12 事故
その夜。
僕は一ヶ月ぶりに、あの峠の事故現場へ来ていた。
事故現場。
兄貴が、死んだ場所。
谷側の、土の上に[R]を止める。ガードレールは、無い。下を覗けば、断崖絶壁。なるほど、持って来いだ。
ふぅ、と息を吐く。
「兄貴、もう少しで、会いに行くよ」
[R]に話しかけるも、もちろん応えはない。
メールで、場所と、会いたい、とだけ伝えた。
すぐに行くから、と返事が来た。
――けれど。
あいつを呼んで、どうするつもりだったのか。もう、自分でもよくわからない。
言いたいことがあった。伝えたいことがあった。けれど、もうそんな必要さえない気がする。
これからいなくなる人間に、そんな言葉をかけられても――迷惑なだけだろう。
ただ、最後のひと押しをしてほしかったのかもしれない。
あるいは――。
……めて、――ほしかったのかもしれない。
だとすれば、厄介だ。それは困る。由美に来られては、困る。
自分で呼び出したにも関わらず、しかしそうされては問題だと思う。
せっかく迷いが吹っ切れたのだ。ようやく、実行できそうなのだ。
でも――そうだな。最初に見つけて貰うのは、あいつがいいかもしれない。
そんな身勝手な思考が僕の頭を巡っていた。
僕は最後の最期まで、僕のわがままに由美を付き合わせようとしていた。
その着信が来るまでは。
ポケットに入れていた携帯が、震えた。
メールではない、通話を示す表示。相手は――大田さんだった。
出るか、出まいか。しばらく、画面を眺める。
一体何の用事か知らないが、こんなタイミングでよくかかってきたものだ。どうするか……。早く決めないと、由美が来てしまう。仕方ない。太田さんが最後の話し相手になるのか、とぼんやり思いながら、電話に出た。
「――はい」
「誠二くんかい? いいか、落ち着いて聞いてくれ」
太田さんは、緊張している様子でそう言った。声が震えている。
「由美ちゃんが事故った」
――――――――。
――――――――――――――――――。
――――――――――――――――――――――――――――。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。
なに。
なんだって。
「トラックに撥ねられた。バイクでどこかに向かう途中だったみたいだ。急いでたらしい」
よくわからないな。
なにがどうなってるんだ?
由美が事故?
なんで? どうして?
「嘘だろ……?」
「本当だ。すぐ来てくれるかい? 病院は――」
と、僕も知っている施設名を挙げた。よく知っている病院だった。兄貴も――世話になった。
でも、本当なのか?
夢なんじゃないのか?
だって、ありえないだろう?
どうして由美がそんな目にあうんだ。おかしいだろ。急いでたって? あいつはまだ、公道に出て――免許を取って間もないんだぞ? サーキットと違って、周りを走っているのは車なんだぞ? ちょっと当たっただけで、死ぬんだぞ? なんで、急いだりしたんだよ。僕なんか――。
僕のことなんか、放っておけば良かっただろう――?
