7 メール

 メールの話をしよう。

 ある晩、バイトから帰ってくると、台所で姉ちゃんが倒れていた。

 親父も兄貴も仕事で帰ってきてはおらず、家には誰にも居なかった。洗い物をしていたのだろう、姉ちゃんはエプロン姿で、シンクの水道は流れっ放しになっていた。誰も見ていないテレビが、画面からたくさんの笑い声を上げる。

 バッグを投げ捨て、慌てて姉ちゃんを抱き起こすと、うぅ、と辛そうなうめき声が上がった。

 落ち着け、落ち着け。

 そう言い聞かし、ケータイで救急車を呼ぶ。やがて到着し、もちろんそれに同乗する。病院に着き、医師から診断結果を聞かされて――。

 姉ちゃんが妊娠していることを、知った。

 緊急病棟のベッドで、彼女は横になっていた。腕には点滴が打たれている。

「言わないで」か細い声で、懇願した。「黙っていて」

 どうして、と尋ねた。誰に、とは聞かなかった。

 すると突然、姉ちゃんの瞳に、ぶわっと涙が溢れてきた。「私のせいなの。だから」

 だから言わないで。

 兄貴には、言わないで。

 私が、自分で、何とかするから。

 顔をくしゃくしゃにして、嗚咽交じりに、念仏のように繰り返していた。

 僕は。

 僕は、何も言えず、何も出来ず、ただ黙って、聞いていた。

 どうして姉ちゃんがこんな思いをしなければいけないのだろう。

 母が亡くなって、最も苦労したのは彼女だ。僕はずっと、それを近くで見てきたのだ。

 どうして兄貴だったのだろう。

 どうして兄貴じゃなければいけなかったのだろう。

 どうして兄貴は拒絶しなかったのだろう。

 ……どうして僕は、二人を止めなかったのだろう。

 ぐるぐると、そんな考えだけが頭を回り続ける。悲しみと憎しみと嫌悪感を、わたあめのように吸い込んで、大きくして。

 しばらくして僕は、家に電話してくる、と立ち上がった。

「誠二……」

 すがるような眼で、僕を見る姉ちゃん。大丈夫だよ、と笑って、カーテンを開けてベッドを離れた。

 病院から出て、携帯電話の電源を入れると、即座に親父から着信があった。

「どうした! 何かあったのか!?」

 叫ぶように問いただしてくる親父。いつもでは考えられない。家の様子が普通でなく、僕と姉ちゃんふたりに連絡が取れなければ、心配もするだろう。

「大丈夫。何でもないよ。ちょっと姉ちゃんが貧血を起こして、それで慌てて病院に連れて行ったんだよ。明日には退院できる」

 嘘はついていない。原因はともかく、姉ちゃんは本当に貧血だった。ただ少しだけ、事実を隠した。

 これからそちらへ行く、という親父を何とか言いくるめて、僕は電話を切った。いまは、誰とも会いたくないだろう。

 ベッドに戻ると、泣き疲れたのか、薬が効いたのか、姉ちゃんは眠っていた。すぅ、すぅ、と寝息が聞こえる。

 姉ちゃんの頬に、手を触れる。

 すると。

 ごめんなさい。とその口が動いた。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。

 胸が、つまる。

 ぽたりとひとつ、僕の眼から涙が落ちた。 


 翌日、昼ごろに、僕と姉ちゃんは帰宅した。医者からは、お大事に、と言われた。お大事に、お大事に。

 家にはやはり誰も居らず、外の喧騒に取り残された空気が、寂しそうに窓からの光に照らされていた。

 部屋まで連れて行って、姉ちゃんを寝かせる。

 時計を見ると、一時を過ぎていた。学校はサボることにして、僕も一眠りしようと、自室に戻って、ベッドに潜り込んだ。夢を見ることもなく、深く眠った。

 目が覚めて、時計を見ると、八時だった。姉ちゃんの様子を見に行く。ドアをノックして部屋に入ると、彼女は眠っていた。泣きはらした目が、見るに、耐えない。僕は起こさないように、そっと部屋を出た。

 リビングに移動する。今日も、親父と兄貴は仕事から帰ってきていない。

 兄貴、か……。

 ふつふつと、何か暗い感情が込みあがってきた。

「あの、大馬鹿やろうっ……!」

 今日が金曜日であることを確認する。明日は仕事が休みのはずだ。

 それから、簡単に食事を済ませた僕は、ツナギを着て、バイクに跨った。峠に向かう途中、高速道路のサービスエリアで携帯電話を確認する。


『姉ちゃんのことで、話がある。』


『わかった。』

 

