2.三人

「これが生徒のプロフィールです。とりあえず目を通しておいて下さい。室田先生の机は、あそこです」

 樫山教頭が指したのは、職員室の入り口に最も近い机だった。室田先生と呼ばれたことで、なんだかこそばゆい思いがする。

「後ほど教室に案内します」

 自分の机に戻って行く樫山教頭を見送ると、ボクは、改めてあてがわれた机を見つめた。新米のボクと違って年期物だった。

 ボクは、あてがわれた机にフォルダを置くと、隣の教諭に軽く頭を下げ、さっそく中を覗いた。中に入っていたファイルは、3人分のプロフィールだった。特殊学級の定員は8人までなので、8人もいたらどうしよう、と思っていたが、これならなんとかやっていけそうだ。

 これから少なくとも数ヶ月、ボクの生徒になる子供達だ。どんな子供たちなんだろう。ファイルを見ることは怖くもあったが、早く見たい気持ちも強かった。フォルダから慌ただしく取り出すと、上から順にめくって見た。

 1番上は、佐橋明(さはし あきら)、6年生。軽度の知的障害だが、脳障害や内部障害といった合併症はない。学力が小3レベルであることを除けば、健常児と変らないようだ。手もかからないだろう。

 2番目は、鳥越稔(とりごえ みのる)、2年生。多動性障害と呼ばれる発達障害(今で言うところのADHD)があり、普通学級で入学したものの、先生の手に負えず、特殊学級に移ってきたようだ。

 席に着いていることができず、授業中も教室内を走り回ったり、突然歌い出したりするらしい。遺伝的要素が原因らしいので、指導でどうこうできるものではなかったはずだ。

 成長と共に改善するはずなので、なんとか注意を引きつけて、学力を付けさせる努力をするしかないだろう。この子に関しては、ボクが頑張るしかなさそうだ。

 最後は、唯一の女の子、赤羽玲奈(あかばね れな)、4年生。プロフィールには自閉症で、誰ともコミュニケーションをとらず、本に強い執着を持っていると書かれていた。注意深く読んだが、知能障害があるかどうかは書かれていない。

 本に興味を持っていることを考えても、知的障害を伴う伝統的な自閉症ではなく、高機能自閉症とも呼ばれるアスペルガー障害かもしれない。

 一般家庭ではなく、児童養護施設から通学しているようなので、ボクは、先天的な問題ではなく、家庭環境の問題から人格障害(現パーソナリティ障害)になっている可能性もあんじゃないだろうかと考えた。もっとも、それを判断するのは医者の仕事だ。この子は、手はかからないかもしれないが、ある意味、もっとも注意を要する子であるように思われた。

 ファイルに一通り目を通すと、あらためて職員室を見回した。ボクの机は廊下側にあり、すぐ右手が入り口になっている。机から目を上げれば、コの字型になった机を挟んで、窓から校庭が見えた。授業を終えた子供達が、ボールや縄跳びで遊んでいた。

 本当にここで教えることになるのか、まだ実感が持てなかったが、歓声を上げ、元気に弾んでいる子供達を見ていると、少し近づけた気がした。自然と笑みがこぼれた。

「子供は好きですか」

 驚いて振り向くと、いつのまにか樫山教頭が、立っていた。慌てて立ち上がったおかげで、椅子が派手な音を上げて倒れた。

「いえ、ここで教えるんだなと思いまして」

 そそくさと、椅子を起こしながら答える。

「そうですか。好きでなければ、やってけませんよ」

「あ、いえ、もちろん好きですけど、何だか改めて言われると……」

 樫山教頭が見せた笑顔は、少し優しげだった。

「教室に案内します」

 ボクは、ノートを引っ掴むと、歩き始めた教頭の後を、慌てて追った。


 放課後の廊下は、意外な程静かだった。廊下が校庭とは反対側に設けられているためもあるだろう。時折、残っていた児童が、傍らを駆け去るだけだ。その都度、教頭が「廊下を走っては駄目だよ」と声をかけていた。

 ボクは、樫山教頭の斜め後を、少し背を丸めて歩いた。普段から背を丸めている訳ではない。なんだか場違いな感じがして、校舎に遠慮していたのかもしれない。

「プロフィールに書かれていないことを、お話しておきましょう」

 樫山教頭は、歩きながら、何気ない調子で話始めたが、その低めた声色に、緊張と用心深さが混じっていることに気が付いた。

「室田先生は、3月に市内で起った殺人未遂事件をご存じですか?」

「いえ。この4月に越してきたものですから、3月のことは……」

「そうですか。では、まず事件についてお話しましょう」

 樫山教頭は、わずかに歩みを遅くした。

「3月22日、市内に住んでいた赤羽雄一さんが、自宅で就寝中に、包丁で胸を刺されました。室田先生に担任して頂く、赤羽玲奈さんのお父さんです。ただし、養父なので血のつながりはありません」