「俺の……せいで……?」
声がかすれていた。喉に力が入らない。
僕が、あんなメールを由美に送ったりしたから。いなくなりたいのに、消えてなくなりたいのに、死んでしまいたいのに、それでも――。
それでも、最期に会いたかったから。
死にたいのに――死にたいのに、死にたいのに、死にたいのに、どうしても死にたいのに、生きていちゃいけないのに――死にたくなかったから。
呼んでしまった。そのせいで――。
僕のせいで。
「由美――は」
震えながら、尋ねた。
「無事、ですよね? 無事なんですよね? あいつまた、綺麗に転んだとかで……」
ひどく醜く。
自分本位に、そう思った。
怖かったから。
でも、
「――わからない」
絞り出したような声に、絶望の色が見えた。
「考えたくはないが……最期になるかも知れない。すぐに来てくれ」
それだけ告げて、電話は切れる。
「…………………………あ……」
腕に力が入らず、携帯を落とす。無意識のうちに拾おうと腰を落とすと、土の向こうに崖下が広がっているのが、ぼんやりと見えた。ついさっきまで、僕はどんな気持ちでこの下を見ていたんだろうか。もう思い出せない。わからない。何もかも変わってしまったように思える。僕だけが別の現実を送っているんじゃないか。僕だけが夢を見ているんじゃないか。僕の脳みそだけ、別の体に入ってしまったんじゃないか。僕の視界だけ、僕の世界だけ、レイヤーがズレてしまったんじゃないか。喉が乾いたように、空気がなくなったように、魚のように喘ぎながら、詮無きことを考えている。でも違う。いまやるべきことは違う。とりあえず、落ちたものを探さなくては。落ちた――携帯だっけか。そう、携帯を探す……が視界が悪くてよく見えない。なんだ、と思う前に手が顔に触れて――。
自分が号泣していることに気が付いた。
「………………ああ……………………」
どうしてなんだろう。
どうして僕は生きているんだろう。
携帯に伸ばした手を、諦めて、そのまま握りしめた。なにも持っていない。なにもつかめない。どこにも手が届かない。
どうして僕じゃなかったんだろう。
四つん這いになって、うずくまる。虫になったように丸くなる。
また僕のせいで――大切な人が死んでしまう。
「ああああああああぁぁぁぁ…………!」
僕が轢かれれば良かったのに。僕が撥ねられれば良かったのに。僕が死ねば良かったのに。
どうして――どうして。
どうして僕は、姉ちゃんとの約束を破ったんだろう。
どうして僕は、由美との約束を破ったんだろう。
どうしてまた――同じことを繰り返してしまったんだろう。
「――あああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ………………っっ!」
腹のそこから、勝手に叫び声が出てきた。体と心が、意思に反して泣き喚いた。
兄貴が死んだ場所で、あの日の姉ちゃんのように。
こんなことをしている場合じゃないのに、泣いている場合じゃないのに、今すぐに病院へ行かなくてはいけないのに。体がどうしても、動かなかった。叫ぶことをやめなかった。
――お願いです、神様。何でもします。僕の命を捧げます。由美だけは、由美だけは助けてください。
「お願いします……! お願いします……お願いします……!」
この世の何もかもに対して、謝罪するように、許しを乞うように、ただ泣いて、願い続けた。
――どうやって来たのか、覚えていない。
病院に着いて、バイクを停める。緊急外来の受付に行くと、待合所に太田さんがいた。
「太田さん……」
声をかけると、太田さんが振り向いて、ぎょっとした。僕の泣きはらした顔を見たからだろうか。
「誠二くん……」
「――由美は……?」
どうなりましたか、とは聞けなかった。
太田さんは首を振って、「まだ手術中だよ」と言った。
「運ばれる前は、意識があったみたいだ――だから大丈夫。きっと良くなる」
「そう――ですか」
意識があった。それだけで、兄貴の時とは違う。
などと。
少なからず安堵した僕を――僕は殴りつけたかった。殺したかった。
「手術室の前に、おじいさんとおばあさんがいる。挨拶しておいで」
「はい……」
促されるまま、先へ進む。
しばらく行くと、ベンチに、おじいさんとおばあさんが座っていた。
もう一歩前へ踏み出すと、気が付いたおばあさんがこちらを向いた。目が合って、それ以上動けなくなる。
「…………こっちへ」
静かに促され、ベンチへ近づいていく。
踏み出す両足が、自分のものではなくなったように、自動的に進んでいく。でもそれでいい。そうでもないと、一歩も動けなかっただろうから。
「救急車で運ばれる時にねぇ……」
おばあさんが、ぼそりと言った。僕には目もくれず、ひたすら掌だけを見て。
「あんたの名前を呼んでたそうなんだよ」
「っ――――!」
見えない透明な重い塊が、僕の頭にずん、と伸し掛った。このまま押しつぶされて死んでしまえればいいのに。
「あの子までなくしたら、私たちももう……」
嗚咽を漏らしたおばあさんの背中を、隣に座っているおじいさんが、とんとん、と叩く。
おばあさんは、続けた。