 一発ぶん殴ってやる、と決めた。

 何も言わずに、何も教えずに、理不尽にぶん殴ってやると。

 兄貴を峠で待ち構え、奴がヘルメットを脱いだ瞬間に、グローブのままぶん殴ってやると。

 強く、決意した。

 ただ。

 それが達成されることは、終ぞ、なかった。


 由美と一緒に宿に帰った僕は、部屋へ戻り、食事の前に、親父に電話を入れた。

 夏休みとは言え、さすがに無断で連続外泊はまずい。そもそも、日帰りの予定だったのだ。

「……もしもし」

「……ああ、俺だけど」

「どうした、いまどこにいる?」

 あのときとは違って、落ち着いた声だった。いつもの親父だ。いや……。

「友達の家に、泊まってる。もう少し、居るつもり」

「そうか……」

 むしろ、それは疲れきったような声で……。

「…………姉ちゃんの、様子、は?」

「………………相変わらずだ。心配ない。お前も少し、休んで来い。……春奈は父さんが見ている」

 わかった、と言って電話を切った。ずっしりと、胸に重苦しいものが圧し掛かる。あの家に充満する停滞した空気が、電波を介してこちらへ届いたかのようだった。

――いや。

 そうでは、ない。

「原因は、俺自身、か」

 窓から、あの峠を眺める。思い出の地は、変わらずに、そこに存在し続けていた。


 夕食には、相変わらず豪勢な品目が並べられた。

 新鮮な刺身に、新鮮な野菜。

 海も山も近いこの土地には、おいしいものがたくさん揃うのだと、しわしわのおばあさんがにっこりと笑って教えてくれた。暖かい笑顔だった。

 料理を作っているのは、てっきりおばあさんだと思っていたが――由美もそんなことを言ってなかったっけ?――、実は、おじいさんらしい。何でも、数年前までは、どこぞの高級料亭で包丁を握っていたという。言われて見れば確かに、この民宿、料理だけが際立って素晴らしい。残念なことに、僕の舌では「おいしい」としか認識できないが、この盛り付けの美しさは普通でないとわかる。こんなに薄い刺身は見たことがない。とても民宿で出すレベルではなさそうだった。ちなみにおじいさんは、厳しそうな顔をして昨日から一言も話さず、僕は声を聞いたこともなかった。寡黙な人らしい。

――ちょっとした旅館、ね。

 と、由美の言ったことを思い出し、隣にいる本人をちらりと見る。すると、ちょうど目が合って、

「にっこり」

 してきた。

 口に出して言う奴があるか……。

 全ておいしく平らげた後、ごちそうさまと、これからしばらくお世話になります、と改めて挨拶をすると、おばあさんは、やはりにっこりと笑って、いくらでも泊まっていきなさい、と言ってくれた。その様子を見ていたおじいさんも、こっくりとうなずいてくれた。僕はありがとうございますと謝辞を述べ、最後に由美がごちそうさまと締めくくる。

「久しぶりのお客さんだもんね」

 宿代、いらないんじゃ……。


 食後、例によって日帰り温泉まで出向いた僕らは、そこでさっぱりと汗を流し、例によって温泉街の坂を降りていた。

「明日はね、太田さんのショップに行くつもりなんだ。ほら、今日見せてもらったパーツあるでしょ? あれを組み込んだバイクに乗って、感想を聞かせて欲しいんだって」

 ふぅん、とさも興味なさそうに僕は答えた。由美は、それを気にも留めず、一緒に来るでしょ? と聞いてくる。

「どうせ強引に連れて行くんだろーが」

「あはは。大正解~」

 いつもはこんな感じで強引なくせに、たまにどうしようもなく控えめで弱気になるときもある。よくわからない奴だった。

「つーことは、その後でまたサーキットか?」

「うん。バイクでショップまで行って、そこから車で。……サーキット、やっぱり、嫌?」

 途端に上目がちになった。ほら、こんなときだ。

「別に、構わないよ。つーか、気にしすぎ。太田さんも言ってたけどさ。俺は別に、バイクを嫌いになったわけじゃないし。もちろん、サーキットも嫌いじゃないよ」

 これは少し、嘘だった。

 嫌いではない、だが、苦痛ではある。

 あの場所に、ふたりが居ない。居たはずの人間が、居ない。そして、それらを失った僕の居場所もまた、あそこには無い。そんな気がしていた。

「そっか。良かった」

 得意の、満面の笑みで、由美が言う。

 無邪気に。

 あるいは、無邪気を、装って。

 ……こいつだって、馬鹿じゃない。

 一流のメカニックであり、世界各地のサーキットを、チームと共に転々としている両親。

 自分で日本に残るとは言ったものの、それでも、どうしようもなく寂しいときがある。寂しくて淋しくて、自分がなくなっちゃうくらい、心細くなるときが。いつしか由美は、そう語っていた。

 いや――。

 いつしか、じゃない。紛れもなく、二年前の夜だ。あの夜、僕らは、僕ら二人は……。

 超えかけた。

 一線を。

 いや、超えられなかったのだ。

 僕のせいで。

 僕が、兄貴と姉ちゃんのことで、そういうことに気持ち悪さを感じていたせいで。

「どうしたの」

 不安そうに、手を繋いでくる、少女。

「もう、黙ってどこかに行っちゃったり、突然、会いに来なくなったりは、しないよね……?」

「……しないよ」

 優しく、手を握り返してやる。

「そばに、いるから」

 うん、と安心したように、由美がうつむく。

 それからはお互いに何も喋らずに、ただ、手を繋いで、やがて宿に辿り付いた。

「……?」

 家の前にいるのに、何故か一向に扉を開けようとしない由美。仕方なく僕が、引き戸に手をかけた瞬間、「あのさ」と繋いでいる手を強く握って、由美が言った。心なし、声が震えている。

 振り返ると、瞳に、強い決意と若干のとまどいの色を宿した由美が、あのさ、ともう一度言った。

「あの日の続き、しよっか」

「…………」

 女、というのは。

 ときに偉く大胆で、そして度胸のある、恐ろしい生き物だと思った。こんな小娘でも、男の料理の仕方を知っている。

 けれど――駄目だ。

 僕は、駄目だ。

 僕には……まだ、とても――。

「……ごめん」

 うめくように、答えた。

 由美がはっきりと傷ついた顔を見せた。すぐに僕を追い越して扉を開き、中へ入っていく。やけに明るい声で、ただいまーと叫ぶのが聞こえた。

「ごめん、な」

 もう一度、呟いた。

 まだ、とても、幸せに浸れる気が、しないんだ。許される気が、しないんだ。

 間違っている気がして、ならない。

 そんな思いは、僕の中で、いまだ晴れることは無かった。

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