 話は、クラスの紅一点、赤羽玲奈に関することらしい。

「赤羽雄一さん本人による119番通報で、救急隊員が駆けつけた時には、自宅の玄関は、内側から施錠された状態だったそうです。凶器は自宅にあった三徳包丁でした。布団の脇に落ちていたものが、警察によって発見されています。形状は傷跡とも一致したそうですが、指紋は雄一さん本人のものしか発見されなかったようです」

 いわゆる密室での事件のようだ。凶器からは、犯人の証拠が出てこなかったということだろう。

「家には、雄一さんと玲奈さんの二人で住まわれていました。奥さんは、玲奈さんが本校に入学する前に、失踪されています。救急隊員が駆けつけた際、玲奈さんは、雄一さんの寝室にいたそうです。パジャマ姿で、呆然としている状態で発見されました。胸から腰付近まで、雄一さんの血を浴びて、血だらけだったそうです」

 話の途中で、なぜ学校の先生が、こんなにも事情を知っているのか疑問に思ったが、だいたいの想像がボクにもできてきた。

 樫山教頭は、そこまで話すと、歩みを止めた。話が核心に及ぶのだろう。ボクは、耳に全神経を集中させながら、生唾を飲み込んだ。

「このような状況でしたから、警察は、小学校4年生とは言え、玲奈さんに疑念の目を向けました。ですが、玲奈さんは、誰とも意思疎通できませんから、警察が聴取しようとしても、首を振るだけで、何も話さなかったようです。それに、何より、雄一さん本人が否定をされました。顔は見ていないが、犯人は大人の男性だったと言ったそうなんです」

 10mほど先の教室から、また児童が飛び出して、ボクたちの脇をすり抜けていった。

「家庭裁判所は、玲奈さんを児童自立支援施設に送ることも検討したようですが、物的証拠もなく、雄一さんの供述でも否定されたため、結局は、審判も開かれませんでした。捜査はまだ継続中のようですが、有力な手がかりは見つかっていないようです」

 樫山教頭は、そこまで話すと、再び歩き出した。ボクは、後を追いながら、初めて問いを発した。

「教頭先生は、玲奈さんが刺したと考えているんですか」

「分かりません。それに、それは我々の考えることではありません。我々の仕事は、犯人が誰であるにせよ、玲奈さんを教え導くことです。もし彼女が、私たちとコミュニケーションがとれるようになれば、彼女が見たことも話してもらえるかもしれませんがね」

 確かにそうだ。犯人捜しはボクの仕事じゃない。だが、気になった。怖くなったからじゃない。もしその子が犯人なら、その子は、人を刺す程の心の傷を負っているはずだからだ。人間は、いや動物は、本能的に同じ種を殺すことに強い抵抗感を持つという。理性より本能で行動することが多い子供であればなおさらだ。それにも関わらず、その子が、殺意を持ったのだとしたら、余程特殊な心的環境に置かれたということだろう。

 ボク達の足音は、奇妙な広がりをもって、廊下に響いていた。外から響いてくる子供達の歓声が、耳鳴りのように響いている。廊下の奥に、あすなろ学級と書かれた札が見えてきた。あれが目指す特殊学級だろう。同じ1階だが、職員室からは、玄関を挟んで、もっとも遠い場所に位置しているようだ。

 ボク達が歩みを進めると、そのあすなろ学級から、小さな人影が出てきた。赤いランドセルを背負っている。女の子だ。

 ボクの視線は、その子に吸い込まれた。

 赤羽玲奈。身長は、2年生くらいしかない。髪は、ざっくりと男の子のようなショートに刈られていた。顔立ちは、子供らしいまるみはあるものの、全体的に細く、線の細さというより、何か無機質な感じさえする。

 白とブルーのストライプが入ったTシャツに、薄いブルーのハーフパンツをはいていた。Tシャツからは、細く白い腕が伸びていたが、左の手首には包帯が巻かれている。

 だが、そんなことよりも、何よりその子の目が気になった。何も見ていないのだ。視線はただ前を見つめ、どこにも焦点が合っていないようにさえ見えた。ボク達の横を通り過ぎる時でさえ、ボクらに視線を向けるどころか、まるで存在に気付いていないかのようだった。