「夜になって、あの子がやけに急いで出ていこうとしたから、嫌な予感がしてねぇ……。あのときみたいな、嫌な感じで……。私は止めたんだけど、それでもあの子、出ていこうとして……。どうしたの、って聞いたら、すごい剣幕で叫ぶんだよ…………」
「…………おい」
おじいさんが口を挟んだ。それは話すべきことじゃないとでも、言うように。
でも――わかる。それは、聞かなければならないことだ。僕が聞いておかなければならないことだ。
責任なんだ、僕の。
「あの子がね、由美が……私の肩を掴んで、言うんだよ。『誠二くんが死んじゃう』って」
おばあさんの言葉が、慟哭が、やけに遠くで聞こえる。
ちゃんと――受け止めろ。
心に――刻み込め。
これがお前のやったことだ。逃れられない、お前の罪だ。逃れようとした、お前への罰なんだ。
真正面から――向き合え。
そして、
「――すみません、でした」
頭を、下げた。
涙は、流れなかった。
まるで反省が見られない、自分自身でも、そんな態度に思えた。
頭が――心が麻痺して、ひどく冷静だった。何も感じられない――みたいだった。どうしてこんなになってしまったのかわからない。けれどそれが余計に、自分から人間性を奪っていくようだった。
おばあさんが立ち上がり、泣きながら去っていく。すれ違いざまに体がぶつかって、僕は少したたらを踏んだ。
僕は。
なんてことをしたんだろう。
「…………お座りなさい」
廊下の床を凝視している僕に、おじいさんが言ってくれた。
断る理由がない。僕はどんな要求をされても逆らう権利はない。
その場に正座した。床は冷たく、固かったが、気にならなかった。
おじいさんが、困ったように笑う。なにか困らせるようなことをしてしまっただろうか。
「そこは、寒いだろう。こっちへおいでなさい」
ぽんぽん、と隣を叩く。
「……………………はい」
ベンチに座れという意味だったのか――と、ぼんやり考えて、言われるままにした。おじいさんの隣に座る。
「祖父の私が言うのも何だけれど――あの子は可哀想な子でね」
初めて聞くその声は、穏やかで、知的で、優しげなものだった。
「由美から聞いているだろうが……あの子の両親は仕事熱心でね……。海外なんかにも、しょっちゅう行っていた。……いや、むしろ、日本にいることの方が少なかったね……」
「……はい」
整備士――だったはずだ。お父さんも、お母さんも。それも、ショップのではない。レースチームの――
一年の大半は、海外を転々と渡り歩く。
「由美も小さい頃は一緒に連れて行ったんだが……ある時期を境に日本に残るようになってね……。八歳くらいだったかな。あの子も元気に振舞ってはいたけれど……。寂しそうだったね……ずっと……」
そういえば、ここ最近も、そうだった。いつも元気そうにはしていたけれど――寂しそうだった、由美は……。
「それでも、小学校を卒業して、中学校に入学して――だんだん落ち着いて来たんだ。でもね、三年生になったその矢先にあの事故があって……。可哀想だったね……。本当に、いなくなってしまったんだから」
「――事故……?」
訝しげに呟くと、おじいさんは意外そうに目を細めて、そうか、と言った。
「まだ話してなかったんだね」
「なにを、ですか……?」
おじいさんは、遠い過去を懐かしむように、小さく呟く。
「由美の両親は――飛行機事故で死んだんだ」
「え――?」
「イタリアのムジェロ――。知っているかな。大きなサーキットがあるんだよ。そこに向かう途中でね。あの子の両親――私の息子夫婦だが。一年前にね……」
――そんな。
だって由美は、そんなこと、一言も。
「言えなかったんだろう。きっと、君には、特に」
「――どうして」
「両親の報せを聞いて、由美は酷く荒れた。私達では手に負えないくらいね……。本当に大変だった。少しでも目を離すと――」
おじいさんは、そこで言葉を切った。そして、遠くを見つめるように、言った。
「君の使っていた部屋、川が見える窓があるだろう?」
「はい」
「そこから何度かね……。足を折ったこともあった。傷も残ってしまってね」
…………それで。
だからあいつは、いつも足を隠していたのか。
「――本当に、よく生きていてくれたよ」
深い溜息を吐いて、僕を見た。皺だらけの顔で、しかし眼光は鋭く、僕を見据えた。
「君は、あの頃の由美と同じ顔をしている」
何も――何も言えなかった。その通りだと、思ったから。きっとそうなんだろうと、思ったから。
あいつに、初めてあの部屋に訪れたとき、釘を刺されなかったら、僕もきっと同じことをしただろうから。
由美にはきっと――それがわかっていたんだ。
「由美が初めて君を連れてきたとき、そう思ったよ。君は由美と同じで――君が由美を繋ぎ留めたのだと」
そうして、思い出した。
太田さんの、あの言葉。
――僕も、君みたいな人は何人か見てきた。大事な人を亡くしてしまった人を。
――忘れろなんて言えないし、向き合い方もそれぞれだ。でもね、君がそんな顔をしていると、由美ちゃんが可哀想だ。
――辛いのは、君だけじゃない。残された人はみんな、辛いんだ。わかるだろ?
