5.保健室

 ボクは、少しばかり落ち込んでいた。何をどう間違えたのか、本をネタにした会話でも、虐待に繋がるような話は聞けなかった。あの調子では、例え直截に聞けたとしても、玲奈から虐待の証言を得ることは難しいように思えた。

 何か、別の手を考えなければならないと思った。

 ボクは、職員室に向けて、あまり似つかわしくない歩幅で歩いていた。

 人影の途絶えた放課後の廊下は、静かだった。随分と寂しく感じるのは、ボクが、小学校の喧噪に慣れたためかもしれない。

 ずらりとならぶ靴箱を横目に見ながら、玄関を通り過ぎると、突然、脇にあったドアが開いた。

「コラ! 早く帰り……」

 ボクは、よろけるようにして後退った。

「あら。室田先生でしたか」

 玄関脇の小部屋は保健室で、そこから飛び出してきたのは、保健の関先生だった。

 ボクは、突然の事に、言葉が出てこなかった。

「どうかしました?」

「えと、どうと言いますと?」

 関先生は、何だか不思議なものを見るような目で、ボクを見ていた。

「元気ないじゃないですか。足音を聞いて、てっきり児童かと思いましたよ」

 ボクは、力なく苦笑いを浮かべると、ちょっとの間、逡巡した。関先生に、相談するかどうかだ。昨日も考えたのだ。だが、その時は決心が付かなかった。

 しかし、玲奈本人からそれらしい情報が得られないとなると、別の手を考えざるを得なかった。

 ボクは、躊躇いながら、とつとつと切り出した。

「ちょっと、ご相談したいことがあるんですが……」

 関先生は、おそらくは、仕事の顔であろう、優しげな笑顔を浮かべると「どうぞ」と言って、ドアの脇に身を寄せた。ボクは、頭をぶつけないよう、屈んでドアを潜った。とたんに、鼻腔全体を消毒薬の匂いが覆った。

 関先生が自分の椅子に腰掛け、ボクは、校庭を横目に見ながら、回転式の丸椅子に腰掛けた。

「五月病? それとも児童のことですか?」

「児童のことです」

 相談することを考えていたとは言え、いざとなると、それ以上、言葉が出てこなかった。

「また、鳥越君ですか」

 1週間ほど前、稔が派手に転び、保健室に担ぎ込んだことがあったのだ。その時は、胸を強く打って呼吸困難になっただけだったので、関先生は、擦りむいた顎の先を消毒しただけだった。

「それとも、赤羽さんですか?」

 ボクは、驚いて関先生の目を見た。

「良く分かりますね」

「分かるも何も」

 関先生は、小さくため息を付いて言葉を続けた。

「先生のところには3人しかいないじゃないですか。それに、相談するかどうか悩むってことは、児童の健康に関わることじゃないんでしょ。それ以外で、男の先生が相談したいことといったら女児の扱いくらいかなと思うじゃないですか」

 ボクは「なるほど」と妙に納得しつつ、切り出し方を考えた。

「最近、ちょっと不安定になっているんです」

「少し早めだけど、早い子は、思春期に入りますよ」

「そうですか。でも、そういう事とは別に、理由があって不安定になっているみたいなんです」

 関先生は、肯いただけで黙っていた。

「あの子は、児童養護施設で暮らしてるんですが、父親が引き取ろうとしているようなんです」

「3月の事件の?」

「ええ。ですが、本人はそれを嫌がってます。ただし、理由ははっきりしません。嫌っていることは確かですが」

 ボクは、そこまで言うと、言葉を切った。

「ですが、ある人から情報提供があって、赤羽さんが、父親から性的虐待を受けていたって言うんです」

「それで?」

「事実なら、赤羽さんを、父親の元に返すことはできません。本人も望んでないし、施設にいることが適当だと思います。でも、情報提供者は、性的虐待について、玲奈本人には聞くなと言うんです」

「どうしてです?」

「彼女が傷つくからって」

 ボクが口ごもると、沈黙が訪れた。

「何だか釈然としないところもあるわね。で、室田先生は、私に何を相談したかったんです?」

「医学的な方法で、性的虐待を証明することはできないでしょうか?」

 関先生は、白衣の胸ポケットに刺していたボールペンを抜き取ると、それをこめかみに当てた。

「処女膜裂傷の有無を確認することはできますが、それが性的虐待によるかどうか判断するのは難しいですね」

「でも」

 ボクは、食い下がった。

「まだ子供ですよ。他にどんな可能性があるって言うんですか?」

「虐待は、いつ頃から始まったんです?」

 関先生は、ちょっとあきれたような表情を浮かべて聞いた。

「就学前だと聞きました」

「だとしたら、尚更です。3年以上前の虐待を証明するなんて無理よ」

「でも、でも」ボクは、歯噛みしながら呟いた。

「ただし、非処女なら、疑いは濃厚だとは言えるでしょうね」

「それなら」

 ボクは、勢い込んで尋ねた。

「診察してもらえますか?」

 関先生は、しばらくボールペンを右手の中で回していたが、最後にちょっと肩をすくめて言った。

「やるだけやってみましょう。ただし、室田先生から診察をするという話はして下さいね。私よりもコミュニケーションが取れるでしょうから。それに……逆の証明が出来てしまうかもしれませんが、それは承知しておいてください」

「どういうことです?」

「もし、今も処女なら、虐待が無かった証明になってしまうかもしれないってことですよ。もっとも、性的虐待とは言っても、性行為があったかどうかは分からないから、完全ではないけどもね」

 ボクは、勢い込んで立ち上がった。そして、丸椅子が派手な音を立てることにも構わず、深々と頭を下げた。

 この時、もうボクは、虐待がなかった可能性は考えていなかった。一度会ったきりだったが、明日奈が嘘をついているようには思えなかったからだ。

 証明にはならなくとも、非処女なら、関係者を説得する材料にはなる。

 ボクは、少し浮かれていた。

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