 ボクは、その子の後ろ姿を、目で追った。

「いつもあんな感じなんですか?」

「そうらしいですね。もっとも、本を見つめている時だけは、もう少し生気のある顔をしているみたいですよ」

 本に興味を持つのは良い事だ。だが、人に興味を持たないことは、悲しいこと、いや、異常なことのように思えた。

「あの包帯はなんですか?」

「自傷癖もあるんですよ」

 あの子が、一人で手首を切っている様を想像して、背筋が冷えた。

「行きましょう。野々村先生がいるはずです」

 そう言うと、樫山教頭は、あすなろ学級に向かった。ドアをあけると、教卓で書き物をしていた20代後半と見える男性教師が、視線を上げた。大して年齢は違わないはずだが、なんだか、疲れ切った顔をしている。ボクは、すかさず頭を下げた。生徒は、全員帰宅した後のようだ。ガランとした教室に、疲労と倦怠が漂っていた。

「来週から、あすなろ学級を見てくれることになった室田先生です」

 ボクは、改めて深々と頭を下げて言った。

「宜しくお願いします」

 後で聞いた話だが、本来の先生がケガをした以降、3人の先生が、日替わりの持ち回りで、あすなろ学級を見ていたそうだ。

「助かった。やっと開放されますね」

 野々村先生は、心底安堵した表情を見せていた。

 樫山教頭は、申し送りをするよう言い渡すと、これまた肩の荷が下りたという様子で、去っていった。

「特殊学級で教えた経験は?」

「いえ。3月に大学を出たばっかりです」

 野々村先生は、肩をすくめると「そりゃ大変ですね」と言った。不安のバロメーターは、右肩上がりだった。だから、生徒達の情報を、少しでも多く集めたいと思った。

「教頭先生から、3人のプロフィールは見せて頂きました」

 野々村先生は、肯いて立ち上がると、小ぶりな教室に並べられた机に目をやった。

「廊下側の机が、鳥越くん。窓際だと注意が削がれてしまうからね。真ん中が佐橋くん。鳥越くんと赤羽さんの距離を、なるべく離すためです」

 野々村先生の声は、どこか晴れ晴れとしていた。

「仲が悪いんですか?」

「ではないのですが、鳥越くんが、ちょっかいを出らしいのです。赤羽さんは、無反応らしいですが」

 野々村先生は、またもや、肩をすくめた。

「先生は、ちょっかいを出すところを見てないんですか?」

「お。鋭いですね。そう。実は見てません。三船先生がケガをしてから、あすなろ学級を見始めましたが、鳥越くんは、むしろ避けてる感じに見えます。その方が楽でいいんだけどね」

 赤羽さんがキレでもしたのだろうか。

「やっぱり、いちばん手がかかるのは鳥越くんですか?」

「普段はね。どうしても目を離せないから。ただ……」

 野々村先生の視線は、窓際の赤羽さんの机に向けられた。

「赤羽さんは、読む本がなくなると、パニックになることがあるらしいんです。だから、未読の本を切らさないようにしないといけない」

「未読ですか?」

「なんでも、読了した本は読まないそうです」

「辞書を引きながら読むんでしょうか?」

 机の中央には、国語辞書が置かれていた。

「いえ。辞書を読ませてるのです」

 野々村先生の声には、悔悟の色は混じっていなかった。ボクは、眉根を寄せることを止められなかった。

「辞書をですか?」

 どうしても非難がましい調子になってしまった。

「ええ。良くないと思ってはいるのですが、赤羽さんが本を読むスピードが、ものすごく速いものですから、辞書でも与えておかないと、本を用意するだけで一苦労なのです。本校では、図書館の本は、あすなろ学級の児童には貸し出していないので、先生が借りて持ってくるしかないんですよ」

 それにしたって、借りてくることができないほどではないだろう。ものすごく早いとしても、1日1冊もあればいいはずだ。それに、授業だってある。

「授業は、どうしてるんです?」

「赤羽さんに関しては、教えることはありませんよ。4年生の教科書は、4月中に全部読んでしまったそうです」

 多分、ボクは、怪訝を絵に描いたような顔をしていたのだろう。

「学力だけなら、普通学級のトップクラスでも適いません。でも、誰とも交流は持たないし、本が無くなればパニックを起こす。いっしょにはさせられない。本を与えて、放っておくしかないのです」

 ボクは、野々村先生の、さも当然とでも言いたげな態度に腹が立った。

 野々村先生の言う通りだとしたら、辞書を与えて放置していることになる。その子の心にアクセスする手段が本しかないかもしれない児童に、ただの情報の塊でしかない辞書を与えておくなんて、間違っている。その子との接触を、放棄しているも同然だった。

 赤羽さんには、情緒的発展の見込めるような本を与えよう。ボクのその決意は、その後、ボクにちょっとした困難を与えることになった。

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