わかっていなかった。
由美も、辛かったのだ。
由美も、僕と同じように、大事な人を亡くしたのだ。そして――。
――いいかい? 決して、安易に逃げ出したりしては、いけないよ?
そしてきっと、由美も僕と同じことをしようとした。けれど乗り越えた。そこが僕とは、決定的に違う――。
「同じじゃ……ありません……」
「うん?」
「由美は……由美は乗り越えたんです……。でも俺は……今日、さっき……死のうとしました。今でも、その気持ちは消えません……俺は……俺は……」
「誠二くん」
遮って、おじいさんが言う。
「一つ、頼みがある」
「……………………」
「由美のそばにいてやってほしい」
「……………………由美の」
「そうだ。由美が死ぬまで、君に見守ってほしい」
「……………………俺に……俺に、そんなこと、そんな資格は……」
「ないだろう」
きっぱりと、おじいさんは言った。
「だから、それを見つけるんだ。それを得るんだ。君が、君自身が、由美を見守る人物に価すると判断できるまで――探し続けなさい」
「……………………俺が」
「それが叶うまで、私は君を許さない。孫娘をこんな目にあわせた元凶である君を、私は決して許さない。――だが」
僕の瞳を、見る。
先ほどのような鋭さは、もうなかった。どころか――微笑まれた、気がした。
優しげに、しかし確信的に、おじいさんは僕に言う。
「君がいてくれたから、由美はあれを乗り越えることができたのだ。確かに、あのとき君は近くにいなかったろう。だが、由美を生に繋ぎ留めたのは……君なのだと、私は思う」
――そんな。
そんな、ことを。そんなことが。あるわけない。ありえない。
「君が来てくれた、この二週間。由美は本当に楽しそうだった。幸せそうだった。誠二くん――礼を言うよ」
「やめてください……。そんな、そんなこと……」
「君がどうしてそんな顔をしているのかはわからない。何が君をそこまで追い詰めたのかもわからない。けれど――どうか頼まれてほしい」
「俺は――俺は」
「――頼む」
頭を下げる、おじいさん。
――なんでだよ。
どうして僕なんかに頼るんだ。やめてくれ、違うんだ。僕にそんなこと出来ない。してはいけない。僕はもう二度と――誰かの人生に踏み込んじゃいけない。口を出しては、いけない。僕がどうしたいか、じゃない。僕はもう、何もしてはいけない。
そのはずだ。
そのはずなのに――!
「…………はい」
僕は、頷いていた。
出来もしない約束を――また、してしまった。
だけど。
でも。
もう二度と――繰り返さない。
「………………俺が、由美のそばにいます。由美が死ぬまで、見守ります。その資格を――探します」
絶対に、繰り返さない。
「――ありがとう」
そう言って、おじいさんは、再び微笑んだ。安堵したように、笑った。
それは――あのとき、もう少しだけ宿に泊まると告げたときに、由美が見せたものと、同じ笑みだった。
今ならば、わかる。
この笑顔が、僕を――死を願う僕を慮ってのものであると。
僕は――。
僕は、約束を、したのだ。たった今。
由美が死ぬまで――僕は、死なない。死ねない。死ぬ権利が、無くなった。
僕は死ぬまで――許されないのだ。
今はそれが、とても嬉しかった。
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