業自得だねぇ、誠二くん……」
膝をついて呻く僕の上に、太田さんの容赦ない言葉が降り注ぐ。呆れ気味に。
「…………反省してます……」
「君はもう少し、大人だと思ったんだけどねぇ」
「……………………」
オトナね……。
兄貴は――。
痛みの中、ふと、思う。兄貴は大人だったんだろうか。妹に手を出して、
分別のある大人の、やることだったんだろうか。
僕にはとても、そうは思えないけれど。
でも。
僕にはとても、そんなことを言う権利は無いのだ。
「………………いてぇなぁ」
あいつ、思い切り殴りやがって。…………どうせ、使わないからいいんだけど。痛いものは、痛い。
立ち上がり、膝に着いた砂を払う。
………………。
まだ収まらない痛みに、二度、三度とジャンプしていると、
「……何やってんだ?」
コースから帰ってきた由美――もとい、『村上くん』が、訝しげに僕を見たのであった。
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